あなたとともに
優しい日差しが降りそそぐ、葉の擦れた音が耳に心地よい爽やかな午後。春の陽気を感じられる風に揺られ、一枚の小さな布が宙で踊るように舞っていた。
少し離れたところには、それを追いかける絵画から抜け出たような、儚げで可愛らしい一人の少女。栗毛色の長い髪が揺れて残った残像は、美しく輝き煌めいていそうな錯覚さえ覚える。全体の色素が薄い、儚さとあどけなさが残る少女は、まるで妖精のようだ。
布切れは風が過ぎ去り、青々とした草の上にゆっくりと舞い降りた。それに気付いたのは、すぐそばのベンチで読書をしていた青年である。
少年と呼ぶには大人だが、青年と呼ぶにはまだ幼さの残るようなその顔は、美しいという言葉がよく似合う。整いすぎて分かりづらい性別は、青年の纏う制服からやっと判断できるくらいである。
青年はページをめくっていた長く白い指を本から離し、落ちた布切れにそっと触れた。拾ったのは白い上品な刺繍のされたハンカチだった。少し遅れて少女が息を切らしながら、ハンカチを持っている青年の元へとたどり着く。
青年はハンカチの持ち主だと判断し、可憐な少女に話しかけた。
「これは君のハンカチかな?」
「はいっ!拾ってくださって、ありがとうございました!」
少女がハンカチを受け取ろうとすると、青年の指先に触れる。驚いて手を離し、青年と触れた指先を反対の手で包み込んだ。
「あのっ…ごめんなさい」
「いや、こちらこそ…」
普段異性と触れることがない少女は、慣れない触れ合いに赤くなる。そんな可愛らしい反応をされた青年も、少し耳が赤くなっていた。
お互いが照れてしまったことがおかしくて、二人は同時に笑った。
歴史ある校舎の中庭で、ある一つの運命的な出会いが生まれた瞬間である。
◇ ◇ ◇
「あー!尊い!尊すぎる!」
先程の青年と少女から少し離れた場所に、美しい黒髪を揺らして天を仰ぐ少女がいた。その少女の隣では、呆れた表情をした平凡な容姿の青年がため息をついている。
「椿ちゃん、声が大きくて隠れているのがバレちゃうよ」
「ハッ!私としたことが。バレたら何もかもおしまいだわ、気を付けなくちゃ。ありがとう、譲!」
先程の騒ぎようは鳴りを潜め、淑女然とした表情と立ち姿になる、黒髪の椿と呼ばれた少女。あまりに素早い変わり身に、呆れつつも美しい少女に見とれそうになる、譲と呼ばれた青年。
仲良さげな二人の間に流れる空気は、柔らかく穏やかに漂っている。
「やっぱり譲は頼りになるわ。あなたが幼馴染で本当に良かった」
「それは…光栄だよ」
照れながら答える譲と、そんな譲をニコニコと見ている椿は幼馴染である。
「ええ、私の推しカプの尊さを理解してくれる、良き理解者であり、親友よ!」
「……別に理解してはいないんだけどね」
小声でぼそりと譲は呟く。
「何か言ったかしら?」
「いや、なんでもないよ。ほら、二人を見てないとイベント?を見逃しちゃうよ」
「それもそうね!せっかく大ヒット漫画『あなたとともに』の世界に生まれたんだもの、貴重なイベントは見逃せないわね!」
椿は推しカプである二人のイベントを見る為、二人からは死角になる建物の陰に張り付き、二人をじっと見つめている。
譲はそんな椿を、呆れつつも微笑ましく見守っていた。
艶やかな黒髪を持つ美しい少女、東堂椿は自分の世界とは違う記憶を持つ変わった少女である。
椿は物心ついた頃、出会う人、場所が全て見覚えがあるような気がして不思議だった。だけど誰かに話すのはなんとなく憚られ、ずっと既視感を感じながら過ごしていた。
そして伝統ある学園の初等部に入学したとき、現在の推しカプの片方である東宮彰と椿は出会う。
――――なんて美しい男の子だろう。
椿の心の中に新たな感情が芽生えそうになったとき、椿は見知らぬ少女の記憶が頭の中に一気に流れ込んできたのを感じた。
