16-02 あのとき、あなたが――受けとめてくれたから
人工知能ZOEをサポートするヒューマロイド、ハル。磯野とともに脱出した彼女を当初見殺しにしようとしたZOEとライナスに磯野は憤りを覚える。
逃げ出したんだ、俺は。
不条理に耐えて戦っている彼女と、それを受け入れながらも、彼女にそれを強いることしか出来ない男のいる場所から。
俺は、霧島榛名を救うための覚悟なんて、まったく出来ちゃいなかったんだ。三一日のあの夜、なにを犠牲にしても彼女を連れ戻すとおのれに言い聞かせていたはずなのに。
こんなときでさえ、右肩の痛みが思考をさまたげる。だが、その痛みこそが、己の不甲斐なさを戒め、情けないことに救いにも思えてしまう。自虐による救いなんて、ただの甘えでしかないはずなのに。
ラウンジから階段へ足をかけたとき、左手をつかまれた。
その手は、まるでテコの原理のように俺の身体を引き寄せる。
――え?
いつのまにか、俺は、彼女に、
抱きしめられていた。
「ちがうんです、わたし、」
彼女は、涙を溜めた顔を俺に寄せた。
「あのとき、あなたが
――受けとめてくれたから――」
受けとめた?
「――受けとめてくれたから、わたしのこころは壊れずにすんで、それで、だから、磯野さん、あなたのおかげなんです」
あまりのことに、その言葉に、俺は固まってしまう。彼女の温かさとやわらかさを全身で感じてしまう。鼻にかかる彼女の髪のいい匂いに思考が飛んでしまいそうになった。
「……俺の、おかげ?」
かろうじて出たおのれの言葉に、やっと我に返り、
――いや、ちがうだろう。
そう、否定した。
俺は、怒りまかせのまま、あんなことをしてしまったのに――
「ハルたちの覚悟を、無碍にしてしまったのに――」
「磯野さん、あのとき、わたしに言ってくれましたよね」
彼女は俺を抱きしめたまま、耳元でささやく。
「あのとき?」
「あのエレベーターのときに言ってくれたあの言葉」
……エレベーターでの言葉?
――おまえは俺の命の恩人だ。つまり、借りがあるってことだ。だから、今度は、俺が霧島榛名を
「――救い出す。いいか、わかったな」
ハルは、声色を真似て、俺の耳もとでそっと言い、それから恥ずかしそうに、笑った。
「ZOEは、わたしを、磯野さんの脱出の手助けをさせるために、わたしのいる場所まで磯野さんを誘導しました。その時点では、彼女は、わたしが負った精神的負荷によって今後の行動に支障をきたすと判断していました。けれど、」
ハルは、まるでキスでもするかのような距離で、俺を見つめた。
「磯野さんが助けに来てくれて、わたしを人間にしてもらえたから。あのとき壊れかけていたこころを、あなたが受け入れてくれたから、だから、いま、わたしは、
――ここにいられるんです。
そう言って、ハルは、もう一度、俺を抱きしめた。
いまさっきまで俺を覆っていた、誰も救うことが出来ないという諦めと苛立ち。それが、彼女の言葉によって、ほろほろと、解けていく。
現実から、俺のたどってきたその記憶から、赦されたわけでのないのに、けれど、それでも。
「わたし、いままで死ぬことは怖くなかったんです。ZOEによって、HALという名前のクローンが五体造られたのも、彼女にとって必要な数だったから。三番目のクローンであるわたしも、どこかでかならず犠牲になる。それを最初から解っていたから。けど、」
ハルは、一度、呼吸を整えて、言う。
「だけど、エレベーターで磯野さんとのあの時間をいただいて、はじめて、わたしは、死にたくないって、そう思ったんです。
――あのときの、あなたとの記憶を、失いたくないから
そう思えて、わたしは、人間が、すこしわかったんだと思います。だから、
――ありがとう」
そうして、抱きしめられた。
とても、とてもやさしく。
彼女は、ふと身体を離した。
彼女の両手が、俺の背中から両腕へとなぞっていった。お互いの両手を握ったまま、離せないまま、それでも彼女は、俺から顔をそらし、黒髪の隙間から赤くなった耳を見せた。
「……磯野さん、お戻りください。博士は、あなたのことを大変感謝しています」
まるで他人ごとのように彼女は言った。
