07-01 なんで? ……どうして、磯野くんが
柳井の理解を得た磯野は、文化棟玄関でキャスケット帽の子に遭遇する。だが彼女は、この世界には存在しない人物だと気づき――
この世界に存在しないはずの女性。霧島榛名。
激しい雨の中、その彼女が目の前にいる。
ショートに揃えられた髪、キャスケット帽の下にはすっと通った高い鼻を中心に整う、端正な顔。しかし、その物憂げな表情を、俺たちに見せたことは無かった。
……いや、一度だけある。
一年前、オカルト研究会へ見学に来た日。
あの日の榛名は、もっと女の子らしい格好で、どこか憂いに沈んだ面持ちで部室にあらわれた。当時は緊張していたのだろうと思っていたが、いま目の前にあるその表情、それこそが霧島榛名の素顔なのかもしれない。
だが、この世界はオカ研世界ではない。
俺は彼女の前に立つ。
けれども、彼女は俺のことには気づいていないらしい。
俺のことが見えていないのか?
「どうしたの磯野!」
竹内千尋の声。
「なんで一人で雨の中にいるの?」
一人?
「なに言ってるんだよ。千尋、目の前にいるだろ」
「え?」
もしかして、
――俺にしか見えていないのか?
霧島榛名も俺たちのことが見えていないのか、右手の杖をつきながらゆっくりと南門へむけて歩きはじめた。
「まってくれ!」
俺は霧島榛名の左手を――
つかんだ。
――そう、彼女の感触があった。
手をつかまれた榛名は振り返る。
俺にむけたその目は焦点こそ合っていないが、それでも彼女は口にした。
「……磯野……くん?」
霧島榛名は、たしかにそう言った。
なぜ俺のことを?
その言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、
――俺の視界が歪んだ。
俺の周りを、無数の世界が交差していくように。
八月七日の、ちばちゃんの大学ノートを見たときと同じ眩暈。
けれどすぐに、それが眩暈などではないことに気づく。
――空間が、歪んでいたのだ。
目の前の霧島榛名だけは、焦点が合うようにはっきりと見えた。
しかしそれ以外のすべてが歪めれられたような、そんな景色が、俺たち二人のまわりを取り巻いている。
妙な浮遊感を覚えた。
その浮かび上がるような感覚とともに、俺と榛名以外の景色が、高速スライドのように無数に切り替わりる。彼女の手をつかみながら、
――俺たち二人は、無数の世界を漂っていく。
そして、止まった。
砂浜。
無人。
無音。
世界は色彩を欠く。
――色の薄い世界。
俺の目に映る、砂浜へと押しよせる波は凍りついているかのように動かない。
また、訪れてしまった。
いや、俺はここに訪れるために、いままで――
右手の体温を思い出す。
彼女から伝わってくる小さな息づかいも。
目を、つかんだ左手の相手にむけると――
霧島榛名。
「なんで? ……どうして、磯野くんが」
え?
「だって……わたし……」
彼女は、俺を視界に入れて――そう、俺を見て――狼狽えた。
涙を浮かべた目に、悲痛な色を帯びながら。
……けれども、俺にはわからない。
この世界の霧島榛名を俺は知らない。いや、一年前のあの春の日に見かけた記憶はある。だが、お互い言葉を交わしたことすら無いはずだ。なのになぜ俺のことを知っている?
それでも、目の前にいるこの女性は――
俺にとって、
とても、とても、
大切な人であると確信してしまう。
どうしてかは解らない。
一年前に一目惚れをしたからではない。
俺の脳みそなのか、それとも魂なのか解らない。解らないが、彼女を大切な人であると信じられる強い「なにか」が、俺の中にあるのを感じた。
「榛名、俺は――」
――その手を離してはいけない。
突然、脳裏に浮かんだ言葉。
その言葉は、俺の頭のなかに鮮明に響く。
なんだ? これは。
目の前の榛名は、
涙を拭おうとして
左手を顔へ近づけようとする。
そのとき、彼女の手を、
――離してしまった。
ダメだ……!
――目の前の景色がまた歪む。
今度は榛名までもが。
「榛名!」
俺は彼女をつかもうと手を伸ばす。
しかし俺の手は、目の前にいるはずの霧島榛名をすり抜けて宙をかいてしまう。
「磯野くん!」
一瞬だった。
俺は、見覚えのある景色に飛ばされていた。
八月七日のプラットホーム。
「ちくしょう!」
なぜ手を離した?
なぜ手を離した?
なぜ……俺は! 手を……!
後悔に押し潰されそうになる。なんでもっと早くに気づけなかった? なんで手を離しちゃいけないって気づけなかった?
本当は……本当はわかっていたんだろう?
俺の無意識の中に、思い出せないとしても俺の記憶の中に、霧島榛名がいたことを。なんで彼女を見たとき、触れたとき、よみがえらなかったんだ? 二つ目の記憶がよみがえったときのように。
そうだよ、俺の中にあるんだろう? 彼女との思い出が。突然、その思考をさえぎるように――
ピタン
と、はじける音が、世界に木霊した。
髪や衣服から滴る雨水。それが、ぽとり、ぽとりと床を叩き、世界に反響していく。
彼女の消える間際の言葉が
いまさらよみがえる。
ささやくように、そして、
なにかを後悔するように、
――……ごめんね
この言葉の意味はなんだ? 解らない。思い出せない、なにも。
……いや、ひとつだけ解ることがある。
――俺は、霧島榛名を救い出さねばならない。
ここからあの砂浜まで行くにはとうすればいい?
おなじ色の薄い世界なんだ。どこかでつながっているんだろう? そうだよ、八月七日の、
――グラウンドへの瞬間移動
あの南門のときみたいに、この世界のどこかに、砂浜に通じる場所があるんじゃないのか?
俺は駅を出ようと一歩、踏みだす。
その一歩は、滑り落ちる滴とともに空間に響き渡る。俺以外、動くものが存在しない世界。そういえば、前にあったはずの車両が見あたらない。
フラッシュバック。
車両の中にいた髪の長い人影。あれは榛名だったんだろうか。だが、いま見た榛名はショート。オカ研の榛名は……いや、あいつは隠しごとをしているようには見えなかった。なら、髪の長いあの人は?
階段にむかって二歩、三歩と歩きはじめたそのとき、
――スマートフォンが鳴った。