その少女の記憶の中の世界は、自分が知っている世界とよく似ているが違う、不思議な世界だった。テレビで見かける芸能人はよく知らない人物ばかりだが、お札に描かれる歴史上の偉人は同じ。似て非なる世界であった。だがそんな少女の記憶の中にも、椿がよく知っている世界があった。
それが少女が何度も読み返すほどに好きだった、『あなたとともに』という漫画だったのである。
椿が知っている人物や建物、歴史がそこには詰まっており、椿が幼少の頃から感じていた既視感の謎が、一気に紐解けた瞬間だった。
椿は自然と自分がその漫画の世界の住人であると、すんなりと思うことができた。そう思えた大きな理由が、自分と同姓同名の東堂椿という少女が登場していたからである。
『あなたとともに』というのは少女の記憶によれば、少女の世界で大ヒットした少女漫画だった。主人公は佐藤朱莉という、儚げで可愛らしい少女である。
漫画の始まりは、彼女と母が二人で貧しいながらも幸せに暮らしていたところから始まる。そして彼女がもうすぐ高校生になるという頃、悲劇が起きる。朱莉の母が病気で亡くなったのだ。
朱莉は母が亡くなり途方に暮れていた。母方の祖父母が心配して一緒に暮らそうという話になったとき、自分の父を名乗る男に引き取りたいと言われ、話し合いの末に引き取られることになった。引き取られた先は、春宮家という由緒正しい家柄の家である。
朱莉は引き取られる前に、父と母のことを父から聞かされた。
彼女の父によると、父と母は恋人同士で愛し合っていたが、父の両親に結婚を認めてもらえず、結婚をできずにいたらしい。そんなときに母は身籠り、父の負担になりたくないと父にそのことは告げず、父の元を去っていったという。
そのことを知らない父は、何も告げずに自分の元を去っていった母を何度も恨んだらしい。
だが最近、母が亡くなったことを知った父が、どういう経緯で自分の元を去っていったのかを知り、恨んでいた自分を恥じ、何度も後悔した。
そのせめてもの償いとして朱莉が不自由なく暮らしてゆけるよう今後の生活を保障することと、愛しい人の形見である朱莉と一緒に暮らして家族になりたいという強い想いから、朱莉は引き取られることになったという話だった。
朱莉は父に引き取られたと同時に、本来進学するはずだった高校から父の強い薦めで、物語の舞台となる桜ヶ丘学園高等学校へ、春宮朱莉として編入することとなった。
入学初日、父が母から貰ったと大切にしていたハンカチが風で飛ばされてしまった朱莉は、ハンカチを追いかけて中庭にやって来る。
そこで起きる運命的出会いが、例のイベントシーンであった。
彰と朱莉は同じクラスになり、ハンカチの一件もあったので会話をするようになる。そしていつの間にかお互い惹かれあっていくのだ。
その障害となるのが、東堂椿だった。
漫画の設定では椿は初等部の頃に東宮彰と出会い、一目惚れをして親に頼み込み、彰の婚約者にしてもらうのである。上流階級のものが通う桜ヶ丘学園の生徒たちの間では、婚約者がいることは自然なことであった。椿も彰もまだ初等部ということもあり、お互いに婚約者がいなかった為両家の話し合いの末、椿は彰の婚約者という立ち位置を手に入れたのだ。
漫画の椿は高飛車で、とても独占欲の強い子供だった。それゆえに、彰とは不仲とまではいかないが、けして良い仲と言える関係ではなかった。
そんな椿が、彰と朱莉が楽しそうにしているのを黙って見ていられるわけがない。それに椿は他者の心の機微に疎い方ではなかった為に、彰の心の動きにもいち早く気付いた。
独占欲の強い椿が、彰が他の女性と仲良くするのが許せる訳がない。だから漫画の椿は朱莉に様々な嫌がらせをするのだ。
しかしそれは二人の恋のスパイスにしかならず、結局椿は朱莉にした嫌がらせを理由に、婚約者という立場から引きずり降ろされてしまうのだ。
そして椿と婚約を解消した彰は朱莉と婚約し、めでたく結婚するというのが『あなたとともに』の大まかな流れである。
漫画の東堂椿という少女は、いわゆる悪役令嬢という役割を課せられた可哀想な少女であった。
