03-01 なに冷静にエロゲー描写してるんだよ俺は!
もとの世界へと戻ってきた磯野は、現実であることを確かめるため部室を訪れる。が、そこで意外な人物と邂逅し――
俺が一歩踏み出すごとに、少女は一歩後ずさる。
だが彼女のうしろには階段があるため、足もとはおぼつかない。
ここから見ていても非常に危なっかしい。これ以上近づいたら、彼女は俺に気を取られて足を踏みはずしてしまうだろう。
ならいっそのこと、彼女の本名をこの場で訊いてみるのはどうだ?
いや、それはマズい。
突然「きみは霧島千葉なのか?」なんて口にしてみろ、怯えたウサギのような彼女をさらに動揺させでもしたら、それこそ階段へ転落なんてことにもなりかねない。
じゃあどうする?
そうこうしているうちに、呆気なくタイムリミットが訪れてしまった。
思考によるしばしの沈黙。この意図しない無言の圧力に少女は耐えきれなかったのであろう。うしろに引いてはいけないはずの足を、一歩、引いてしまった。
「ダメだ!」
「え……?」
彼女の引いた右足は空を踏み、身体がうしろへと大きく傾いた。
思うよりも速く、俺は大きく足を蹴って一歩、二歩と踏み込み、三歩目を蹴り出す。と同時に、右腕を思いっきり伸ばした。
動体視力が振り切れたのか、まるですべての動きが水中で起こっているような感覚に襲われる。
一方、階下にむけてゆっくりと、瞬く間に宙へと倒れ込む少女の身体。
が、俺の右手が、彼女の左手首をすんでのところでつかんだ。
「……嫌!」
少女は、自分の置かれている状況が理解できないのか、反射的に俺の手を振りはなそうとしてきた。
そうはいくかよ!
俺は彼女の手を強引に引き寄せて、階段に落ちないように身体を壁に押しつけた。少々乱暴になってしまったが仕方がない。転落なんてさせられないからな。
恐怖の色を浮かべる小さな少女の瞳は、涙で溢れていた。押さえつけてしまった勢いでセーラーの襟は乱れ、彼女の白い首筋が露わになった。
って! なに冷静にエロゲ描写してるんだよ俺は!
いや、エロゲーとかそういうのであれば、このシチュエーションはラッキースケベだ。ラッキースケベ的なあれだ。しかも、背徳的と枕詞がつくくらいに、直前あたりでセーブ3あたりに保存したくなるやつだ!
いやいやまてまて、そんな妄想解説ぶっこいてる場合か!
いまの状況って、どっから見ても女子高生を無理やり押さえつけてる暴漢じゃねえか!
「わっ……悪い!」
俺は慌てて、エロゲ主人公のようなセリフを吐いて両手を離した。その拍子に、ちばちゃんの鞄が肩からずり落ちてしまった。
「あっ……」
階段をするすると落ちていく鞄。
そのさきの踊り場には、俺が助けたときに落としたらしいスケッチブックがあった。
すべり落ちていった鞄を目で追いながらも、彼女は身動き一つ取れない。
ああああ……なんだこれは。非常にまずいぞ。誤解を解きたいがどうすればいい?
いや、それよりもまずは――
俺は踊り場までおりて、鞄とスケッチブックを拾いあげた。そのまま、スケッチブックの表紙に書き込まれている名前を確認する。
――霧島千葉
……なんなんだ、これは。
いままで疑いを持ちながらも、どこか現実味のない憶測と思っていたあの二つの夢の出来事。それが、霧島千葉という名前を目の当たりにしたことで、一気に現実となってしまった。
目の前の超常的な現実に思いっきり頭を殴られる。
くそう……どう対処すべきか判断するための思考がことごとく散逸していってしまう。
どうすればいい? この現実を、どう受け止めればいい?
……いや、まずは、目の前にあることをひとつずつ処理しなければ。
俺は、ちばちゃんのところまで戻り、鞄とスケッチブックを差し出した。
ちばちゃんは少し躊躇ったあと受け取ると、大事そうに胸へ抱き込んだ。
――夢の中で知った霧島千葉という名前が、目の前にいる少女の本名だったという事実。
この超常的オカルト的現象をどう受け止めればいい?
俺はあの眩暈で予知能力でも授けられてしまったのか? ……ダメだ、頭が混乱して理解が追いつかない。
俺は思考停止のまま、ふと湧いた疑問が口に出た。
「絵、描くの?」
ちばちゃんは俺の問いにビクリとしたあと、真っ赤な顔でうつむいた。
まてよ、霧島千葉は友達で、目の前にいるちばちゃんはその友達のスケッチブックを持っているだけで、本名は違う名前という……。いやいや、そもそも彼女が霧島千葉本人かどうかよりも、夢の中でしか知り得なかった霧島千葉という名前が、この現実世界にでてくること自体が問題だろう。そう、問題ではあるからこそ――
「ちばちゃんって、霧島千葉って言うんだ」
しっかりと確認すべきだ。
ちばちゃんは一瞬、驚いて俺を見た。が、恥ずかしそうに目をそらしたあと、コクリとうなずいた。
よし! 俺のなけなしの脳みそよ、よくやった。
だがいまのリアクションはなんだ? 千葉という読み方を当てられて狼狽えているようだったが、それとは別に、ただ恥ずかしがっているだけのようにも見える。
さっき俺を見たときのちばちゃんの仕草は、俺のことを怖れてのことだと思っていた。けれど、単に彼女が内気だったがために、そういう素振りを見せていただけなんだろうか?
いやいや油断するな。ただの気弱な女の子であれ、超常現象の原因的存在であるという疑いはバリバリ健在なわけだし。
もう一度、ちばちゃんを見る。
可憐な少女は、顔を赤らめたまま、俺の視線を避けるようにうつむいていた。
正直に言おう。
――最高にかわいい。
ううむ、俺はこの子を誤解しているのか?
俺に降りかかった奇妙な出来事の発端は、あの眩暈とその直前に見た大学ノートだった。そしてその持ち主の霧島千葉。だから早朝に部室に訪れ、俺と鉢合わせた彼女に疑いの目を向けてしまった。
しかし、この時間に部室にきた理由はわからないとはいえ、彼女と出くわしたのはただの偶然じゃないのか? さっき俺を見て後ずさったのも、特に深い意味はなかったんじゃないか?
そうだよ。だって、こんなにかわいいじゃん!
ちばちゃんは慌てているのか、受け取った鞄を肩にかけようとしていたが、肩かけがねじれてしまいそれを直すのに悪戦苦闘していた。かわいい。目の前ののどかな様子に、またも肩の力が抜けてしまう。
グー。
突然、生物学的なおかつ生理的な効果音が廊下に響いた。
ちがう。俺じゃない。
ちばちゃんは顔を真っ赤にして涙目になりながら俺と目が合ったあと、さきほどとは別の理由で逃げ出してしまうくらいの恥じらいを見せて、顔をうつむかせた。
なんというか……たいへん申し訳ない。
いや、俺はなにも悪いことはしていない。とはいえ、アイドルがトイレに行くのを目撃してしまったような、そんなタブーに踏み込んでしまったような感覚に襲われてしまう。
空気を……そうだ、空気をかえろ磯野。なにか……なにか話題を――
「朝飯……食った?」
おい! なに思いっきりトドメ刺してるんだよ! ダメだろこれ!
何度目になるのだろう、涙に濡れた顔に狼狽の表情を浮かべたちばちゃん。少女はすこし躊躇ったあと、戸惑い恥じらいが入り混じる表情で、小さくつぶやいた。
「いえ……まだ……」





