06-08 信じて……もらえますか?
八月十二日 一八時五四分。映研世界。磯野は、柳井の目の前で「文字の浮かび上がり現象」を試み、成功する。
「磯野、なにを……したんだ?」
柳井さんの当然の問いに答えようとした瞬間、酷い疲労感が体に重くのしかかていることに気づいた。
この疲労感はなんだ?
この一瞬で俺はこれだけの文章を「書いて」いるのか?
「……磯野、大丈夫か?」
「……ええ。柳井さん、こうなった経緯について説明します」
二時間近くかけて、八月七日からの身に起こった出来事について話した。
柳井さんは腕を組みうなる。
「たしかにここ数日、おまえの様子は変ではあったが……手品ではなさそうだな」
そう言いながら大学ノートを手に取って眺めた。
「……いや悪い。磯野のその話は、この世界とオカルト研究会の二つの世界があるってことだよな。つまり、
――並行世界。
エヴェレットの多世界解釈か。SFネタでよく使われるやつだが」
「信じて……もらえますか?」
「目の前でさっきの「文字の浮かび上がり現象」か……。あれを見せられると、現実というものの定義が揺らぐというか――」
柳井さんは右手を顎に添える。
「まず、俺に相談してくれてよかった。竹内がいても問題ないかもしれんが、あいつは天然だ。周囲に対する配慮に欠けるところがある。思わぬところでボロが出る可能性が高い。……磯野の話を、俺の解釈をいれて順を追って考えてみる。いいか?」
「はい」
「磯野の入れ替わりについてだが、俺も同意見だ。明晰夢の線は薄い」
「柳井さんもそう思いますか」
「ああ。いまの話がもし本当なら、並行世界としての入れ替わり。そして、その時空のおっさん世界に似た「色の薄い世界」。それが鍵だろうな」
俺はうなずく。
「あと霧島榛名、つまり実在しないはずのちばちゃんの姉の話だが……」
「気になることがありましたか?」
「いや、あくまで予想だが、
――この世界の霧島榛名はもともと存在していた。
しかし、なにかをきっかけにして消えた」
「え?」
霧島榛名はこの世界に存在していた?
「俺もいま聞いた話からの類推だから、確証もなにもあったもんじゃない。だがな、なぜちばちゃんが映研に来たのか。最初にうちに来たとき、ほかにもサークルを巡っているって言っていただろ?」
――文学会にSF研、美術研究会、模型研に、サバ館……サバイバルゲーム館。あとオカルト部。
そうか!
そのサークルって全部、
「オカ研の霧島榛名が掛け持ちしているサークル!」
「そうだ。こっちの世界のちばちゃんはなぜか存在しないはずの姉、霧島榛名の所属していたサークルのことを知っていた。だから、姉を探すために訪ねてきたということなんじゃないか? つまり、
――実在しないはずの姉を探している
とすれば、ちばちゃんの行動の辻褄が合うと思うんだがな」
ゾッとした。
四日前――八日のモスバーガーからの帰り、南門前での記憶がよみがえる。そうか、ちばちゃんが別れ際に言ったあの言葉は、
――どこに……お姉ちゃんはいるんですか?
存在していたはずの霧島榛名が消えた。
それはまだ推測に過ぎない。けれど、やけにしっくりくるこの感覚はなんだろう。頭の中の霧が晴れていくような。
「つまりだ、こっちのちばちゃんは映研に来ようとしたんじゃなく、オカルト研究会に尋ねようとしたんじゃないのか? そのことが書かれているのが、その――」
「……大学ノート」
柳井さんはうなずいた。
もしちばちゃんが霧島榛名を探しているのなら、その動機は、大学ノートに書かれている内容。……ってことは、
「あの大学ノートを書いたのは、ちばちゃんではなく霧島榛名?」
「その可能性が高いだろうな」
けど、じゃあ、あのノートの汚れはなんだ?
まるで雨にでもさらされたようなあの汚れ。もし霧島榛名があの大学ノートを使っていたとして、どうやったらあんな汚れができる?
「そろそろ九時半過ぎだ。一度、戻るか」
部室では、竹内千尋がパソコンに集中していた。
編集ソフトのタイムラインを移動する、セリフの早回しのようなキーの高い音が響いている。
「そろそろ仮編は済んだか?」
「……あ、おかえりなさーい」
俺と柳井さんは、パソコンから離れようとしない千尋を説得するという、ささやかな、それでいてやけに面倒な仕事をこなした。
こうして、撮影旅行は無事終了となった。
部室からの退去時、千尋にも俺と怜に関する誤解も解いておいた。のだが、
「けど、磯野と怜ってお似合いだと思うんだけどなー」
「千尋、お前まで……」
「俺も同感だな。磯野と千代田の憎まれ口の応酬は、はたから見れば微笑ましくみえるもんだぞ」
千尋も柳井さんもそう言うが、実際のところどうなんだろう。
たしかに俺だって、あのときの怜に対して心動くことはあったにはあった。けれど、やはりなにかちがうような気がする。
怜とのこれまでの距離感を壊すことに、俺自身、躊躇ってしまっている。それは結局、彼女に対して盲目的にはなれていないのだろう。
とはいえ、そう自覚してしまうのもなんだか寂しい気がした。
……いや、このままの関係で大丈夫だ。
そうだよ、これで大丈夫なんだ。
そのほうが……安心してしまうから。
――ごめんな、怜。
そういえば、俺のことなんかよりも――
「千尋もちばちゃんとはどうなんだよ。撮影中もいい感じだったじゃないか」
「えー。べつになんでもないよ。ちばちゃんのあの熱心さはびっくりしたし、正直とても嬉しかったけどね」
「へー。創作で気が合うって、すでにお似合いじゃないか」
「うーん。共同作業の良きパートナーって感じ。心強い存在って言葉がしっくりくるかな」
「パートナーか。はじめての共同作業ってヤツだな」
俺はニヤニヤしながら言ってやったが、千尋はいつも通りの爽やかな笑顔でさらりとかわしやがった。
ホントにコイツは……と思いながらも、柳井さんとのコンビとはべつに、表現者としてのちばちゃんという存在を得たことに、千尋は心底喜んでいるようだった。
「まあ、竹内はそういうやつだからな」
俺たちのやり取りを見た柳井さんが笑った。
文化棟ロビーまでおりると、外はいつの間にか雨だった。
「うわあ、結構な雨だな。おい、おまえら本当に送っていかなくてもいいのか?」
「大丈夫ですよ柳井さん。どうせ俺たち地下鉄ですし」
「ですです。僕もおんなじなんで気にしないでください。長距離運転でお疲れでしょうし」
そこで俺は立ち止まった。
あれ? 玄関前に誰かいる。あれは――
そこには、雨の中、傘も差さずに文化棟を見上げる一人の人影があった。白いブラウスにカーディガンを羽織り、右手に杖をつく女性。
――あれは、キャスケットの子。
俺は駆けだした。
「磯野!」
竹内千尋が背後で声を上げた。
――目の前に彼女がいる。
帽子に隠れて見えなかった以前とはちがう。
玄関――俺の真正面に、見上げる彼女の顔があった。その顔には見覚えがある――どころではなかった。彼女は、
「……霧島榛名」
06.撮影旅行 END
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