03-04 二十歳すぎると急に痴呆症が進むというか
磯野は、霧島千葉の話を照らし合わせた結果、丸一日、意識の無い時間が存在していたことに気づき驚愕する。
俺はスマートフォンを取り出して、待ち受け画面の日付を見た。
八月九日 午前八時四二分。
「え、なんで?」
俺は眩暈を感じながら思わず呟いた。
九日……だと? 八日じゃなくて? なんで俺は朝起きたときに気づかなかった?
ちばちゃんたちが映研に来た七日と、今日九日のあいだにある二四時間の空白。七日の夜から丸一日、本当に俺は、あのオカ研の夢の中にいたってことか?
そんなことあるはずがない。もしそうなら、
――俺は二十四時間以上寝ていたことになるぞ?
……ちょっとまて。
「ちばちゃん、昨日って言ってたよね? 昨日八日に俺と会ってた?」
ちばちゃんはうなずいた。
その一日の記憶がすっかり抜け落ちている。
この子は八日は俺に会ったと言う。彼女の言うことが正しければ、俺は八日も普通に起きて生活していたことになる。。けれども、八月八日の記憶が俺にあるとするなら、あのオカ研の世界を過ごした時間しか思い当たらない。なんだよ、どうなってるんだ? 例の夢遊病がまた発症したのか?
「……えっと、会っていたのは部室で?」
ちばちゃんはもう一度うなずく。
つまり、俺が八月八日にオカ研の夢の中で過ごしていたときに、もう一人の俺は映研でちばちゃんに会っていた、ということか。なんだよ、ジキルとハイドかよ。二重人格かよ。わけが解らない。
七日の深夜の夢遊病が関係しているなら深刻どころじゃない。二四時間まるまる意識が無いってことだ。だが、俺の意識が無いあいだに、ほかの人格が俺を操っていたってことなら、やっぱり二重人格と考えたほうが自然ではある。
もし二重人格じゃないのなら――まったく馬鹿らしい考えなのだが――映研の現実世界と、オカ研というもう一つの現実世界があって、それぞれの俺がなにかのきっかけで入れ替わってしまったってことか?
あと現実的な可能性として、真柄先生の言っていた記憶錯誤、いわゆる記憶障害ってやつだ。
昨日俺は普通に映研で八月八日を過ごしていたが、オカ研で過ごしたという偽の記憶――記憶錯誤を起してしまった、というのはどうだ?
いや、やはり無理があり過ぎる。
ふだんならどれも馬鹿馬鹿しくて考えることすらしないだろう。だが、丸一日、現実の記憶がないうえに、その一日を俺がちゃんと活動していたという事実を突きつけられれば、この異常な事態を無視しろというほうが無理だ。
「ちばちゃん、昨日の俺ってなにしてた?」
「……え?」
「映研で俺はなにをして――」
いやいやいや。この質問すごく頭が悪いぞ。昨日の自分がなにやってたかを他人に尋ねるなんて、なに考えてんだ俺は。けどなにも覚えてないんだ。どう質問すればいいんだよ、仕方ないじゃん。
「あ……いや、なんつうか、例えば、昨日の晩ごはんとか思い出せなくなるときとかない? 二十歳すぎると急に痴呆症が進むというか……アルツハイマー気味になるというか……だいたいの人がそうなる」
なに言ってんだ俺。
俺のあまりにも無理筋過ぎる言い訳を、ちばちゃんはポカンとした顔で聞いていた。
俺は、己の発した言葉のアホさ加減に頭を抱えって一人呆れていた。……のだが、ちばちゃんは首をかしげ、少しのあいだ考える様子を見せたあと、もう一度俺の顔を見ると、納得したかようにこくりとうなずいた。
え? 大丈夫か、この子。
そこへ着信音が鳴り響いた。
ちばちゃんは鞄からスマホを慌てて取り出した。
多重人格にしろ世界がもう一つあるにしろ共通するのは、俺のなかにもう一人の人格が存在するってことだ。もう一人の俺も、現実世界とオカ研のあの夢の、二つの世界の人生の記憶があるんだろうか。……正気で考えるにはあまりにもデタラメすぎる。
投げ出したくなる思考から我に返ると、スマホを見ていたはずのちばちゃんが、いつの間にか俺を見ていた。
あ、返事を返したいのか。デートでもないんだし、そんな律儀にマナーなんて気にしなくてもいいのに。この子は本当に育ちがいいんだろうな。
俺はちばちゃんにうなずき返した。
ちばちゃんはスマホを操作しだした。
さっきまで俺としていた会話とはいったいなんだったのかというくらいに、フリックで次々と文字を入力していく。すげえな、俺より速いぞ。
もしかして、SNSでやり取りした方が円滑なコミュニケーションが取れたりするのか? そもそもこの子はどんな文面を打ち込んでいるんだろう、すごく気になる。
コミュニケーションといえば、昨日の俺が部室でなにをしたかについては、ちばちゃんからわざわざ訊き出さなくてもいいんじゃないか? 部室に戻って、映研の連中から話を訊けば済むわけだし。うん、そっちのほうが楽だな。
「あの……」
「ん?」
「綾乃ちゃんが……学校に」
綾乃ちゃん? ああ、ポニーテールか。
「じゃあ、学校に戻ろうか」
アブラゼミの鳴き声に加えて、ゆらゆらとアスファルトから陽炎が立ちのぼりはじめた、モスバーガーからの帰り道。
俺はいまだに混乱していた。
そりゃそうだ。丸一日、別人格が俺の体で好き勝手に過ごしていたんだぞ。しかも俺自身にはまったく記憶が残っていない。想像しただけで吐き気がしてくる。
そうだ。
「さっき、ちばちゃんが訊きたかったことってなんだっけ?」
俺の突然の質問に、ちばちゃんは立ち止まってあわあわと慌てふためいた。かわいい。
「えっと、ちばちゃんがさっき「昨日の……」って言いかけてたじゃん。あれって」
俺の言葉にちばちゃんはピンときたらしい。
そういえば、という顔をしたあと口を動かそうとしたが、いい言葉が見つからないのか途中で口をつぐんでしまった。
「あ……いや、いつでもいいから。気になったときに訊いてくれれば」
俺はそう言って歩きだした。
が、ちばちゃんはやはり訊きたいことがあったのだろう、モジモジしながらついてきた。いいんだ。部室に戻ったら千尋なり怜なりにたずねればいい。まてよ、部室といえば――
「朝、文化棟に来たのは」
「……文化棟?」
「あ、サークルの部室がある建物のことね」
ちばちゃんは、なるほど、という顔でうなずいた。
「文化棟に来たのはスケッチしたかったからかな?」
ちばちゃんは立ち止まった。
彼女の口からなにか出かかったように見えた。しかし、どうしても言葉にすることができないのだろうか、さっきと同じようにまた口をつぐんでしまった。そしてあきらめたのか、下を向いたまま歩き出した。
うーん、やっぱりダメか。けど本当は、俺になにか話したいことがあるようにも見える。少しは打ち解けてくれたのかもしれない。そのうち話してくれると嬉しいのだが。
そのあとはお互い無言のまま、大学の南門に到着した。
ちばちゃんはとなりの高校で待っているポニーテ……青葉綾乃に会うということで、ここでお別れということになった。
「じゃあ、俺は部室に戻るから、講習終わって暇だったらまた遊びに来てね」
ちばちゃんは、こくんとうなずいた。
俺は手を振ってちばちゃんに挨拶すると、南門をくぐろうと一歩足を踏み出した。そのとき、ちばちゃんの囁くような声が耳に届いた。
「……あの…………どこに」





