03-05 なんでウサギの飼い慣らし方を調べているんだ俺は!
丸一日分の記憶喪失、二重人格の疑い、千葉が抱える謎と、距離が縮められないもどかしさが磯野を困惑させる。
「え?」
いまなんて言った?
俺が彼女に振りむいたそのとき――
「ちばちゃん!」
高めにおさまるポニーテールを揺らしながら、セーラー服がちばちゃんにかけ寄ってきた。青葉綾乃だ。振りかえるちばちゃんにおはようと挨拶し、こちらを見て、
「あ、磯野さん、おはようございます!」
そう言ってぺこりと頭を下げた。
俺も軽く手を振ると、青葉綾乃は手を振りかえしながら高校の校舎に向かって歩きはじめた。ちばちゃんは、青葉綾乃のその仕草につられたのか、少し遠慮気味に俺に手を振った。
映研の部室に戻ったのは午前九時を十分過ぎたあたり。
部室にはまだ誰も来ていなかった。もわっとした空気に耐えながら空調の温度設定をし、ソファに座った。途中で買ってきたコーラのペットボトルに口をつけてテーブルの上に置く。
現実世界に戻れたことに喜んでいたのも束の間、とんでもない事実の発覚に頭の回転が追いつかない。
八月八日の記憶の喪失。
俺のなかにもう一人の人格がいるかもしれない、という疑念。
なんなんだこれは。どうなっているんだ俺は。
原因について考えてみても、生まれてこの方、二重人格なんてものが生まれてしまうようなトラウマなんて抱えた記憶はない。
いや、過度のストレスだったからこそ、その原因となる記憶を思い出せないだけかもしれない。夢遊病だってあったんだ。俺自身、なにか深刻な問題を抱えている可能性だってある。そうなればもうお手上げだ。俺自身でどうにかするには限度を超えている。
ただトラウマの線は俺の中でしっくりきてないのもたしかだ。
……一旦、考えるのはよそう。昨日八日の俺の行動を探るにしても、他の面子が部室にくるまではどうすることも出来ないし。
不安な気持ちから目をそらすためにももう一つの問題に頭を無理やり切り替えてみる。
もう一つの問題――そう、ちばちゃんについてだ。なんで朝早くに部室に来たのかも、大学ノートのことも、結局はわからなかった。けれど、さっきの会話の具合からすれば仕方ないだろう。ちばちゃんとコミュニケーションが取れただけでも頑張ったよ俺。
あの様子だと、ちばちゃんから話を聞き出すのは相当仲良くならないといけないことはわかった。しかし、どうやったらあの怯えたウサギと仲良くできるのだろうか。
ためしにググるか。
「えー……とにかく時間をかけて優しくすること。休日に半日から一日かけて頬の骨のあたりから、次第に全身をマッサージしてあげると喜びます」
なんでウサギの飼い慣らし方を調べているんだ俺は!
……けど基本動物だし、通じる部分もあるんじゃないか? ねえよ! しかも女子高生に全身マッサージとかどう見ても犯罪でしかないだろ。
だが、オカ研世界のちばちゃんも気さくにやり取りできるまでに、半年くらいかかったからなあ。……いやいや半年なんて待てねえぞ。こうなれば飼い主のポニーテールに、ちばちゃんのこと訊き出すのが先決かもしれない。
そういえば、さっきちばちゃんが去り際に言っていた言葉ってなんだったんだ? ……たしか「どこに」だったか。
昨日の映研での俺の話題といい、ちばちゃんも俺に訊きたいことがあるってことだよな。なら、お互い利害が一致するわけだから、上手くタイミングが合えば、「どこに」の意味もそのうち教えてくれるのかもしれない。
とはいえ、部室に来るときは、あの二人はいっしょだろう。ちばちゃんにしろ青葉綾乃にしろ、二人きりで話せるタイミングなんてどうすればできるんだ? 当然部室にはほかの面子もいるだろうし。
……あー、やっぱりさっきのモスバーガーでの二人きりの時点で、少し強引にでも訊き出すべきことは訊き出したほうがよかったんじゃないか? ちばちゃんと二人っきりなんていうイレギュラーなシチュエーション、今後作れる自信はないぞ。けど強引に訊き出すってどうすれば……いや、青葉とちばちゃんは……基本二人で……やっぱ…………
話し合う声が聞こえる。
……あれ、まだ部室には誰も……ていうか、エアコン効き過ぎじゃないのか……って!
気がついてあたりを見ると、柳井さんと竹内千尋がいつものように窓側のパソコンの前で話し合っている。そして手前のソファには、千代田怜が雑誌を眺めながらアイスコーヒーを飲んでいた。
「寝てたのか? いや――」
パソコン机の横にあるジェラルミン製のカメラケースが目に入った。
「なんだ……映研か」
「なんだ……映研か」
千代田怜がワザとらしく真似してきた。まったくもってうっとおしいヤツだなコイツは。
「あのさあ、なに寝ぼけて厨二病めいたセリフ吐いてるの」
「いま……何時だ?」
怜はなんでわたしがと言わんばかりの渋面を向けてきた。が、かまわず返答をまつ俺に、怜はため息をついてスマホ画面を確認した。
「午後三時半過ぎ、これでいい?」
……なんだよ、六時間近く寝ていたのか。たしかに朝っぱらからいろいろあって疲れてはいたが、いやまて。
俺はG-SHOCKとスマートフォンを取り出して、時間をそれぞれを確認する。どちらも八月九日 十五時三四分。
さすがに一日は飛んじゃいないか。
「ちょっと……人に時間たずねておいて、なんで自分でもう一度確認するの」
怜が口をとがらせた。
睡眠を挟んでもあっちの世界に飛ばないってことは、これでもうオカ研世界へ迷い込むことはなくなったってことでいいのか? いや、多重人格の線だとしたら、寝ているあいだにもう一人の俺が活動していた可能性もある。
「なあ、俺は何時間くらい寝てた?」
「さんざん無視してそれ?」
「僕が部室に来たときはたしか十二時で……そのときにはもう磯野はいたから、少なくとも三時間半は寝てたんじゃない?」
竹内千尋がパソコンから身体を起こして答えた。
なるほど。寝ているあいだになにかあったわけじゃなかったんだな。ただの睡眠で安心したが、当面は目覚めるたびにこの確認が必要になるのか……。
柳井さんもまたパソコンから目を離してこちらを見た。
「大丈夫か? 昨日の今日だからな、まだ撮影日も決まってないし無理してこなくてもよかったんだぞ」
え? その口ぶりだと、やっぱり昨日の俺はなんかやらかしていたのか?
……いや、俺もオカ研の世界でやらかして、医者に診てもらうことになってしまったので人のこと? は言えないけれども。だがこれで、多重人格かどうかは定かではないが、すくなくとも俺の別人格がいることは確実だな。
「柳井さん、こんなやつ、いちいち心配しなくていいですよ」
「千代田と磯野のやり取りは、ふだんとかわらん気がするがな」
「だからダメなんですよコイツ。またオカルト研究会がどうとか言うんでしょ?」
柳井さんは、怜のふくれっ面を笑って流した。
……って、ちょっとまて。オカルト研究会?





