01-06 この場所から離れてはいけない
眩暈に襲われ部室から離れた磯野。見えるものがやけに薄い。だが、体調不良が原因ではない。異常なのは世界の方だった。無人・無音の世界を磯野は部室へと戻る。
千代田怜やほかの鞄の中もさがしてみた。だが、当然見つからない。
ぐったりとしながら本棚を見ると、映画『オデッセイ』のDVDジャケットに映るマッド・デイモンと目が合った。
俺はただ一人、この異世界に取り残されたんじゃないのか?
そうじゃなければ、あの大学ノートを誰かが持ち出したっていうのか? もし持ち出したのなら、この空間に俺以外にも人間がいるってことなのか? だとしたらなんのために?
得体の知れない存在への予感に背筋に冷たいものを感じながら、ほかに取られたものはないか部室を見回した。ざっと見た限りでは、どこも変わっているようには見えない。
――もう一人の人間
ふと、文化棟の玄関前で見た光景が頭をよぎった。
キャスケットの子。
今日一日、大学ノートのほかに不可解な存在があるとするならば、わずかな時間のあいだに視界から忽然と消えてしまった彼女、だが……いや、考えすぎだろう。そもそも関係があるようにも思えない。けれども――
「マジかよ」
文化棟玄関までたどり着いた俺は、目の前の光景に愕然とした。
――この灰色の世界は、南門までしか存在していなかった。
いや、正確に言えば、南門から先が、真っ黒に塗りつぶされていた。
あれが空間なのかもわからない。あらゆる光を吸収する、いわゆる完全黒体のようなもので覆われた巨大な壁なのかもしれない。
南門まで近づいても、目の前は真っ黒なままだった。
黒い壁? それとも、何も無い空間? 目の前の黒は、壁のように大学の敷地を取り囲んでいるように見える。
……いったん落ち着け。
このわけのわからない状況を整理しろ。
この世界は、明らかに異常であることはたしかだ。
まるで夢でも見ているかのように。
――まてよ、これは夢なんじゃないか?
夢。それならすべての不可解なことに説明がつく。
俺は目の前の、謎のモノリスのような黒を見た。
もし夢ならこの真っ黒にぶつかってみてもいいんじゃないか? それで目の前のものが物体などではなく奈落のような底無し空間だとしたら、そのまま落ちてしまえばこんな夢からおさらばできるんじゃないだろうか。
いや、ダメだダメだ。俺は高所恐怖症なのだ。けれど目覚めるには、それくらいの強烈なショックが必要なんじゃ……まて、ちょっとまって。とりあえず落ち着こう。
左手に持っている飲みかけのペットボトル。キャップを取り、残りのお茶を飲み干す。のどから食道をとおって温いお茶が胃へ流れ込んでいく感触が伝わってきた。やはり現実なんだろうか……。
そうだ。
手に持っていたペットボトルを、俺は目の前の黒へ投げ込んだ。
ペットボトルは黒い壁をすんなりと越え、カランと地面を跳ねる音が聞こえてきた。
とりあえず崖でも壁でもなく、地面が続いているらしい。
目の前の黒い空間は、光が当たっていない状態なのか? けれど、光源らしきものが無い時点で、明るい場所と目の前の暗闇が線を引いたようにわかれて同居できる意味が解らない。
そのとき、まるで一斉にライトアップされたかのように、真っ暗だった空間の先が照らし出された。しかし、実際にあるはずの風景はそこにはなかった。
目の前にはグラウンド。
そして思う。このグラウンドを俺は知らない。
一歩踏み出すべきだろうか。だが、
――この場所から離れてはいけない。
脳裏に浮かんだ予感めいたその言葉に俺は動揺した。
ここは立ち止まるべきなのだろうか。
けれど、ほかに行くあてもないなかで俺がやるべきことは、いち早くこの世界から脱け出す方法を見つけ出すことなんじゃないか? そうだよ、このままここにいたってしょうがないじゃないか。
思い切って俺は一歩踏み出した。
なにも変わらない。
まったく……なんの根拠もない予感なんか――
「え?」
うしろを振りむくといままであったはずの大学が消えていた。
あたりを見渡すとまるで瞬間移動でもしたかのように、グラウンドの真ん中に俺は立ち尽くしていた。そして目の前に見える丘には、
――まるで『インディペンデンス・デイ』に出てきたUFOのような、巨大建造物が鎮座していた。
なんだ、なんなんだあれは。
俺は、SF映画の中にでもいるのか?
五階ほどの高さがあるのだろうか、ドーム型のその建物には何本か高架が方々へと延びていた。
なにかの駅なのだろうか?
高架は二種類あり、ふだん見るような線路を走らせるものと、建造物からゆっくりと下降するカーブを描いていく、円柱状の――チューブのような形状のもの。どちらにしろ、現実世界では見たことがない。振りかえると、グラウンドの先には中学か高校なのであろう、校舎のような建物があった。
なんというか、深みにハマった感覚がある。
さっきのこの場所から離れてはいけないという予感は正しかったのだろうか。
けれど、戻るべき大学への道も無いいま、俺はどうすればいい?
待てば目が覚めるのだろうか。いや、もし夢にしたって、時間の経過によって、その目覚めるために必要なきっかけを失ってしまうかもしれない。
とにかく動け。ここから出る方法を見つけるにはそれしかない。
建物の横を抜け、俺は歩道へと出た。歩道は坂道になっていて、例の巨大建造物へとつづいている。 ふと、この校舎がなんの学校なのか気になり校門を見た。が、表札にはなにも書かれていなかった。
――というより、あるべき場所に文字が無かった。
校門だけじゃない。目の前の建物の窓や玄関の、文字があったであろう余白。不自然な空欄のある青看板の道路標識。文字が書かれているであろうどの場所にも、文字が一つも無かった。
丘に向かって百メートルちかく歩くと、謎の建造物が見えてきた。
巨大建造物の周囲には、近未来的な幾何学デザインの建物があり、一つの小さな街のような空間となっていた。
俺はロータリーと、おそらく駅前広場であろう場所を通り、エントランスに入った。内部は吹き抜けられた広い空間の左右にいくつもショッピングウインドウや通路が連なり、奥には空港ゲートのような、改札口のようなものが見えた。ここでもあるべき場所に文字は見当たらない。