しかしその記憶が流れ込んできた現実に生きている椿には、本来芽生えるはずだった感情とは違う感情が生まれてしまっていた。
――――――尊い。
その一言に尽きる。
一目惚れから恋慕が生まれるはずだったのだが、方向性の全く違う愛情が生まれた瞬間であった。
何故その感情が生まれたのかといえば、流れ込んできた見知らぬ少女の記憶が原因である。
その少女は「推しカプが尊い」とよく天を仰いでいた。
まだ色々な感情に名前をつけられるほどに気持ちを知らない椿には、『尊い』と思う少女の温かく幸福感に満ち溢れたその感情が一等美しく思えたのだ。
特に感銘を受けたのは、『推しカプ』というものである。誰か一人が愛しいのではない、互いを想い尊重し合う関係が素晴らしいのだと椿には思えた。
少女が熱く語っていた「尊い」を理解した瞬間である。
椿にとってさらに幸福だったのは、単体推しではなく、カプ推しの方に目覚めたことであった。
東宮彰に出会ったとき、椿は朱莉を想う彰を少女の記憶の中に見た。それはとても美しい想いで、椿は朱莉を想う彰に感動したのだ。
尊いという感情が椿の中に生まれ落ちた瞬間、椿は決めた。
――――私は東宮彰と春宮朱莉を、あの少女のように見守ろう。
強い決意を秘めた椿は東宮彰と婚約することなく、漫画の恋愛劇の舞台となる桜ヶ丘学園高等学校の高校一年生になった現在まで至っている。
そんな椿は漫画の設定とは違い、はっきりとした性格はそのままに、いわゆるオタクとなっていた。
東堂家は由緒正しい家柄で、椿はお嬢様なので隠れオタクという形に落ち着いている。しかし、ふとしたことでオタクだというボロが出そうになるので、高飛車で派手な美人といった漫画の椿とは違って、大人しい少し地味な優等生といった風貌になっていた。
そんな椿には友達がほとんどいない。お嬢様でオタクなど公言できる訳もなく、当たり障りなく表面を取り繕って話せる友人未満は沢山いても、オタク趣味を熱く語れる友人は二人か三人。
その貴重な友人の一人が、幼馴染の加賀譲であった。
『あなたとともに』では一度も登場することのなかった、モブどころか登場人物にすらなれなかった人物である。
東堂家と加賀家は母たちが桜ヶ丘学園の同級生で仲が良く、椿が幼少の頃から交流があった。なので譲とは、物心がついた頃からの付き合いになる。
おそらく漫画に譲が登場しなかったのは、東宮彰に一目惚れした椿が彼の婚約者となり、自然と交流が途絶えたからだと椿は睨んでいる。
今の椿からすれば、
――――なんてもったいないことをっ!
といった感じである。
椿の知る加賀譲は平凡な容姿だが、幼い頃からとても穏やかで優しい子供であった。椿が何を言っても否定することはなく、だけど自分の気持ちはきちんと伝える。
椿がしては駄目なことをしたら叱るし、良いことをしたら褒める。妙に悟った大人のような譲に、同い年であるはずの椿は譲を兄のように慕い、たいそう懐いた。
そんな譲だからこそ、椿は自分の中に見知らぬ少女の記憶があること、推しカプへの溢れ出る尊い想いを告げた。
最初は驚いていた譲ではあったが、驚いたのは最初だけで、あとはあっさりと椿を受け入れてくれた。
それから椿にとって譲はただの幼馴染ではなく、なくてはならない大切な親友となって今に至る。
イベントシーンが終わり、推しカプの二人が別れたのを見送った椿はほう、とうっとりとしたため息をついた。
「やっぱりあの二人は尊い。尊すぎてご飯三杯は余裕でいける。ほんと尊い」
「椿ちゃん。口調、いつもの口調でてる」
「あらいけない。優等生の仮面が剥がれかけてたわ。私がこんな残念な性格をしてるってバレたら大変だわ」
「椿ちゃんは今の椿ちゃんのままでも素敵だよ」
「そんなことを言ってくれるのは譲くらいよ」
椿はありのままの椿を素敵だと言ってくれる、優しさの権化のような譲に素直な令嬢らしからぬ、表情豊かな笑みを返した。
◇ ◇ ◇
