02-06 いまいる世界を夢だと思っているでしょ
夢の世界に迷い込んだ磯野は頭を疑われ、医者に連れていかれたのだが――
教室には俺と真柄先生の二人。真柄先生は、表情を変えずに問診票をザッと見てから顔をあげた。
「ここにも書かれているけど、よく眠れているみたいだね」
「いつも七時間は寝てる思います。夏休みなんで、下手すると昼近くまで寝てるときもありますけどね」
「わかるよ。私も学生時代は似たようなものだった」と真柄先生は笑った。
「ちゃんと夜に寝て朝に起きられているのはとても良いことだよ。さて磯野君、どんな症状なのか話してもらってもいいかい?」
この世界が夢であろうと、対面している真柄先生もふくめ世界とその住人たちは、非常にリアルだ。
だとすれば、目の前にいる人物は、研究者とはいえ人を見ることが商売なわけで、やはりそれなりの観察眼があるとみたほうがいい。
つまり嘘をついたところで見破られるのがオチだ。
それなら、この専門家にすべてを打ち明けて、俺のおかしな状況に対する打開策を探ってもらったほうが良いのではないか?
そもそもオカ研の連中に相談したのも、知り合い以外に俺の話を聞いてくれるあてなどないだろう、といううしろ向きな理由からだったじゃないか。それなら夢の中であれ、精神医学の専門家に相談できるのだから、これはむしろチャンスととらえるべきだ。
とは言っても、現実世界である映研の世界を夢にしたうえでの相談なわけだが。
「とても長い時間、夢を見たんですが、その夢の中の世界や人々が現実世界ととても似ていて、けど、所属しているサークルなどところどころ違うところがあるんです」
俺は一度言葉を止めて、相手の反応をうかがった。が、真柄先生は、眉一つ動かさずに話を聞いていた。
「……えっとですね、それだけなら珍しいとはいっても、普通の夢と大差はないと思うんです。けれど、とても妙なのが、その夢の中の世界の、生まれてからの記憶がよみがえってしまったんです」
「夢のなかの生まれてからの記憶? それははっきりと覚えているのかい?」
「はい。目覚めてからいまも、そのときの夢の人生の記憶がいまだに残っているんです」
「どれくらいはっきりと覚えているんだい?」
「いままで生きてきた記憶に混乱が起こってしまうくらいに鮮明に、ですね」
こんな感じで、俺の身に起こっている状況と、例の色の薄い世界の夢も含めて真柄先生に話した。
真柄先生は、最後まで辛抱強く聞いてくれた。とはいえ、真柄先生が話を理解してくれたと真に受けてはいけないだろう。
それでも、自分が抱えている解決しないモヤモヤを他人に話したことで、胸のつかえのようなものが取れたのか、すこし気分が楽になった。もしかしたら、いまのおかしな状況がそれなりにストレスになっていたのかもしれない。
ひととおり話し終わったところで、先生は「なるほど」とうなずき、考え込むように押し黙った。
この無言の間は、正直、居心地の良いものではなかった。それも仕方がない。こんな話、している俺でさえ頭がおかしいと思うのだから。
「いまいる世界を夢だと思っているでしょ」
虚を衝かれてなにも言えない俺に、先生は苦笑いを浮かべた。
「気を悪くしないで聞いてくれ。磯野君の話の内容、それ自体は記憶錯誤を疑うものなんだ。いわゆる統合失調症の症状によくある記憶障害の一種でね」
……記憶障害?
「磯野君にあるもう一つの記憶っていうのは、実は実際経験しているものだが、なんらかの理由で脳が勝手に内容をかえてしまったんだと思う。それが偽の記憶としてもう一つの記憶があるように錯覚してしまうってことだ」
いや、それはどうなんだ? 話としては筋が通っているけど、俺自身、その代替されるはずのもとの記憶なんて身に覚えがない……のだが、錯覚だとしたら、それすらたしかめようがない。
「というのも、きみの話には実際に経験したような現実味があるし、演技にも見えないんだ。つまり、きみは本当のことだと信じているわけだね。だけど話の内容――人生の記憶が二つあるってことは、実際には起こり得ない。だとしたら、磯野君の脳が過去に経験した内容を、勝手に改変して記憶している可能性が高いってわけだ」
ぐうの音も出ない。人生の記憶が二つあるってことは、実際には起こり得ない、などと言われてしまえば、もうそれまでだ。
「統合失調症といってもいろいろあるけど、今回のような記憶障害は過去にトラウマがあるとか、ストレスによる追い込まれかたが過度であったりする場合なんだけどね」
ストレス……か。それほどのストレスを俺は抱えているのだろうか?
「それとは別に一つだけ引っかかることがある」
「引っかかることですか?」
「磯野君と接して感じたのは、健常者と話しているのと同じなんだよ。内容はともかく磯野君の話に支離滅裂なところも見られないし、脱線することもない。しっかりと話せている。これは疾患を抱えていればあり得ないことだ。それに統合失調症の前駆症状には必ず不眠があるものなんだが、きみを診る限り健康そのものにしか見えない」
あ、だから最初に睡眠時間のことを訊かれたのか。
「こうなると詐病を疑うことになるんだけど、今回の件で統合失調症と診断されるためにきみがわざわざ嘘をつく必要はないだろう? ただ不思議なのは嘘をついているようには見えないのに、きみの話の内容そのものには現実味がないってことだ」
「それって、つまり――」
「磯野君の発言自体は、統合失調症と診断される内容なんだが、きみ自身の様子は健常者とまったくかわらないってことだ。こうなると結論は、きみが勘違いをしているだけってことになる」
「けど俺の話は勘違いレベルを越えている?」
「そういうことだ。話の内容だけがどうにも不可解でね。まあ、磯野君のいまの状態は、日常生活に支障をきたすレベルではないから、もしまた同じようなことが起こったなら、そのときは医者に診てもらえばいいと思うよ」
そこまで話したあと、真柄先生は「あ」と思い出したように声をあげ、ふたたび苦笑いをして俺の顔を見た。
「検査もしていないしなんともいえないけど、もしきみが薬物に手を出していたのなら話はべつだけどね」
「いえ、薬物なんてやってませんよ!」
「わかってる。大丈夫だよ」
真柄先生は笑いながら一言つけ加えた。
「この商売をやっていると、現代科学では解明できないような不思議なこともままあるんだよ」
解明できないこと……か。
「症状がいつからはじまったのか訊いていいかい?」
そのあとは症状の経過と、生活にどれほど支障をきたしているかについて質問を受けた。
「よし。まあ大丈夫だろう。不安なら紹介状を用意しておくけど――」
真柄先生は言葉を切って首をかたむける。
「いや、用意だけはしておくから必要なら今度取りに来てくれ」
こうして診断は終わった。





