03-02 健全かどうかはさておき
例の女子高生を階段転落から救ったはずの磯野は、その後のシチュエーションからあらぬ誤解を恐れ、彼女を朝食へと誘うが――
大学の南門から、ファミリーマートを越えたさきのホームセンターの敷地内にモスバーガーがあった。
店までの距離を、一〇分ほどかけて俺とちばちゃんは歩く。会話は無い。気まずい。非常に気まずいのだが、仕方がないとも思う。お腹をならしたちばちゃんきっかけのあの状況から、どうやって会話で盛り上がれというのだ。
二メートルの距離を維持して俺のうしろをついてくるセーラー服の少女。
まだ朝とはいえ、すでに夏の日差しが街路樹に木漏れ日をつくるなか、蝉の鳴き声だけだが、このなんとも言い難い時間に救いを与えていたのは言うまでもない。ていうか、なんで歩いてすぐに手ごろな飯屋が存在しないんだよ、この大学は!
と、いうわけで、俺たちは窓側の席に座った。
ちばちゃんの前にはモスバーガーのセットに紅茶、俺の前にはモスチーズバーガーにコーラがあった。はたから見れば、ガタイのいい大学生と制服姿の怯えた女子高生が、不器用な感じで向かい合っている図。
それでも大学生と女子高生なんだから、最悪、家庭教師と教え子とか、高校時代の先輩後輩の関係とか、健全かどうかはさておき、まあありえなくはないわね、という風には見えるはずで、援交とか出会い系とかいう犯罪めいた景色にはなってないはずだ。いや、さすがにないだろう、大丈夫だよね、たぶん。
……そんなことはどうでもいい。
いま真っ先に気になるのは、目の前の少女にしてみれば、遠まわしにではあるにしろ、俺が転落のきっかけを作ったといえなくもないさっきの出来事についてだ。考えすぎか? いやいや、ここは用心に越したことはないだろう。巷でも、誤解から冤罪めいた事態になっているのを、ニュースとかでもよく見るじゃないか。
……いや、冷静に考えれば理不尽だ。そうだよ、まったくの理不尽なのだが。
さりとて、俺が転落から助けたと思っていたその行為も、彼女からしてみればパニックの最中に、きゃあ、あの男に乱暴されたわ、不潔! とか思われているかもしれない、という疑いが残っている。この下手をすれば社会的にソーシャルな致命傷となる疑惑を、なんとか払拭しなければならない。
まあ、彼女のさっきの素振りや、飯に誘ったらおとなしくホイホイついてきたことからすると、警察沙汰に陥るような疑いをかけられている可能性は薄いのではあろうが。
とりあえず、飯をおごって心証をよくしてなにもかもチャラにしてもらおう作戦は、最悪の事態の回避としては悪くないはずだ。しかしこの万全であろう社会的危機回避のせいで俺の財布の残りが消えるのはとてもつらい。つぎのバイト代が振り込まれるのは二日後だったか……。これこそ夢であってほしい。
「……気にせず食べてくれ」
俺の言葉にちばちゃんは子リスのようにぶるっと体を震わせた。そして、俺をおそるおそる見たあと、目の前にあるハンバーガーとの往復を何度か繰りかした。そしてやっと納得したのか、小さくこくりとうなずいて手を合わせたあと、モスバーガーの包装紙を開けはじめた。野良猫の餌付けでもしているのか俺は。
だがこの様子を見ると、やはり彼女はなにかを意図して俺に接触してきたわけではないようだ。そんな勇気があるなら、もうちょっと、そう、あのポニーテールのような勢いがなければおかしい。
「さっきはすまなかった」
俺のあえて言葉足らずではあるが、いろいろな意味を含んだ謝罪。
ちばちゃんはひと口食べたあとのハンバーガーを皿に置くと、うつむいて左手で耳もとの髪をかきあげた。困ったときの癖なんだろうか。
少女は、そっとささやくようにつぶやく。
「……いえ、わたしこそ……ありがとうございました」
いえいえこちらこそ! ご迷惑をおかけしました!
よかったよかった! 言質がとれたぞやったね俺。
これで少なくとも、乱暴されたうえに、脅しに屈して仕方なくモスバーガーへ連れてこられた、哀しき女子高生という疑いは晴れたわけだ。……あれ、字面にすると、悪党が少女をさらったあとに、へっへっへ、ごちそうを食べさせてやる。よろこべ! みたいな感じになるな。いや、まあいい。
さて、目下の懸念事項は解決したが、これからどう探りを入れようか。
「そういえば今日も制服だけど……夏期講習でもあるの?」
ちばちゃんは少しこちらを見た。そして、こくりとうなずいた。
なんだいまの間。いや、この子なら普通か。なにかあったとしても、探りを入れられてると思って警戒してるくらいのものだろう。
「そっか。講習の時間は? 大丈夫?」
「……九時からだから……まだ大丈夫です」
ん? だとしたら、一時間前の朝の八時に、わざわざ大学の部室に来た理由がなおさら気になるじゃないか。ここはストレートに訊いてみるか。
「さっき部室に来たのは……」
部室という言葉が出た瞬間、ちばちゃんの空気がはりつめた。なんともわかりやすい反応。
なにか理由があるんだろうが、どうしたものだろう。
このまま心を鬼にして答えるまでまつのも一つの手だが、彼女との距離に溝ができるのは避けたい。……というか、本当のところはこの子を問い詰めるのはなんだか可哀想だ。
「その……ふだん部室は昼前あたりにならないとあかないから、朝来ても入れないよ。今日はたまたま俺が早くに来てたけど」
ちばちゃんは、朝から部室に来た理由について追求されないと理解したらしい。わずかに緊張がとけたのか、小さくうなずいた。
とはいえ、これでは部室に来た理由がわからないままだ。
うーん、気にはなるけど、その理由を知るにはもう少し打ち解けてからじゃないと無理だろうなあ。もどかしいが話題を変えて、もう一つ気になることを。
「えっと、あの大学ノート、ボロボロだったけど、昨日言っていたみたいにシナリオとか書きとめてあるの?」
「え? いえ……あれは……」
ちばちゃんの顔色が一瞬で真っ青になった。
この子にポーカーフェイスは無理なんだろうな。この反応だけ見ても、あの大学ノートは彼女にとって重要なものなのだろう。俺の質問にすかさず否定したってことは、シナリオ用のノートの線は消えるだろう。だとすれば、いったいなにが書かれているんだろう。
俺に眩暈を起こさせ、オカ研世界というもう一つの現実のような世界の夢を見せるきっかけとなった大学ノート。魔道書? いやまさか。
だが、霧島千葉という本名の一致。この俺が知るはずのない情報を、夢の世界で見させられたという超常現象が起こったいま、なにが出てきてもおかしくはない。
そんなことを考えているあいだも、ちばちゃんは口をつぐんだままだ。仕方ない。この子とポニーテールは、うちに体験入部しているらしいから、またそのうち探りを入れる機会もあるだろう。
もしうまく聞き出すきっかけがつかめないとしたら、うーん、正直、人としてどうかと思うが、鞄から盗み読むという選択肢も頭に入れておかないといけない。色の薄い世界ですでにやってはいるが、最悪の手段だな、これは。けど、探りを入れているあいだに、俺の頭のなかにいまだ残るもう一つの記憶が消えてなくなってしまえば、それこそ御の字ではあるのだけれども。
「そういえば、学校がはじまるのいつから?」
「……十八日、からです」
今日は八日だから、この子と接触できるタイムリミットは、あと一〇日か。





