09-01 多元宇宙論におけるレベル3マルチバースと呼ぶ。が、まあいい
磯野の疑問、三人目の磯野の存在について、三馬は「文字の浮かび上がり現象」の状態をシュレーディンガーの猫を引用する。
重なり合った状態……?
シュレーディンガーの猫?
SFものの定番としてよく出てくる言葉だが――
「箱の中で、猫が生きている状態と死んでいる状態が50%ずつある状態のことですよね? ちゃんとした意味はわかってはいませんが」
「それで正しいよ。シュレーディンガーの猫は、コペンハーゲン解釈を皮肉るための例え話だ。簡単に言えば、素粒子レベルの仕掛けがあり50%の確率で作動する。その仕掛けが作動すると毒ガスが発生する装置を、猫と同じ箱に閉じ込める。その一時間後にその猫が生きているか死んでいるか、それは実際に箱を開いて確認――観測――したときにはじめて決定される、という話なんだ。波動関数の収縮というやつだな」
え、簡単なのか? よくわからん。
「その猫は死んじゃったんですか?」
不安そうなちばちゃんに三馬さんは答えた。
「大丈夫。これはただの思考実験だから、実際はなにもしてないよ」
「そうなんですね」
ちばちゃんの顔はパッと明るくなった。かわいい。
「観測されていないあいだは、生きている状態と死んだ状態の両方が重なり合っている、だがそれはおかしい。しかしミクロの世界ではそれが起こってしまう。だから量子力学の世界はおかしい、そういう話なんだ。観測問題に関しては、『ウィグナーの友人』なんて話もあるんだが、本題に戻ろう」
三馬さんは、もう一度大学ノートを見る。
「この大学ノートで起こっている、重なり合いのようなことは、マクロな世界、我々が目で見て確認できるような大きさの世界では起こることは本来ありえない。だが、目の前で起こってしまっている。仕組みは解らないが、このノートを『ある特定の条件下で、無限に近い試行回数をこなすことの出来る人力計算機』と呼ぶことも出来る」
「あの……人力って、俺のことですか?」
「その通りだ」
「とても疲れそうですね」
「そんなことは無い。磯野君と、その周囲の私も含めて動かして調査させたことをこのノートに反映させれば、あらゆる答えを示してくれる可能性がある。ただ――」
三馬さんは書き込みの最後のページを指で挟みながらとじて、残りのページの厚みを俺たちに見せた。
「これ以降、大学ノートの書き込みは慎重にした方がいいかもしれんな」
俺たちは唖然とした。
大学ノートはいつの間にか大半のページが文字で埋め尽くされていた。白紙のページは残り二〇ページくらいだろうか。
柳井さんが表情を固くする。
「兎の問題……これもフィボナッチ数列か」
三馬さんはうなずく。
「大学ノートに書き始めた八月九日から十四日までの間に、フィボナッチ数列的に増殖した映研世界出身の磯野君が、この大学ノートにどんどん書き加え続けている。幸運にも、同じ文言の箇所は若干のにじみで済んでいるが、そうで無い箇所は塗りつぶしたような具合だ。磯野君、いや、それぞれの磯野君が存在する世界が加速度的に増え続けていることを考えると、このノートで出来る情報共有はあと一回程度だな」
「加速度的に増殖って、そもそも俺が増殖しているってどういうことなんですか?」
三馬さんは大学ノートをテーブルに置いて、俺たちにページをめくってみせた。
「この世界をゲームだと考えてみよう。ゲームには選択肢とそれに対応する分岐がそれぞれ存在する。いまこのようにページをめくる選択肢と、ページをめくらない選択肢。この二つの分岐の先にそれぞれストーリーが続くとしたら、ストーリーは二つになる訳だ。言い換えれば、世界が二つになる」
三馬さんは立ち上がり、部室のホワイトボードにペンでYの字に枝分かれする線を描く。
「現実世界に戻ってみよう。選択肢はゲームとは違って無数に存在する。いま私が息を吐く、窓の外に止まるスズメが羽ばたく、柳井がくしゃみを我慢する、もしくはくしゃみをし損ねる、とかね。そう、この瞬間にも世界中に選択肢がある。そして、原子や分子、素粒子レベルでも一瞬ごとに選択肢がある」
ホワイトボードに描かれたYの字の分岐が何本にも増やされていく。
「つまりだ、一瞬ごとに無限に近い選択肢と、その先に分岐した世界がまた無限に近い数だけ存在することになる。この考え方を、多元宇宙論におけるレベル3マルチバースと呼ぶ。が、まあいい」
三馬さんはそう言って気難しそうに手を振った。そして、ホワイトボードに「こんにちは」と文字を書く。
「今回、磯野君が大学ノートを手に入れ、最初の文章を書き込んだ瞬間、この時点で無限に近い磯野君が、
――この大学ノートに書き込むという分岐を選択し、それが起点となった。
書き込んだ当初は分岐は少ない。とは言ってもこの時点で無限に近いのだがね。それでも起点周辺では、同じような世界と磯野君が重なりあっている状態だった。だから書かれた文字は一つに見える」
三馬さんは大学ノートの最初のページをひらいて見せて、その中の書き込みを指差した。
「ところが時間の経過によって、その重なり合う無限に近い磯野君にブレが生じる」
ホワイトボードに書いた「こんにちは」を三馬さんは何度も上から重ねて書く。「こんにちは」という文字は書き重ねられ太くなる。
「呼吸一つ、ペンの傾け方一つ、些細なことから少しずつ大きな違いが生まれていく。それが、この文章の太字のようなにじみとなってあらわれている」
「じゃあ、あの文字の浮かび上がり現象はどうして起こるんですか? 俺が書く前から浮かび上がるのは」
「予想だが、この大学ノートは、無限に近い磯野君を結びつける場の役割を果たしているんだ。
重なり合う磯野君の中で、
――私たちの目の前にいる磯野君より早く書かれた文章があれば、先ほどの、文字の浮かび上がり現象してあらわれる。
同様に、重なり合う磯野君よりも、
――目の前の磯野君が一番最初に書いた文章は、文字の浮かび上がり現象が起こることは無く、そのまま書き込めるはずだ」
「けど、それだったら俺がペンを近づけたことで文字が浮かび上がる原理はどうなっているんでしょう?」
「推測だが、すでに他の世界の磯野君がノートに書き込んでいる状態で、
――この世界においても書き込むという事実
を与えてやると、文字の浮かび上がり現象が起こる。つまり磯野君がノートに書く――正確に言えば、ペンをノートに近づける――ことで、他世界からの書き込みが反映される。つまりこの瞬間に、シュレーディンガーの猫の入った箱を、きみは開けているんだ。
ただし、やはり書いている事実があるからだろう、文字の浮かび上がり現象で何ページにもわたる長文になった場合、磯野君にも疲労が出るというわけだ」
三馬さんは開いたページを指さす。
「さらに、磯野君が意図してないと思われる文章がここにもある」
そこには身に覚えのない一文が書き加えられていた。
――インフレーションが起こっている。あまりに集約し過ぎるのは危険かもしれない