桜が散り、新緑の眩しい季節。
椿は相変わらず推しカプである、東宮彰と春宮朱莉をストーキングしていた。そしてそのストーキングに付き合わされているのは譲である。
今日は図書館で推しカプ二人が待ち合わせをしているらしく、椿曰く「ウキウキ☆図書館デート」だそうだ。譲は苦笑するしかなかった。
二人で他愛無い会話を小声でしていると、椿の推しカプたちが図書室へと入ってきた。会話を止め、相変わらず何故か彼女たちの死角になる位置を把握している椿が譲を誘導し、観察する位置につく。
図書館デート開始のゴングが椿の頭の中で鳴り響いた。
「いい…凄くいい……。東宮彰にも、春宮朱莉にも探りを入れたけれど、間違いなく二人は相思相愛だわ。やっぱり相思相愛の二人は素晴らしいわね。尊いわ」
「前からあの二人と仲が良いと思っていたけど…そんなことしてたんだね、椿ちゃん…」
「当たり前よ。私という障害がなくなってしまった為に、恋のスパイスがなくなってしまったのだもの。二人が相思相愛にならない可能性だってあったから、探りを入れる必要があったわ。でも二人と話してみたけど、何の問題もなさそうね。二人とも好きな人がいるって言っていたし、この様子だと間違いなく相思相愛よ!」
「椿ちゃんの推しカプに対する情熱の凄さには、いつも驚かされるよ…」
毎度のことながら、譲はその情熱に苦笑するしかなかった。
椿は二人から目を逸らさぬまま、ぽつりと言葉をこぼす。
「譲が私が悪役令嬢になるのをとめてくれなかったら、私は今こんなに穏やかな気持ちで二人を見てることはできなかったのよね…。最近、よくそのことを考えるの。だから、本当に譲には感謝してもしきれないわ…」
少し切なげな、愁いを帯びた表情で椿は小さく独り言のように呟いた。譲を見ずに呟いたその言葉は、事実独り言だったのかもしれない。
現実を見ていないような、遠くを見るような表情に、譲は自然と椿に触れようとしていた指をはっとして留める。何も聞かなかったかのように、視線を東宮彰と春宮朱莉に向け、そっと手を戻した。
譲から見た東堂椿という少女は、好きなものにはとことん情熱をそそぎ、はっきりとしている性格でありつつも、わざわざ仮面を被り、地味で大人しい姿を装う少女であった。
そう装っているのは、本人が悪役令嬢のようになりたくないと初等部の頃に相談され、争いに巻き込まれづらいタイプの性格を目指してみたらどうかと譲が薦めたからである。
それ以来、椿の本来の性格は鳴りを潜めているが、相変わらず譲にだけはその姿を見せてくれる。譲はそれが一等好きだった。
譲は幼い頃から椿が好きだった。誰にも物怖じせず、堂々と自分の思ったことを素直に伝えられる椿に惹かれた。その頃抱いていた好意が恋慕だったのか、親愛だったのかは定かではない。それでも、間違いなく譲は椿を愛していた。
恋い慕っているのだと知ったのは、中等部の頃。椿から見知らぬ少女の記憶があるということを既に告白されていたので知っていたが、それでも椿が東宮彰を気にかけているのがなんとなく落ち着かなかった。苛々とするような、切ないような。その気持ちの名前を導き出せずに、悶々とした日々を送っていた。
そんなあるとき、椿は行動を起こした。中等部の3年生頃である。椿と廊下を二人で歩いていたとき、それまで東宮彰を遠目で気にかける程度だったのだが、椿が思い切って話しかけに行ったのだ。椿曰く「来年には推しカプが揃うところを見れるから、そのための準備よ」と言っていたが、譲には衝撃だった。
二人が楽しそうに談笑している姿を見て、譲は自然とそれを知った。
――――ああ、僕は椿ちゃんが好きなんだ。
胸が苦しくて、切なくなるその想い。これは恋なのだと、胸の中にすとんと落ちてきた。
それと共に、譲は重く苦しい陰が心の内に差すのを感じた。
東堂椿という少女は、とても美人である。彼女に心寄せる男が何人もいることを譲は知っている。譲は廊下の窓ガラスに映る、自分の容姿を改めて見た。
