09-02 だから、別の世界の俺が書いたものだとは思う
無数に重なり合う並行世界が、一つのノートを通して集約されている事実に、磯野たちは戸惑う。磯野が書いた覚えのない一文を三馬は指摘し――
「これも、俺の字……です。けど、」
「心当たりは無い?」
「はい。思い浮かべてはいません」
三馬さんはうなずいた。
「見てくれ。この一文は他と比べて、それ程にじんではいない」
「……たしかに、三馬これはなんだ?」
「柳井、語弊があるが突然変異のようなものだよ。無数の磯野君の中から、突如、違う観点から書き込まれた文章が現れる。ただ現在は、無数にいる磯野君の重なり具合はまだ強いと思うんだ。だが、そろそろそこから大きく逸脱した磯野君の書き込みも増えてくるだろう」
「それって、俺が経験していない内容の書き込みが出てくるってことですか?」
「その通り。突然変異からの磯野君の多様化の爆発的加速へとつながるわけだ。覆水盆に返らず――エントロピーの増大ってやつだな」
……突然変異?
「三馬、この大学ノートに関わっている磯野はどれくらい増えていると思う? フィボナッチ数的に増えていると言っても一週間程度だ。それなのにこのノートの書き込み具合からすると相当な数になっている気がするが」
「柳井、恐らくだが九日の時点、初めて大学ノートに書き込んだ起点となる瞬間に、すでに無限に近い磯野君がノートに関連付けられているはずだ。そこからまた増殖する磯野君も含めて、書き込まれる文章の差異があらわれるわけだが、その差異の増加の単位時間が一秒なのか一分なのか、それとも一時間なのかはわからない。だが書き込みとにじみ具合を見るに、すでにこのノートに関わる「差異を伴った磯野君」は、膨大な数に至っている可能性がある」
「だが三馬、この文章はその多様化、インフレーションに関して危険だと警告しているぞ?」
「この文章は内容から、別の世界の私が、磯野君に書かせた文章のようだ。とはいっても腑に落ちないがね」
「腑に落ちない……ですか?」
「ああ。現時点では、この大学ノートに出来るだけ多くの磯野君を関連づければ、その分われわれの知り得ない情報と接触出来る確率は高くなる。メリットしかないのだが、この警告とは別に――」
三馬さんは、大学ノートの白紙部分の厚みを俺たちにふたたび見せる。
「その私たちの知り得ない、もしくは特に共有したい情報をメッセージとして書き込むには、悲しいことに二〇ページ程度しかない」
「……あの、もしノートがなくなったとしても、新しいノートを用意すれば――」
「ここまで多様化された磯野君たちを束ねている状態は、この大学ノートでしか維持出来ない。新たなノートを用意するとして、この大学ノートに関連づけられた磯野君たちが、次もまた全く同じノートを用意出来るとは限らないんだ」
そうか。すでに俺の意図してない書き込みが増えているのに、その磯野たちが、必ずしも次に俺が手に入れるノートと同じであるわけではないのか。
「けど、このノートの二〇ページには手を出さずに、新たなノートに比較的重要ではない情報を書き込むっていうのはどうです?」
「それも、この大学ノートとは別にもう一冊用意した時点で、二つのノートを所有しているという条件に合わない世界は、関連づけから切り離される可能性が出てくる。なるべく、いま関連づいている状態から動かさないことが、この多様化を効果的に利用する前提条件となるだろう」
「とは言ったものの」と三馬さんは一度言葉を切って、わざとらしく笑顔を見せた。
「ここまでの話は結局『オールトの雲』について語っているようなものなのだがね」
「オールトの雲?」
「太陽系を球状に取り囲んでいるとされる仮想的な天体群のことだ。三馬が言いたいのは、実際そうであるかは確認できてないから誰にもわからないってことだな」と柳井さんは補足した。
「確たる証拠も無いまま予測からさらに予測を立てるように論じるのは、どうにも居心地が悪くてね」
「わかっているよ。だが三馬の分析、予測は核心を突いていると俺は思う。フィボナッチ数列を中心にした磯野の入れ替わり間隔と、大学ノートを通して起こるレベル3マルチバースに基づいた世界のインフレーション。ここに結びついたのはとても大きい」
柳井さんが三馬さんにそう伝えたのを見計らって、竹内千尋は手をあげた。
「三馬さん、いまここにある大学ノートは、その大学ノートを選択した磯野が集中するターミナルのようなものってことですよね」
「そうだね。恐らく今回の出来事に遭遇した最大公約数の磯野君たちが重なり、用いることの出来る場としての大学ノート。確かにこの時点におけるターミナルとなるだろう」
「そこでなんですが、九日のこの大学ノートに書き込む前に、あるプリントの裏にも文字の浮かび上がり現象を起こしたんです。そしてそのあと――」
そうだ。学食から帰ってきたあとに、俺が手をつけていないのに一文が追加されていたんだ。そう、あのときの言葉は――
「……ノートを用意して情報共有をしろ」
千尋はうなずく。
「あれは俺の字だった。だから、別の世界の俺が書いたものだとは思う。けど――」
「ああ、たしかに早すぎるな。三馬の言う突然変異には」
柳井さんの言葉に、三馬さんは「なるほど」とうなずくと宙を見るように俺たちから目線をそらし、口をひらいた。
「人為的な、いや、なにかの意思がはたらいている可能性もあるな。それがなんであるかは判らんが。ただ、いまはその何かを特定するには情報が少なすぎる」
「それが、さっきの書き込みで言っていた、磯野のインフレーションを警告した主?」
「うむ。これは磯野君のそばにいる、私では無い誰かのメッセージなのかもしれない」
三馬さんは、憮然とした顔のまま仕切り直した。
「とりあえず、ここから先は重要な事柄以外に文字が追加されることが無いよう祈るしか無いだろう。ただ、無数の選択肢から生まれた磯野君がいるとしてそのそばに私も一緒にいるのならば、他の世界でも、これ以上ノートに書き込まない判断も下している筈だ。だから、
――この大学ノートの最後の一ページは、基本的には書き込まないルール
としよう。このまま最後の一ページが埋まらなければ、どの世界でもこのルールが適用されていることになる。そして私が介在している証明にもなる。それだけでも有益な情報になるだろう。
――そうして白紙のページを用意しておけば、磯野君のそばにいる、その「誰か」からのメッセージを再び受信出来るかもしれない」