けれど、その言い方は、たどたどしく、不器用に見えて、いとおしく思えた。
客間に戻った俺は、もう一度ソファへ座り、ライナスと対面した。
「申し訳なかった。怒りをぶつけてしまい、俺は、」
「いや、その怒りは当然のことだ。HAL03を見殺しにしようとしたことは、まぎれもない事実だ。私に弁解の余地は無い」
ライナスは、一度、ハルを見て、あらたまったように言った。
「イソノさん、君に感謝したい。文字どおり、HAL03、彼女を救ってくれたのだから」
――彼女を救ってくれた。
いままで、俺が自分に言い聞かせてきた同じ言葉を、目の前の男から伝えられた。それは、俺自身の、彼らの決意と覚悟に対するどこか後ろめたかった気持ちが、言葉どおり、救われたように感じられた。
ライナスは、腕時計を見た。
「あまりゆっくりもしていられない。そろそろここを発ち、霧島榛名さんの救出に向かわなければ」
……霧島榛名の救出。
その言葉に違和感をおぼえた。
霧島榛名の遺伝子からハルたちは造られたのだとしたら、彼女はすでにライナスに、いや、少なくとも合衆国政府に保護されているはずだ。それとも、彼女の遺伝子――DNA情報だけは確保していて、彼女自体はまだ探し出していないってことなのか?
「あの、榛名の救出って」
「ああ、それについては、移動しながら話すことにしよう」
玄関を出ると、冷房の効いていた館内にいたことで忘れかけていた、夏の蒸し暑さが肌に触れた。周囲を見まわすと、どこを見ても森がひろがっている。深緑の木々に囲まれた屋敷前のロータリーに、黒のSUVが二台回されてきた。
G-SHOCKに目をやると、八月一七日一〇時一八分を指していた。
えっ、研究所でZOEから連絡があったのはたしか一六日の零時過ぎだったよな。研究所脱出から、まだ一日しか経っていないのか。だけど、
俺は、左手で右肩を軽く触った。
さっきよりも痛みが緩和されていることに気づく。
これって……白い部屋でも思ったが、この傷の回復の早さは、世界の医療技術によるものだからなのだろうか。
「磯野さん」
振り向くと、ハルが玄関から出てきた。
「あの……これを」
彼女は、胸に抱えていたものを俺に差し出した。
それは、俺の上着と四切れのサンドウィッチの入ったプラスチックケースだった。
受け取った上着はきれいに畳まれていた。
洗濯したてのいい匂いがする。ひろげてみると、止血の際、破られていたはずの右肩の袖が、赤い糸で縫いつけられていた。
「あの……わたし、縫ってみたんです。けど、その色しかなくて……」
ハルは、目をそらし、頬をあからめさせながら、言った。
そのぎこちない様子に、かえってこっちが気恥ずかしくなってきた。けれど、こころの動揺を気取られぬように俺は言った。
「ああ、ありがとう」
上着を羽織ってみせると、ハルは安心したように微笑んだ。
二台のうち、後方の車両に俺たちは乗り込む。
運転席にハルが、後部座席に俺とライナスが座った。
「前を走るSUVには、我々の護衛チームが乗り込んでいる。二台のSUV――キャデラック・エスカレードは防弾仕様だ。合衆国のある機関……いや、CIAの公用車として登録されている。万が一、ZOEによる車両登録および位置情報の偽装がバレたとしても、日本政府は、表向きにはこの車両に手出し出来ない」
「これからどこに?」
「横須賀米軍基地だ。このセーフハウスは引き払い、今後は米軍基地を拠点として、都内の霧島榛名さんの捜索を行う」
二台の車が発進した。
「これより、三ヶ所のセーフハウスから、同じ車両がそれぞれ移動を開始する。日本政府、および、きみたちを襲った連中の目をくらませるためだ」
ライナスはタブレットを俺に渡した。
「これを観てくれ」
ライナスがさきほどから手にしていたものだった。
画面には、複数のウインドウが開かれ、カーソルが勝手に動いている。
「ZOEが操作している」
動画が選択されると、再生された画面には、人工呼吸器らしきものをつけられ、ベッドに横たわっている女性が映っていた。
「……榛名」
彼女は、あのキャスケットの榛名と同じ、ショートヘアだった。
「この世界のキリシマ・ハルナさんだ」
この世界の、霧島榛名……?