特筆すべき良い点も悪い点もないような、平凡としか言いようのない顔。どうみても椿には不釣り合いな、平凡な容姿をした男が暗い顔で映っていたのだ。
譲は昔から諦めのいい、何事にも執着しない子供であった。だから自分の容姿を思い、椿の横に並ぶ自分が想像できなかった譲は、その想いを瞬時に諦めようとした。
だけどそれは想像以上に難しく、胸の中に無理やり押し込めることでなんとかその場を凌いだ。
抑え込むだけではいつか溢れてしまう。ならばと、譲はどんなに長い年月がかかろうと、その想いを恋情から愛情へと昇華しようと思った。
愛しいと思う事実は変わらない。ただ、見返りを求めてしまう想いより、見返りを求めない想いの方が自分の為にも、椿の為にもいいと思ったからだった。
東堂家とは大変交流があるが、加賀家は東堂家に家柄が劣る。婚約を結ぶ利点がない加賀家に椿との婚約の話が流れてきたことはない。だから、聡明な譲にはこの先椿と一緒にいることが難しくなっていくだろうことはすぐに分かった。お互い、婚約者が今はいないが、いずれ出来るであろうことも。
だからこそ、この想いは昇華しなくてはいけないのだ。それが苦しくとも。
椿に触れていいのは、未だにいない、未来の椿の婚約者だけ。理性的な面の強い譲には、寂しそうな、切なそうな椿を抱きしめてやることも、手をそっと肩に置いてやることも出来なかった。
◇ ◇ ◇
季節は移ろい、葉が赤や橙に色付き、染まった葉が枝先と別離の挨拶を交わす頃。それは唐突にやってきた。
家が近い椿と譲は、特に部活動にも入っていなかったのでいつものように帰り道を歩いていた。雨の匂いが充満し、もうすぐ雨が降るだろうと感じる二人は、傘をどちらも持っていなかったので心なしか早足で見慣れた歩道を進んでいく。
その日はどこか落ち着かない様子の椿に、譲は怪訝に思いつつも椿の口から何も言われることはなかったので知らないフリをし、学校生活を終えた。
その普段とは違う様子の答えが、ついに椿の口から告げられる。
「………私、東宮彰に告白されたわ」
「……え?」
「推しではあるけれど、私は東宮彰と春宮朱莉のカップルが好きで、互いを想い合っている二人が好きだから、お断りしたけれど。どうしてこうなったのかしら…」
推しカプに不具合が生じたことが謎だったらしく、心の底から残念そうにため息をつく椿。
対して一瞬頭が真っ白になった譲だったが、ほどなくして落ち着きを取り戻し、納得する。
「…椿ちゃんには黙ってたけど、東堂の好きな人、僕は知ってたよ」
「……え?」
今度は椿の頭が真っ白になる番だった。
「僕さ、椿ちゃんと幼馴染だし、よく一緒にいるでしょ?東堂に聞かれたことがあるんだ。僕が椿ちゃんと付き合っているのかって」
「……」
「ただの幼馴染だよって答えたら、東堂、あからさまにほっとした顔してたから。ああ、東堂は椿ちゃんが好きなんだなって思ったよ」
「…朱莉ちゃんは、」
「春宮さんは、東堂が好きだと思うよ。一度東堂のことで恋愛相談されたことがあったしね」
「………え?」
譲は椿の力になろうと、椿と同じく件の二人と交流を深めていた。そのときに、春宮朱莉に東宮彰が好きだがどうしたらいいのか分からないと恋愛相談を受けたことがあった。
椿の推しカプの為、色々アドバイスをしていくうちに、割と仲良くなってしまったのは誤算だったが、別にそれは悪いことではない。今後も椿の推しカプがどうなっていくのかを知るにはちょうどいいことのように思えた。
「…ごめんね。推しカプが尊いって喜んでる椿ちゃんにこんなこと言えないし、言ったってどうしようもないことだったと思うんだ」
憂い顔で譲は椿にこぼすが、椿はそれどころではなかった。
譲が朱莉と恋愛相談ができるくらいに仲が良いことに、とてつもない衝撃を受けていた。加賀譲という男は物腰が柔らかく、人当たりが良い。だからよく相談事をされているのを知っている。だが問題なのは、相談をした女子が、あらかた譲を好きになってしまうということである。
