01-08 なんで記憶が……二つあるんだ?
色の薄い世界の夢から覚め安堵した磯野。帰宅後、特に何ごともなく過ごしていたが、就寝しているはずの夜中の二時に、なぜか横断歩道に立ち尽くしていた。
一瞬前まで、自宅の自分の部屋で寝ていたはずなんだ。
……ってことは、昼間のあの夢のつづきかなにかなのか? けれども、
あの夢のように無音なわけではない。
それは、いまも聞こえてくる車の行き交う音が、それを示している。
色が薄いわけでも無い。
それは、車道の青信号のランプが照らされ、正面をみれば横断歩道の信号が赤……って!
次の瞬間、背後からのクラクションと道路を照らし迫る光に、慌てて前へ飛びのいた。
「マジかよ!」
歩道に転がり込む。
あぶねえ。なんとか一命をとりとめたが、一瞬でも遅れてたら、あの大型トラックに轢かれて異世界転生してたぞ……。
俺は、クラクションがドップラー効果をかけながら走り去るトラックを、唖然としたまま見つめつづける。
「…………!」
――ふと、見られているような、そんな気配を感じた。
腰をついたままあたりを見まわす。けれども、深夜の住宅街の景色しか見つけられない。
「……気のせいだよ、気のせい……だよな?」
声を出してみる。
……そうだよ。この期に及んで、姿が見えない誰かに見られているなんてことまで考えだしたら、恐怖で頭がおかしくなりそうだ。
心を無にしろ。俺は自分にそう言い聞かせる。
まずは、いま自分がおかれている状況を確認すべきだ。
俺は立ち上がり、もう一度周囲を見まわした。
いまいる場所が家の近くであることはわかった。
そもそもここは、コンビニからの帰り道。けれど、やはり一瞬前まで、俺は自宅で寝ていた気がしてならない。
ジーンズのポケットにあるスマホを取り出して時間をみる。
八月八日 午前二時三四分。
そうだよ、ふだんなら布団のなかにいる時間のはずなのに……。
俺は夢遊病にでもかかって、コンビニからの帰りに目が覚めたとでもいうのか?
翌日、起きた時間は、すでに十一時を過ぎていた。
昨日と同じ炎天下の中、真っ青な空に映える入道雲を眺めながら自転車を走らせていく。
昨晩の夢遊病的なあれはなんだったんだろう。
俺はなにかストレスでも抱えているんだろうか。自覚が無いってことは、無意識に溜まっていたストレスか。それって……この暑さ以外に思いつかん。
文化棟玄関前には、キャスケットの子はいなかった。
当然だよな。けれども、再会の期待がすこしはあったのかもしれない。
軽くため息をついている自分に気づいた。もし彼女がいたとしても、声をかける勇気があったかどうかはわからないが。
なにごともなく文化棟三階までたどり着き、なにごともなく部室のドアをあける。
「お疲れ様です」
「お疲れー」
「お疲れ」
「お、磯野か」
「よう」
いつものように挨拶を終え、いつものようにソファに腰かけようと――
って、あれ?
窓際の本棚ってあんなだったか?
映像編集用パソコン一回り小さくないか?
そもそも間取りが微妙に違うし。
……というか、
一人多くないか?
そいつの顔を見る。
ロングヘアに、いくら暑いとはいえタンクトップとショートパンツという大胆な格好の女。とはいっても顔立ちと体型が整っているため、それほど下品な印象は受けない。しかし、
「おまえ誰だよ」
思わず口に出た。
「え? なんだよ、磯野。なにかの冗談か?」
女はからかっているのか、と言わんばかりの顔で俺を見た。
この女、俺のことを知っている?
けど俺は知らないぞ。それにこんな露出度の高い格好でしかも美人ときたならば、俺が忘れるはずがない。おっぱい大きいし。
「磯野どうしたの?」
「どうした?」
千代田怜と柳井さんが、立て続けに問いかけてくる。
いやいや、二人はこの女と面識があるっていうんならいいんだけどさ、こっちは初対面なんだぞ? しかも俺のことを知っているかのような口振りで振る舞うのを、なんで当たり前のように受け入れてるんだよ。そもそも、なんでこいつは俺のことを知ってるんだ?
「だって、うちの部員でもない女がいるんですよ? 再撮でキャストでも増やしたんですか?」
自分で口にしてみてそれなりにしっくりくる。
そうだよ。再撮影のために演劇研究会から人を借りてきたとか、どっかから連れてきたというのなら、このモデルにもなれそうな美人がいることにも納得はいく。
ところが、千代田怜と柳井さんのリアクションは、一番腑に落ちるであろう俺の仮説を否定した。
「え?」
「再撮? キャスト?」
おい、おまえら全員で俺をからかっているのか?
この女の存在どころか、サークルの存在意義にすら疑問を投げかけてきやがった。
さらに追い打ちをかけて、
「うちのサークルに映画同好会でも取材にくるのか?」
タンクトップの女がわけのわからないことを言い放った。
映画――同好会?
「取材もなにもうちは映――」
突然の違和感。
「なあ磯野、そろそろ冗談やめにしないか?」
なかば呆れ気味のタンクトップの女。
このなんとも言えない違和感はなんだ?
それでも「そっちこそ誰なんだ?」と言いかえしてから、
――この女が誰であるかわかった。
というより、俺の頭の中にこのタンクトップの女に関する記憶が、フラッシュバックのようによみがえったと言ったほうが正しい。
「……知ってる……おまえは、霧島榛名」
「お? おう」
そう、こいつはちばちゃんの姉で――
ちばちゃん?
「ちょっと磯野、ホントに大丈夫なの?」
ふだんは馬鹿にしてくる千代田怜も、今回ばかりは心配して声をかけてきた。
柳井さんも「まあ、ソファにでも座っていったん落ち着け」と促してくる。
だがそのあいだも、俺の頭のなかで霧島榛名の記憶がどんどんよみがえる。
そう、榛名とちばちゃんは二人ともうちのサークルに所属している。……ちょうど一年前、去年の夏に一緒に入部してきた記憶。
いや、それよりもそもそもこのサークルは――
俺は、ゆっくりと後ずさりして廊下へと出た。
部室の表札に目をやる。
表札がやけに新しい。だがそんなことより表札に書かれている名前がちがう。表札には、
――オカルト研究会
と書かれていた。
その名前を見た瞬間、俺の頭のなかで、オカルト研究会だけでなく、それ以前の、生まれてから現在に至るまでの記憶が、走馬灯のように蘇る。
俺の頭のなかに記憶が蘇っていくそのさまは、もとの世界――映画研究会の世界――の記憶を塗り替えていくのではなく、もともとあった記憶という名の人生のレールに並行して、もう一本のレールが敷かれていく、そう表現せざるを得ない。
映研研究会の世界と、オカルト研究会の世界――それぞれ現在に至るまでの二つの人生を、同時に歩んできたかのように。
一秒、一秒と蘇り、並列する二つの記憶とは裏腹に、いまにも爆発しそうなおのれの感情の混線に頭が悲鳴を上げながらも、この事態の根底にある疑問を言語化するために、俺はやっとのことで、一つの言葉を絞りだした。
「なんで記憶が……二つあるんだ?」
01.八月七日 END





