07-02 このまま電話相手を待つべきだろうか
キャスケット帽の女の子、現実世界では存在しない霧島榛名とともに、色の薄い世界へと巻き込まれた磯野は、彼女の手を離した瞬間、プラットフォームへと飛ばされる。そこへ着信が――
誰からの着信だ?
いや、それ以前に、
――俺が設定している着信音と、ちがう。
待ち受け画面にはなにも表示されていない。非通知の表示すら無かった。
無音の世界にデジタル音が不気味に鳴り響く。まるで、それが世界のすべてであるかのように。
この電話に出ていいのか?
それ以前にこの世界の電話に俺は出るべきなのか?
……いや、この世界にも俺以外の人間が存在するじゃないか!
霧島榛名。もし彼女なら――
俺は、着信ボタンを押して耳もとにそえた。
無音。
――いや、ちがう。音として認識できないが、誰かが語りかけているのはわかる。言葉にはなっていない。そもそも音ですら無い。そんななにかが、電話を通してこう伝えてくる。
――動かずそこにいてほしい、と。
なぜ理解できるのか解らない。まったくもって意味不明だ。けど、この世界ならなにが起きてもおかしくはない。
電話相手から、この場に留まるよう伝える「意思」が俺の脳に伝達され、そのことに戸惑いながらも、俺はそのメッセージを把握してしまうと――
電話が切れた。
スマホをタップしても、着信履歴はどこにも見あたらない。
いまのはなんだったのだろう。敵意のようなものは感じられなかった。そして電話の主は、霧島榛名ではなく、なぜか男性のような印象を受けた。
――このまま電話相手を待つべきだろうか。
霧島榛名を探すべきじゃないのか?
だけど具体的にどこへ行けばいいのかわからない。それに探そうとしてこの場を離れてしまったら、電話相手との接触の機会も失われてしまうかもしれない。
……焦るな。いったん落ち着け。思考を止めるな。
目を閉じて、起こっていることに意識を集中する。
……まず俺には、この世界についての手掛かりがない。
一方の電話相手は、この世界について知る人物だろう。いや、人であるかどうかはわからない。けれど、いま俺の身に起こっている事態の大きな手がかりになる。それどころか、この一連の出来事を解明してくれる存在かもしれない。それに、もしこれから電話相手がここにくるのだとしたら、
――榛名のことを見つけられる可能性だってある。
だが、どうやってこちらの意思を伝えればいい?
電話相手は、言葉ではない「なにか」を使ってメッセージを伝えてきた。それがなにかなのかは解らない。
だが、ふたたび相手がそのなにかを使ったそのときに、俺もまた、意思をもって接すれば電話相手に伝わるかもしれない。言葉で投げかけてみるのだってありだ。むこうからの意思の伝達は受け取れたんだ。
……いや、まて。悪意を感じなかったとはいえ、なぜ相手が俺の要求を受け入れることを前提に考えているんだ?