譲はとても優しい。相談された内容には甘言だけでなく、時には厳しい言葉も告げる。そのおかげで相談した問題が解消する確率が高いと、譲本人の知らぬところで相談相手としてとてつもない人気がある。
恋愛相談をして、めでたく恋愛が成就したはずなのに、譲を好きになってしまって結局別れてしまうという女子もいた。
譲は誰か好きな人がいるらしく、告白されても断り、誰とも付き合ったことがないと椿は知っている。譲が告白されると焦り、断ったことを知って何故か安心してしまう自分が不思議だったが、恋愛に興味がさほどない椿はそれまで深く気にしたことがなかった。
ただ、譲は誰が好きなんだろうと考えるたび、ちくりと痛む胸の痛みには目を瞑っていた。
椿は推しカプの動向をチェックするため、推しカプの二人とは仲良くしていた。特に同性である朱莉とは親友と呼べるまでに仲良くなっていた。
だから思い出したのだ。朱莉の、
――――最近、好きな人ができたの。
という言葉を。
それを椿は東宮彰を好きになったのを自覚した言葉だと思って喜んでいた。だけど。
もし、それが譲のことだとしたら。
椿は血の気が引いた。譲は確かに最近、よく朱莉と話していた。とても楽しそうに。それを、椿は何でもないような顔で見ていたが、内心、何故か焦っていた。
何故だかは分からないが、譲と朱莉が仲良くなることに、未だかつてない焦りを覚えていたのだ。
もし、もし譲の好きな人が朱莉だったら。
別に何も悪いことなどない。推しカプが結ばれることがないのは残念だが、やはり現実に生きている人間だから別の人を好きになることもあるだろうと漠然と思えたから。
もし朱莉に東宮彰以外の別な好きな人ができたら、応援しようと思えるくらいには推しカプなど関係なく仲良くなっていた。なのに。
その相手が譲かもしれないと思うと、応援しようと思う想いが萎んでしまって。どうか譲を好きにならないでと、無神経に祈ってしまっていた。
椿が真っ白な顔になっていることに気付いた譲は、焦って椿に声を掛ける。
「椿ちゃん、大丈夫?そんなに推しカプが見たかったの?ごめん、僕じゃ力になれなくて…」
心底心配しているという表情で椿を気遣う譲に、やっとの思いで声を掛ける。
「違う、そうじゃないの。そうじゃ…」
続けようとした言葉は涙と一緒に流れ落ち、地面に小さなシミをつくった。
椿はずっと知らないフリをしていたが、心地良い距離感でいてくれる譲を手放したくなかった。
見知らぬ少女の記憶の中の自分は、恋で全てを駄目にしていた。だから、恋というものから遠ざかって生きてきた。漫画の東堂椿のように、自分がなることのないように。
だけど、堰を切ったように流れ出る涙と一緒に、抑え込んでいた想いが溢れてきてしまって。隠して、目を逸らして、ないものとして扱ってきた想いに、とうとう気付いてしまった。
――――譲が、好き。
別の記憶があるなどという世迷言を言い放った幼い少女を、真っ直ぐに目を逸らさず信じて頷いてくれた譲。
散々振り回しても、呆れつつも付き合ってくれる陽だまりのような優しさが。怖くて出せなかった本来の自分の性格を知っていても、離れないで傍にいてくれる心地良い温かさが。皆は平凡な顔だというその顔の、彼の優しさが滲み出ている表情の美しさが。
隠していても、どうしようもなく、全てが好きだった。愛していた。譲がずっと、愛おしかった。
涙を覆い隠すように暗雲から雨が刺さるように降り、椿と譲は言葉を介さぬまま、近くの建物に身を寄せた。シャッターが閉まり、閉店しているその古びた店の前で雨粒を丁寧に払う。
年季の入った所々色が剥げているベンチにハンカチを敷き、譲は椿を座らせる。
雨が降る前に見た椿は、泣いていた。譲には何故椿が泣いているのかは分からなかったが、彼女が落ち着く時間が必要なことだけは分かった。譲も椿の近くに座り、椿が落ち着くまで暗く雨粒の絶えない空を眺めていた。
