08-08 シュレーディンガーの猫、つまり箱の中身を覗いているような状態なんだよ
三馬は、世界の入れ替わりの周期を発見する。その後137.5°と4時間02分55秒という数字を口にし――
「4時間02分55秒? 三馬、これはいったいなんだ?」
「針時計だよ。君たちがよく目にするアナログ時計ってやつだ。時計の中心から0へ引かれる辺に対して、同じく0からもう一方へ辺を引いたときに137.5°となる角度を時間に置き換えると、この時間単位になる。これを1として1,1,2, 3, 5, 8, 13――」
「なるほど。それはわかった。で、この数字がなんなんだ?」
「葉序だ」
「幼女?」
思わず出た俺の言葉に、柳井さんが呆れ顔をむけた。
ちばちゃんを見ると残念そうな苦笑いを見せた。
竹内千尋はじっと数字を見つめていた。
一方の三馬さんはそんな俺たちにはお構いなく興奮気味に解説する。
「葉っぱの葉に序列の序で葉序。植物が茎につける葉の並び方のことだ。この二つの葉の間の角度のうち、光合成、つまり日光を効率良く吸収するのに一番理想的な角度が137.5°となる。そして、この角度は黄金角、つまりフィボナッチ数列に通じる」
「そのたびたび出ているフィボナッチ数列ってなんですか?」
「磯野、高校時代に習っただろう。というか、おまえの好きなドラマ『フリンジ』でもたまに登場するぞ」
「あ、わたしは数学Bの授業で習いました!」
「偉いなちばちゃん。階差数列が出てくるあたりだな」
俺の顔を見た柳井さんがため息混じりに言う。
「……まさか磯野、覚えてないのか?」
「あ、いや、俺文系なんで」と、笑いながら誤魔化した。
「文系って言ったって、磯野、お前たしか経済学部だったろ?」
俺たちのくだらないやり取りがひと段落したのを見計らって、三馬さんは口をひらいた。
「直前の二つの項の和が、次の項となるのがフィボナッチ数列だ。この値をフィボナッチ数というが、花びらの数、黄金比、ヒマワリの種の螺旋数、台風や銀河系の螺旋までフィボナッチ螺旋――対数螺旋であらわすことが出来る。自然界の一つの法則性を示しているものだ」
三馬さんはそこまで言うと「だからね」と柳井さんに振り返り、
「このような超自然的現象が起こるのであれば、まずはその法則性に関して真っ先に出てくるのがフィボナッチ数列のはずなんだ……だが、頭には浮かんでいたんだろう?」
柳井さんは苦笑いをしながらうなずいた。
「さて、こうなれば高校数学どころかただの足し算だ。次に磯野君の入れ替わりが起こるのはいつになるかな?」
えっと、52時間38分に32時間23分を足せばいいから――
「85時間1分ですね」
「正解だ、ちばちゃん」
「いままでの流れから、重力などの影響を受けないと仮定して、次の入れ替わり日時を予想すると――」
――八月十六日 二一時〇四分
三馬さんはホワイトボードに書き込む。
「二日後の夜か。この間に、できるだけ磯野君の手土産になる情報を見つけられれば良いのだが。ほかに気になることはあるかね? あ、時空のおっさんや、丘の上の建造物については解らんよ。普段ならそこらへんのオカルト話も大変興味があるのだがね。いまのところ私が役に立てそうなのは、現実世界で起こったことを通しての推論のみだ。ただ――」
三馬さんはそこで言葉を止めると、少し迷ったような素振りを見せたあとに続けた。
「その色の薄い世界に出てきたチューブ状の線路は、もしかしたら真空チューブ鉄道のことなんじゃないか?」
「真空チューブ鉄道?」
「名前そのままの意味でね、真空のチューブに列車を走らせることで、摩擦力や空気抵抗をゼロにし、リニアモーターカーよりもさらに高速に移動出来る輸送システムだ。世界各国で研究されているが、真空状態を保つことが最大のネックでね、実際のところは目処が立っていない。だが、実現されれば時速4000kmを超える超高速鉄道となるはずだ。しかも丘の上にあり高架が延びているのだとしたら、位置エネルギーを用いた加速で運用しているのだろう。見てみたいものだ」
「それはすごいですね!」
いままで大人しかった竹内千尋が目を輝かせた。
「磯野が訪れた色の薄い世界って、僕たちの文明よりもはるかに進んでいるのかもしれないね。そういう世界だとしたら、時空のおっさんみたいに言語化による認識を阻害する装置なんかがあっても不思議じゃないと思うよ」
興奮気味の千尋に対して、一方の柳井さんは不満そうに腕を組んだ。
ちなみにちばちゃんは、ポカンとしたまま話を聞いている。
「未来の世界だから起こされた超常現象か……。なんともなんでもありにできてしまってつまらんな」
「柳井さん、ひとの身に起こっていることを、面白さの尺度ではかるのやめてくれませんか……」
「ああ、悪い悪い。三馬が気になることはほかにないのか?」
「大学ノートかな。この文字の浮かび上がり現象は実に興味深い」
文字の浮かび上がり現象といえば、俺も気になることがあったな。
「三馬さん、それに関してどうしてもしっくりこないことがありまして――」
この前から気になっている「三人目の俺」についてだ。
「入れ替わっている映研出身のこの俺と、オカ研出身の二人がいることは腑に落ちるんです。ですが、そのほかに映研出身の俺が大学ノートに書き込みをしているってのがどうしても引っかかって」
「ああ、そのことか。
――映研出身の磯野君はいまこの世界に無数に存在するはずだ。
しかも、この瞬間にさらに増え続けている」
「映研出身の俺が増え続けている?」
「まずノートを見てみよう。この文字の浮かび上がりに関する仕組みはさすがに解らないのだが、こいつはおそらくこの大学ノートを手に入れ最初に書き込んだ磯野君から、世界が無数に分岐していったのではないかと思う。というのも――」
三馬さんはノートをテーブルの上にひろげた。
全員がノートに顔を近づけたのを見計らって、三馬さんは文章のにじんでいる箇所を指差していく。その箇所はページが進むごとに増えていき、今回浮かび上がったあるページでは、文章全体が塗り潰されたような状態になっていた。
「なんなんです? これ」
「おそらくこのノートは、無数の世界を通して重なり合った状態になっている。そして、それぞれの世界の磯野君がこのノートに書き込み、その結果がすべてこの大学ノートに浮かび上がっている、ということだ。我々はシュレーディンガーの猫、つまり箱の中身を覗いているような状態なんだよ」
三馬さんは、顔を上げてぼそりとつぶやいた。
「まったく皮肉なことにね」
08.インフレーション END