――そのとき、気配を感じた。
俺は顔を上げようとする。
が、金縛りにあったかのように身体が動かない。
誰かがいるのは解る。しかし、その存在に関する具体的な特徴は、なぜか言語化することができない。
――言語化以前の概念としてしか知覚できない存在。
まるで椅子があるのに、それを「椅子」という言葉、そう、単語から認識される存在として認められないような。俺の脳が、その存在を認識するための言葉を当てはめられずに、なにかが「いる」ということでしか解らないような、そんな感覚のまま、それがただ存在するということだけを感じている。
それでも――
動かない己の口に意識を集中させながら、相手に念じた。
「あの、ここはどこですか? あなたは誰なんですか? あの、榛名は――」
そこまでだった。
目の前の景色は、一瞬にして切り替わる。
雨。土砂降りの中、俺は一人。
――彼女を、霧島榛名を、あの世界に置き去りにしてしまったのか……? 俺だけが、帰ってきてしまったのか……。
頬をつたうものが、雨とともに流れて落ちていく。
……泣いている場合じゃない。
彼女を助けださないといけない。
けど……だけど……どうすれば――
「磯野!」
腕をつかまれた。 柳井さんだった。
俺は、柳井さんに引っ張られて、文化棟玄関へと引き戻された。玄関からロビーへ入ると、竹内千尋がベンチから立ち上がった。
「磯野、無事だったんだね」
俺たち三人は部室へ戻った。
G-SHOCKとスマホの待ち受け画面を見比べる。
どちらも八月十二日 午後十時十一分。
柳井さんの話によると、約三十分のあいだ、俺は玄関前から姿を消していたらしい。
目の前から人が消えるという超常現象を目の当たりにした二人は、ふたたび俺があらわれるまで待っていた。
柳井さんは、モスバーガーでの話を竹内千尋に伝えたそうだ。
二人は目の前で起こった俺の消失について、俺が話したことと関係があると考え、その場に留まっていたらしい。
「礒野、風邪ひくよ」
竹内千尋が俺のリュックの中からバスタオルを取りだして頭にかけた。
俺は目の前で刻まれる二つの時間を見つめつづける。
一秒、一秒と時が経過していくたびに、俺のなかの後悔もまた刻まれていく。
あの手を離していなければ、
榛名と引き離されずに済んだんじゃないのか?
あの手を離していなければ、
榛名も一緒に連れて帰れたんじゃないのか?
あの手を離していなければ、
榛名を、榛名を置き去りに――
「磯野!」
竹内千尋が俺の肩を揺さぶる。
「大丈夫? 落ち着いてからでいいから、なにがあったのか話してくれる?」
俺は右手の甲で目を拭った。
一つ深呼吸をする。
……もう一度。
そして、呼吸を整えてから――
「霧島榛名がいたんだ」
「磯野、それはモスで言っていた、オカルト研究会の世界の霧島榛名のことか?」
「いえ、この世界の――存在していない霧島榛名です」
俺は二人に、文化棟玄関から消えたときの出来事を話した。
霧島榛名とともに走馬灯のような空間を経て、砂浜へとたどり着いたこと。
そこは色の薄い世界であったこと。
彼女とは直接の面識がないのに、なぜか彼女は俺の名前を呼び、俺とのあいだになにかあったような素振りを見せたこと。
手を離した瞬間にプラットホームへと飛ばされたこと、着信と得体の知れない存在との接触。
――そして、置き去りにした霧島榛名は、俺にとって大切な人だと確信したこと。
「三〇分のあいだにそんなことがあったのか」
「僕たちからすれば、磯野が帰ってきただけで心底ホッとしたよ」
俺は、二人にいままでのことを話したことで、後悔が、またもこみ上げてきた。
己の行動の迂闊さ。
彼女を置き去りにしてしまった事実。
あのときの判断を問われたら、誰もが間違ってはいなかったと言うだろう。
あの世界の住人との接触。それはとても大きな成果だった。
さらに、あの世界からの脱出には、あの住人からの連絡を待てばいい、という方法を知ることができたからだ。
もしそうだとしても、彼女を置き去りにするくらいなら、いっしょににあの世界で留まっていたほうが正しかったんじゃないのか? 彼女を見つけだすまで、現実世界に帰ってくる必要はなかったんじゃないのか?
後悔なんてしている場合じゃないのはわかっている。それでも俺の中の激情がそれを許してくれない。
震える足を止めようと、手でそれを抑える。
震える肩を止めようと、肩に力を入れる。
その肩を、柳井さんがつかんだ。
「磯野、いいか、磯野が手を離さなくても、おまえと霧島榛名は引き離されただろう。モスで聞いた話をもとに考えれば、最初の海岸はその世界の中で霧島榛名がいる場所で、磯野のいる場所は駅のプラットフォームだ。磯野はどうしたって海岸に留まれなかったし、霧島榛名もまた連れて来れなかった。だから、
――磯野、おまえは悪くない」