どれくらいそうしていたかは分からないが、いつしか雨は止んでいた。雨雲は去り、枯れた葉の色を反射したような空は目に優しい明るさを取り戻した。
「…俄雨だったみたいだね」
「…うん」
譲は椿から返答があったことにほっとする。
先ほどの様子から何があったのか聞こうか聞くまいか譲が悩んでいると、椿がぽつりと言葉をこぼす。
「ねえ、譲」
泣き腫らした目元は赤く、いっそ痛々しい程だった。自然、伸びそうになる手を譲は必死で抑える。
「どうしたの、椿ちゃん」
そう穏やかな表情で返すことが、譲の精一杯だった。
「あのね、」
「うん」
二人はお互いを見ず、赤い空を見上げている。
椿はぎゅっと拳を握った。色んな想いを編み込んで、言えなかった言葉をゆっくりと紡いだ。
「私、譲が好き」
「………」
譲からの返答はない。顔を見たくとも、椿は怖くて譲の方を向けなかった。
しばらく沈黙が続き、それに耐えかねた椿がその言葉を取り消してしまおうかと思ったとき、消え入りそうな声で譲が呟いた。
「…僕も、椿ちゃんが好き」
聞き間違いかと思って思わず椿は譲の方を振り向くと、譲が泣きそうな、でも嬉しそうな顔で笑っていた。頬には涙が伝っており、椿は思わず譲の頬に手を伸ばした。
体は互いに冷えているはずなのに、椿の体温も譲の体温も、とても熱いような気がした。
愛しい人の涙を拭うと、譲はその優し気な顔をなお一層、優しくして笑った。
「ずっと、ずっと好きだった。でも僕は椿ちゃんに釣り合わない。だから椿ちゃんに僕の気持ちを言えなくて。それに、椿ちゃんが僕のことを好きだと思ってくれるなんて、想像できなかったから。だから…だから、今とっても嬉しいよ」
眩しいくらいの笑みに、椿も目を細め、笑った。
――――なんて綺麗な顔で笑うんだろう。
椿はこの綺麗な人の笑顔が自分に向けられたことに、幸福感を感じずにはいられなかった。
自分が漫画のキャラクターであり、悲しい結末を迎えるかもしれない恐怖と一緒に成長してきた椿。恋を知らないフリをして、自分が恋をするかも知れなかった相手を尊ぶことで自分を守ってきた。譲がいなかったら、自分はどういう人間になっていただろうか。ふと、そんなことを考えた。
誰も好きになれなかったかもしれない。そう結論付けると、やっぱり譲と出逢えたことがどうしようもなく尊く、幸福であるように思えた。
俄雨が通り過ぎた空は今も変わらずオレンジ色だが、さっき見上げていたときよりずっと鮮やかに思えた。
ベンチから立ち上がり、椿は譲の手を握った。譲を好きになったかもしれない朱莉には悪いとは思うが、一生得ることがなかったかもしれない幸福を、椿はどうしても手放したくはなかった。
恥ずかしそうにしながらも、ぎゅっと握り返してくれた譲に、椿は今までで一番の笑顔で応えた。
手を繋ぎながら歩く帰り道。譲はしみじみと思う。
椿は「推しカプが尊い」とよく天を仰いでいた。それがこれからは見られなくなってしまうのかと思うと、呆れてはいたが少し寂しくなるだろうな、と。
だけどその寂しさは、これから椿が向けてくれる愛情であっという間に忘れ去ってしまうのだろうな、と自分たちの少し先の未来を思い、笑った。
同じ未来を思い描いてくれているであろう、あなたとともに。
椿母「やっとくっついたわよ、あの二人。長かったわね~」
譲母「ええ、本当にね~」
椿母「どっちも奥手すぎて、婚約話を断るのが大変だったわ」
譲母「でも良かったの?東宮家から婚約の打診があったんでしょう?うちはそんなに家柄も良くないし…」
椿母「いいのよ。本人たちが幸せそうなのが一番だもの」
譲母「それもそうね」
椿母「やっと婚約の件を加賀さんのところに打診できるわ~」
譲母「うちの息子が奥手すぎてごめんなさいね~」
椿母「いいのいいの!うちの娘も恋愛を頑なに拒んでたからどうしようかと思ってたのよ~」
椿母・譲母「「何はともあれよかったわ~!」」