10-02 磯野君が重なり合う状態でも結果的には君一人に収束されるはずだったんだ
ドッペルゲンガー対策に、柳井は、あえて磯野の位置情報を共有し、互いの接触を回避させることを思いついたが――
厄介なこと?
「三馬、それはどういうことだ?」
「柳井、もともと磯野君が二つの世界を行き来している時点で、この世界に負荷がかかっているんだ。いわゆる正常な世界から変質してしまう歪みの原因となる。この場合、ねじれと言ったほうが良いかな。しかし、いままでは世界に対して大きな変化が起こらなかったため心配は無かった。この世界において目の前の磯野君が観測され続けているわけだから、二重スリット実験のように、磯野君が重なり合う状態でも結果的には君一人に収束されるはずだったんだ」
「二重スリット実験?」
「あーつまり……量子力学の世界だと、電子や光は一つの粒子としていろんな場所に同時に存在しているが、いざ観測されると、その粒子の位置は一箇所に決定されてしまう。要するに、量子の世界では粒子であり波であるという両方の性質を持つということが、二重スリット実験で示されたんだ」
と、柳井さんが俺たちに補足した。
三馬さんは「ところがだ」と言って俺を見る。
「大学ノートによって重ねられた磯野君が、君一人に収束されずにドッペルゲンガーとしてこの世界に現れたとなると、この世界に二人の磯野君が存在してしまう。これはこの世界にとって、とても大きなねじれとなる。そのねじれた状態から我われとのやり取りが発生した場合、そこから分岐する無数の世界が新たに発生してしまい、比較的正常だった映研世界との隔たりが拡大してしまう」
「三馬、それはつまり、ドッペルゲンガーとやり取りをしたら、その事実によって、このオカ研世界がさらにねじれてしまうってことか?」
「そういうことだ、柳井。どうやったって大学ノートだけでおさまるしかない事象のはずだったのだが。目の前の磯野君一人に収束するとタカをくくって、ドッペルゲンガーの発生可能性について考えていなかった私が甘かったよ。申し訳ない。インフレーション状態から情報を引きだそうと少し欲張りすぎてしまったらしい」
「いえ。……けど俺には話がまったくわからなくて」
柳井さんは深刻な顔を向ける。
「磯野、俺も謝る。さっきのSNSは迂闊だった。……事態を簡単に説明すると、ドッペルゲンガーとの交信によって、このオカ研世界が、映研世界から急速に離れはじめてしまう危険がある」
「それって――」
「今回はあと三〇分もすれば映研世界に戻れるだろうが、次にこちらの世界にきたら、オカ研世界と映研世界のあいだの距離が離れすぎて、最悪、
――帰れなくなる可能性が出てくるってことだ」
……それって、つまり――
「このあと俺が映研世界に戻ったら、むこうにいられる時間内にすべての決着をつけなきゃいけないってこと、ですか」
柳井さんがうなずく。
「難しい……ですね」
俺の言葉に、三馬さんが代わりに答える。
「柳井がSNSに送信したとき、ドッペルゲンガーがすでに消えていたらいいのだが……。こればかりは祈るしかないな。しかし、まずはこのあと発生する入れ替わり時間の話をしよう。正確な時間がわかった。八月十六日二一時〇四分五七秒。これがこのあと発生する入れ替わりのタイミングになる」
「二一時四分五七秒ですか?」
「そうだ。あと……二〇分程度か」
三馬さんは腕時計から目を離す。
「電磁波研究所で公開されている、電離層観測装置の八月七日のデータを見てみたんだよ」
電磁波研究所? 電離層観測装置?
「三馬、八月七日に太陽フレアでも起こっていたのか?」
「そう思うだろう? 違うんだ柳井。電離層はいたって静穏でね。それにもかかわらず八月七日の午前一〇時十五分から三〇分のあいだ稚内観測所イオノグラムに通信障害のようなノイズが発生したんだ。この観測は一五分のインターバルで行われているんだが、その後は正常に動作していた」
「デリンジャー現象でも起こったのか? いや、電離層が静穏って言ったな。ならそんなことは起こらんか」
「ああ。仮にデリンジャー現象――電離層の異常による通信障害――だったとしても、非常に些細なもので、無視できるレベルのものだったらしい。しかしやはり気になってね、今度は気象庁の地磁気観測所に問い合わせてみたところ、一〇時二一分三七秒に一秒間、こちらの観測装置でも誤検出とされるノイズを見つけることが出来た。計測の関係で一秒単位となっているだけで、実際は一秒に満たないわずかな時間だろう。なぜ誤検出とされたかというと、普通では考えられない規模の、電磁気の乱れを観測したからだ」
「三馬。その規模って一体どれくらいのものなんだ?」
「それが磁気嵐だった場合、電圧制御が不能になり数日間に渡る停電が起こる。つまり大規模災害レベルだ。ところが実際には、稚内の観測所が一時的に不調になっただけで、他には何も起こっていない」
ただし、と三馬さんは続ける。
「よくよく調べてみると、この誤検出が四箇所の地磁気観測所から同時に発生していた。そして、今確認しているところでは、アメリカ、カナダ、イギリス、スウェーデンの各観測所でも同じ時間に、同様のノイズが発生していることが分かった。つまり――」
三馬さんは一度言葉を切り、この場にいる全員を見渡して言った。
「この異常観測は世界規模で起こっている」
世界規模の異常観測?
「それっていったい……なにが起こってるんです?」
「一言で言うなら、おそらくこの世界における特異点である可能性が高いということだ」
「特異点?」
「この話は長くなる。むこうの私から話を聞いた方がいい」
「……三馬、午前一〇時のその観測から、なんでこのあとの磯野の入れ替わり時間がわかったんだ?」
そこまで言った柳井さんは、ふと顔を上げて納得したようにつぶやいた。
「これも4時間02分55秒か」
「そうだ。特異点から4時間02分55秒後が、磯野君が色の薄い世界に訪れた時間になっている」
三馬さんは、慌ただしくテーブルの前を通り、ホワイトボードの前に立って、以下の内容を書き込んでいく。
八月七日
・一〇時二一分三七秒 異常観測
―――― 4時間02分55秒
・一四時二四分三二秒 色の薄い世界への接触
―――― 4時間02分55秒
・一八時二七分二七秒 色の薄い世界からの脱出
「これ以降も、一秒の狂いも無く入れ替わりが行われているとしたら、このあと二一時〇四分五七秒に磯野君は入れ替わる。時間が一致すればまさに運命的、いや、完全に何かの意思がはたらいていることになるだろう。そしてこの一連の起点である一〇時二一分三七秒――」
八月七日の一〇時二一分三七秒?
その日時に妙なひっかかりを感じた。
三馬さんは、しかしと付け加えたあと、腕時計を見て早口で言う。
「ここから先のことは、むこうの私が話してくれるだろう。それよりも急がねばならんな」





