02-01 あ、磯野さんじゃないですか
八月七日の奇妙な夢の翌日、いつも通り部室を訪れると別のサークルに変わっていた。そして、その場にいた謎の女性、霧島榛名の存在を思い出すと同時に、現実ともう一つの世界の二つの人生の記憶が磯野の脳によみがえる。
オカルト研究会の部室の前で立ち尽くす俺を、この場にいる全員が見つめていた。コイツなに言ってるんだ? という疑問と困惑の眼差しが、幾重にもかさなり俺に突き刺さる。
けれども、いま起きている状況を理解しようとフル回転する俺の脳みそに、この場を取り繕えるだけのリソースなどなかった。俺はしばらくのあいだ、セリフを忘れた舞台役者のような状況に晒されつづけた。
「磯野、まあ、戻って座れ」
沈黙を破って柳井さんが声をかけてきた。しかし、それに応じる余裕は俺にはない。
なんで人生の記憶が二つもあるんだ?
そもそもそんなことって現実にありえるのか?
まるでこの状況自体がオカルトじゃないか。
ちくしょう。こうして考えてるいまも、二つの記憶がジワジワと鮮明になってきやがる。
いまに至るまでの交友関係、
小中高のクラスや家での出来事、
映研とオカ研の入部経緯。
記憶に差異があるといっても一つ一つは些細なことだ。けれど、それが膨大な量となり波となって、もともとあった記憶に絡みついていく。
その記憶のなかでも、いちばんの違和感だったはずの存在、霧島榛名。こいつは一年前の今日と同じような暑い日に、妹のちばちゃんを連れてこの部室に訪ねてきたんだった。そのときは、二人ともまだこんなにうち解けやすい性格じゃなくて――
と、霧島榛名は俺の気を削ぐように、眉間にしわを寄せて胡散臭そうに見かえしてきた。
人が真剣に考えている最中に変顔するんじゃねえ。
ちゃんと思い出せば、記憶のちがう箇所がほかにも出てくるのかもしれない。そして、その差異が、このわけの解らない現状を解決へと導くヒントを示してくれるかもしれない。
けれど、いまここではダメだ。この空間にいる俺をのぞいた四人の目線と無言の圧力の中、二つの記憶の確認なんてできるわけがない。まずはここから離れないと。
「磯野、どこに行くの?」
「ちょっと一人になりたい」
「待ってよ!」
俺は、千代田怜を無視して部室を離れた。
俺は一気に一階まで駆けおりた。誰かが追ってくるかと思ったが、幸いその心配はなかった。
玄関を出ると相変わらずの炎天下だったが、玄関を出たすぐ横にベンチにはひさしがあったため日差しを避けるにはちょうど良かった。ここなら、落ち着いて考えられるだろう。とはいえ冷房がないのはつらい。
さて、昨日の色の薄い世界の夢といい、俺の頭の中ではなにが起こっているんだ?
そもそもオカルト研究会ってなんだよ。
たしかに大学の文化サークルなんてものは多種多様なものが存在するし、オカルト研究会などというサブカルの中でもさらに過疎っぽい分野のサークルだったとしても、全国規模ならいくつかあってもおかしくはない。
……のだが、なんでうちの大学の文化棟三階の、しかもちょうど真ん中に部室を構えているんだ? 書店のいちばん目立つ棚に『月刊ムー』が並べられているようなものだぞ? ……正直それはそれで見てみたい気もするが。いや、映画研究会もそんなにポピュラーなサークルじゃないけど。いやまて、
――いま俺が置かれている、この異常な状況自体が夢なんじゃないか?
感覚はリアルだが、昨日見たあの色の薄い世界の夢だってリアルだったんだ。ということは、榛名がちばちゃんの姉だとわかるって、これって本当だとしたら予知夢かなにかになるのか?
……いやいや、いまこれ自体が夢だろ? なにを馬鹿なことを……あれ? 俺はいま夢の中にいて……あーもう、わけが――
「あ、磯野さんじゃないですか」
聞き覚えのある声だった。だが、その口調には違和感がある。
俺は顔をあげると、そこにはちばちゃんが立っていた。
けどなんでこんなところに? いや、こっちの世界ではオカ研メンバーなんだから部室に向かうところか。あー紛らわしい。
もう一度ちばちゃんを見ると、ニコッと笑顔を返してきた。かわいい。
現実世界の記憶なら、言葉を発しただけで周囲がどよめくほどの、おびえたウサギのようなキャラだったはずなのに、次第にこの夢の世界の記憶に、体が馴染んでしまうのがわかった。
そんな目の前のかわいらしい少女に、素朴な感想が湧き上がってきた。
なんというか……気さくでいい子だな、ちばちゃん。かわいいし。
そうか。こっちの記憶だと、ちばちゃんは一年前の夏からオカルト研究会の部員で、その一年のあいだに気軽に会話できるくらいに打ち解けていたんだった。
入部して半年を過ぎた頃には冗談を混ぜた会話までできるようになり、思春期の順応性とはここまで高いのかと当時はいたく感心したのだが、いまはそれどころではない。かわいいけど。
ちなみに、ふだんはちばちゃんと呼ばれているが、その呼び名は本名とは違うことを思い出した。姉の榛名がたまに彼女を名前で呼ぶことがあって、そのとき知ったのだ。
そう、彼女の本当の名前は――
「霧島千葉」
「なんですか?」
ふと声に出てしまった彼女の名前に、またもや居心地の悪さのようなものを感じた。
あの色の薄い世界の夢で、彼女の持ち物から知った霧島千葉という名前。
夢の中とはいえ現実のような、それでいて映研の世界では知り得ようのない情報が、この夢の世界の記憶によって補完されていくことの不気味さ。
いや、落ち着いて考えろ。これは夢だ。
つまり現実ではないのだから補完などされているはずがない。……のだが、夢の中であるはずなのに確信を抱いてしまうくらいに説得力のある記憶の裏付けが、俺の頭の中を容赦なくかき乱した。
もう一度少女を目の前にすると、映研での臆病な印象と、オカ研での気さくな彼女の記憶の両方がかさなってしまい、二つの記憶が俺の判断を狂わせる。結局どのように接していいのかわからず、しばらくのあいだ黙り込んでしまった。
「磯野さん?」
あどけない笑顔が不思議そうに首をかたむけて俺を見つめてくる。
心が浄化されるようだ。
首をかしげるこの愛らしい仕草、ロリコンだったら致命傷になるほどの破壊力じゃないだろうか。しかし申し訳ないのだが、俺はロリコンではなかった。本当に申し訳ない。それに、夢である以上、さっさと目覚めに漕ぎつけるためにも頭の中にあるこの記憶は跡形もなく消してしまいたかった。
……とはいえ、いま目の前で発生したロリコンどもを殺す仕草だけは名前をつけて保存をしたい衝動にかられる。ダメだ、割り切れ磯野。
――こっちは、現実じゃないんだ。





