01-01 え? 誰もいなかったじゃない
太陽が容赦なく照りつけるなか、札幌市、南区真駒内にある自宅から、大学へと向けて平岸街道を自転車で走らせていく。
「……暑い……つらい……蝉うるさい」
交通費を浮かせるための四〇分の通学。
この苦痛に見合うかどうかについて、今日もまた思考をめぐらしているうちに、大学に到着した。
日差しがコントラストを作る南門に入ると、白い五階建ての建物が見える。
文化棟。
この建物には、この大学の五〇近くある文化系サークルの部室が入っていた。俺が所属する映画研究会は、この建物の三階中央にあった。
だがしかし、俺がここにきたのは部活動をするためでは無い。
世間の熱中症対策にあやかり、この建物にもクーラーなるものが設置されたのだ。自宅に扇風機しか無い俺にとって、まさにオアシスだった。
横にある自転車置き場から文化棟正面へと戻ると、見覚えのあるシルエットが、陽炎でゆらゆらと揺れていた。
千代田怜。おなじ映画研究会の部員である。
薄手の半袖ジャケットに、七部丈のパンツルックのスレンダー。その容姿は、黙っていればそれなりに可愛いのだが、内面と外面のギャップが天と地のごときありさまであることを知る俺にとって、こいつは敵でしかなかった。
そして胸が無い。
「よう」
へんじがない。ただのしかばねのようだ。
前方の敵は、俺を視界に捉えているはずなのになんのリアクションも見せようとしない。千代田怜の顔を見ると、死体のようにげんなりしている。死んでるのか? 歩きながら死んでいるのか? ウォーキング・デッドなのか? ……正確には、ウォーカーとかバイターとか言われるのだが……って、もしや、この顔は――
「なんでFXで有り金全部溶かした人の顔してんだ?」
「ふぇ?」
「ふぇ? じゃねえよ」
「……磯野じゃない。なにしてるの」
「は?」
ちなみに磯野とは俺のことだ。
某国民的アニメのせいで、本名なのにあだ名のような扱いを受ける。磯野家の末裔として雨森や赤尾などの友達がいれば、すこしは自分の苗字が戦国武将寄りの扱いになっていたんだろうが、生憎そんな苗字の友達はいなかった。
「いやだから、なんでFXで有り金全部溶かした――」
「ちょっと……それシャレになってないから」
「怜、お前まさか本当にFXで有り金全部――」
「いやいやいや、FXには手は出してないから」
「じゃあ、なにが原因で有り金全部溶かしたんだよ」
「全部は……! 全部は溶かしてないから……」
こいつ、涙目になってないか? ていうか、声かけた俺が悪いみたいじゃねーか。……うーむ、仮想通貨とかだろうか。よくわからない。が、なんだか追及するのが気の毒になってきた。
「……あのね、奨学金の借金返すには今のうちからいろいろやっておかないといけないの」
「いろいろって、まさか体を売る方向で――」
空手チョップがとんできた。
「んなわけあるか馬鹿」
文化棟へ向きなおると、さきほどまで誰もいなかったはずの玄関前に、キャスケット帽を被った一人の女性を見とめた。
その女性は文化棟を見上げていた。
胸もとに淡いピンクのリボンがついた白のブラウスに、薄手のカーディガンを羽織っている。右手には服に隠れてはいるが杖のようなものが見えた。
なにを見ているんだろう。
彼女の横顔は、帽子に隠れてはっきりとは見えない。しかし、帽子の下からのぞく白い肌とすっと通った鼻梁。その佇まいは、まるで楚々とした一輪の花のようだった。
突然、既視感に襲われる。
穏やかな陽射しとひらひらと舞う桜の花びらが目の前の景色に重なって見えた。
そうか。これが、既視感か。
*****
一年前の入学式。
新入生とサークル勧誘の在校生でごったがえす文化棟玄関前に、俺は建物を見上げる彼女の姿を見とめていた。
キャスケット帽に隠れた彼女の髪は、さらに短かった。
そして、車椅子姿。
凜としたその姿に、俺はただただ見蕩れてしまう。
――そう、それは、一目惚れだった。
*****
文化棟には、他の大学棟には設置されているエレベーターがなかった。サークル棟ということもあって予算が出ないのだろう。バリアフリーとは縁遠い建物だった。
車椅子の彼女がこの文化棟に足を踏み入れたとしても、二階以降にある部室フロアにたどり着くのは難しかったはずだ。
サークルに所属することなどできなかっただろう。
歩けるくらいまで良くなったんだろうか。
杖をつきながらも一人立つ彼女の姿に、俺は嬉しくなった。
「磯野、なにぼーっとしてるの」
千代田怜の声で我に返った。
キャスケットの子をしばらく見つめていたらしい。
ひさびさに見かけて嬉しかったわけだが、こいつの前でにやけ面とかしていなかったよな?
玄関に顔を戻すと、彼女の姿はすでになかった。
「なあ、そこに人がいたよな」
「人?」
「玄関前にいただろ。帽子の」
「え? 誰もいなかったじゃない。暑さで頭おかしく、」
「なに言ってんだ、さっきまでそこに――」
「いやいやいや、いなかったから。誰もいなかったから。いるのは暑さで頭やられたアンタだけだから」
「やかましい」
千代田怜は、へらっとした顔を向けてくる。
ったく、さっきの泣きっ面はどこにいったんだよ。
俺は、キャスケットの子が立っていた玄関前へ駆けよった。
が、その立ち位置から周囲を見渡してみるも、それらしき人影はない。俺のいた場所から死角になるとすれば、彼女の行き先は目の前の文化棟玄関とそのさきのロビーくらいしか無いのだが。
玄関から文化棟ロビーへと入る。
ふだんなら軽音サークルなどの地下にあるスタジオを使う連中がたむろしているのだが、昼飯時というのもあってかガランとしていた。
キャスケットの子も見あたらない。
ロビーの両端にある階段をすでに上ったのか?
杖をついたあの足で移動できる距離とは思えない。実は杖は飾りで、足は悪くなかったのだろうか。
「無視してるだろ。さっきからわたしのこと無視してるだろ」
ロビーのほかにどこか行ける場所はないか? ……うーん……まったく思いつかん。
――あれ? なんで俺はここまでして彼女を探しているんだ?