01-02 やめてくれ。あと怜、そのゲス顔やめろ
映研部室へと向かう磯野。同じサークルの千代田怜と鉢合わせるが、FXで有り金溶かした顔をしていた。一方、気になる女性を見かけ――
たしかに入学式のあの日、彼女を一目見惚れて――ああそうだよ、惚れししまったのはそのとおりだが、ここまでする必要がどこにある?
もし見つけたところで、見ず知らずのこの俺が「足治ってよかったですね、ふふっ」なんて声かけてみろ。不審者あつかいされるのがオチだろう。
俺ひとり安堵していればそれでよいのだ。
……それでよいのだ。
部室のある三階まであがると、男女数名が廊下中央にあるソファを占拠していた。映画研究会のとなりの住人、演劇研究会である。
彼らは台本とおぼしきコピー用紙の束を持ちながら、なにやら議論をかさねていた。
俺は、彼らの熱心さに軽く会釈をして通りすぎる。
部室までたどり着くと、ドアの横ある「映画研究会」と書かれた木製の表札が目に入る。
それはまるで内閣組閣のときに掲げられそうな達筆な題字だった。
誰が書いたんだろう。初代映研会長? いや顧問だろうか。どちらにしろ、相当年季の入っているシロモノなのはたしかだ。
と、背後から「お疲れ様でーす!」と軽やかな声が。
振りかえると、千代田怜の営業スマイルがそこにあった。
……なんでそんなにキラキラしてるの。さっきのゲス顔はどこいったんだよ。
演研部員たちの発声練習のような挨拶の応酬を背に、俺は部室のドアをあけた。
「あ、磯野おつかれー」
竹内千尋。俺や千代田怜と同じ二年である。
涼しげな水色パーカーの美少年は、外光が射し込んで眩しいだろうに、なぜか窓際に配置してある映像編集用パソコンに向かっていた。
高校からの付き合いとなる竹内千尋は、あどけない少年のような……いや、女の子のような名前と相まって、そう、可憐だった。
だが騙されてはいけない。
すべてを受け入れてしまいそうな穏やかな雰囲気とは裏腹に、ただひたすらに空気を読まないという特技もまた持ちあわせていた。そのため、近づいてくる恋する乙女たちのフラグを、あはは、みたな笑顔のまま容赦なく叩き潰した。
というわけで、映画制作以外に興味を示さない竹内千尋から、色恋沙汰などという浮いた話は聞いたことがなかった。
「怜もおかえりー」
「ただいまー。アイス買ってきたよ」
部室に足を踏み入れると、まるで那須高原にでもいるような、冷んやりとした空気が肌に触れた。ちなみに俺は那須高原には行ったことがない。
あー生き返る。これで本日の業務は終了しました。本当にお疲れさまでした。
俺は、背後でガサゴソと揺れる音を聞きながら『オーロラの彼方へ』や『天国から来たチャンピオン』などの映画タイトルがならぶ本棚を通りすぎ、これから日が暮れるまでお世話になるであろう、部室左手にある三人がけベンチ・ソファへ腰をおろし、優雅にくつろぎモードへと移行した。
千代田怜は、そんな俺の前をコンビニ袋をわざわざ揺らしながら、あきらかに邪魔者のようにまたぎ、ソファの奥へと腰かけた。
怜てめえ、避暑地での貴重なひと時の邪魔をするんじゃねえ。
「はい千尋、ジャイアントコーン」
「ありがとう」
「どう? 直った?」
「うーん、どうもデータの復元は無理そうだね」
竹内千尋の不吉な言葉に、俺は耳を疑った。
「は? データの復元?」
「今朝、部室にきたら、データが消えてたんだよ」
「え、千尋、データってなんのデータ?」
「九月祭上映用の映画の撮影データ」
九月祭とは、うちの大学の学校祭のこと……って、
「は? あの三日かけたやつか?」
「あの日は暑かったよね」
「……ああ、三十度越えはきつかったよな。もう二度と……って!」
「とは言っても、ごく一部なんだけどね」
「いやいやいやいや、なんで消えたんだよ」
「SDカードのデータはちゃんとパソコンに移したはずなんだよ。でも、どのドライブにも見当たらないんだ」
「…………で?」
「編集しているあいだに、なにかの加減でデータを消しちゃったかも」
「……ご冗談でしょう、竹内さん」
「ごめんね。けど僕も柳井さんもデータの行方が思いあたらないんだ。ファイル名も拡張子も弄った覚えはないし。とりあえず、最近消したデータの復元をしてみてるんだけどね」
……おいおい、もう一度あの撮影をやれって言うのか?
ちなみに柳井さんはうちの会長。
千代田怜はアイスコーヒーにストローを通して、他人事のようにたずねた。
「ねえ千尋。このままデータが見つからなかったらどうするの?」
「やっぱり素材がないと成り立たないから、再撮の可能性はあるかな」
「ふーん」
「けど学校祭の九月一九日まで一ヶ月以上あるし大丈夫だよ」
竹内千尋はジャイアントコーンを頬張りながら、無邪気な笑顔を向けてきた。……まったく、そんな顔して、どうせ撮りなおせばもっといい画になるとか考えてるんだろ。
「また演技できてよかったじゃない」
「そうそう。磯野の演技は悪くなかったよ」
「やめてくれ。あと怜、そのゲス顔やめろ」
「ところで柳井さんは?」
「文化協議会に機材を押さえにいってもらってる」
もう再撮影前提なのかよ。そりゃ……まあ、そうだよな。
「買ってきたスーパーカップ溶けちゃうじゃない」
「すぐ戻ってくるよ」
「……怜、俺のぶんは?」
「あるわけないでしょ」
「なんだ。磯野も来てたのか」
ガチャリという音とともに柳井さんが戻ってきた。
ボサボサ頭の柳井さんは、長袖のワイシャツを腕まくりしてジェラルミン製のカメラケースを右肩にかけ、もう一方の肩にはビデオカメラ用の三脚を担いでいた。
俺は、柳井さんから三脚とカメラケースを受け取った。
「カメラ借りられたんですか」
「話は聞いたか。とりあえず八月中に撮影機材を使うサークルはないらしい。不幸中の幸いってやつだ」
柳井さんは、かけていた丸眼鏡を外してシャツの裾で拭く。
「データはダメそうか?」
「難しいですね」
「柳井さん、やっぱり再撮しなきゃダメですか?」
「仕方ないだろうな」
俺の心中を察したらしく、柳井さんは苦笑いを浮かべた。
あ、はい。そうですよね。わかってますよ再撮影付き合いますよ。
「柳井さん。スーパーカップ」
「お、悪いな」
柳井さんは、スーパーカップの蓋を開けながらぼそりと言う。
「あとで演研にもう一度出演のお願いをしに行かんとな……」
コンコンと、部室のドアをノックする音が聞こえた。