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オロチ綺譚

重力綺譚

作者: かなこ

シリーズ物です。上部「オロチ綺譚」より1作目「巡礼綺譚」からお読み戴けるとよりわかりやすいかと思います。

 自由貿易船オロチを収容した巨大輸送船『ドヴェナッツァチ・アポストロフ』は、一路スイリスタル太陽系を目指していた。

 巨大灼熱彗星サウザンドビーに挑んだオロチは、内側はともかく外側は見事にローストされ、電波を送受信する外装やステルス機能の塗装などが広範囲に渡って破損したため、中央管理局特殊部隊所属対テロ作戦部室長である近江天武の指揮の元、機体修理のためスイリスタルへ輸送される事になった。スイリスタルにはすでにその旨を伝えており、準備を整えているという。

 オロチのクルー達は燃料の心配をする事もなく、実にまったりと運ばれていた。


「何らかの物質を使用する事なく温度を遮断するというのは、実はすごく難しい事なんだ」

 オロチの航行補佐である菊池は、年齢の割にはあどけない表情でコーヒーを口に運びながらしみじみと呟いた。

「じゃあ菊池はどうやってサウザンドビーからオロチを守ったんだ?」

「うん、あの時はサウザンドビーとオロチの間に空気の層をいくつも作って、そこの分子の動きを止めてバラバラにしたんだ」

「動きを止めてバラバラ……?」

 首を傾げる情報分析担当の宵待に、菊池は笑った。

「分子って言うのは原子がいくつか結びついてできた粒子で、その物質の性質を持つ最小単位となるものなんだ。それを更に分解したものが原子。その原子の核の周りを電子っていうのが回ってて、その原子核を更に分解すると陽子と中性子がある。20世紀前半までは最小の粒子だって言われてたんだけどね」

「まだ細かくなるのかい?」

 宵待は呆れた。

「そうなんだ。原子は『アトム』といって、ギリシャ語で「これ以上分割できない」という意味だったんだけど、更にクォークという粒子を、人間は発見し命名した。俺はその動きを全部止めて、一切の熱を発する行動を禁止したんだよ。そうする事によって熱伝導を抑えたんだ」

 はぁ、と宵待はため息のような返事をしてコーヒーをすすった。

「わかったようなわからないような。菊池のESP能力ってすごい事ができるんだな」

 菊池は照れたように、抱いていたペット兼ブースターのクラゲの触手を無意味にいじった。

「もうちょっと離れてて規模が大きかったら、もっとオロチに被害は少なかったんだろうけどね。あまり大きくするとワープ時に影響が出るからってしぐれに言われてたから」

「それにしてもすごいよ。菊池は学校ではきっと優秀だったんだろうな」

 宵待がそう言うと、菊池は苦笑した。

「とんでもない。俺なんか落ちこぼれだったよ」

 え? と宵待が聞き返した時、ブリッジのドアが開いて狙撃担当の柊が姿を現した。

「おーナイスタイミング。俺にもコーヒーちょうだい」

「オッケーしぐれ」

 菊池がコーヒーサーバーを持ち上げると同時に、船長の南と医療担当の笹鳴、主操船担当の北斗も次々とオロチのブリッジへ姿を現した。

「朱己、俺にも1杯くれへんか」

「俺も」

「俺にも頼む」

 それぞれが自分のシートへ座り、ふぅと大きくため息を吐いた。

「やっぱりここが1番落ち着く。多少燃料費がかかっても、ドヴェナッツァチ・アポストロフ内に用意された客室よりここがいいな」

 南はキャプテンシートに深く寄りかかって天井を眺めた。普段は航路が表示されている天井モニタには、今は最低限のスイッチしか入れていないために真っ暗なただの消えたモニタになっていた。それだけでずいぶんと閉塞的に感じる。

「さっさとスイリスタルに着かねぇかな」

 柊は操縦桿を握った。エンジンを切っているのでびくともしないが、握っているとやはり落ち着く。

「緊急やないし、定期のワープ航路しか使えないそうやから、1週間はかかるいう話やで」

 長いな、とぼやく菊池に苦笑して、宵待は南を見上げた。

「でもさ、船長。修理代は大丈夫なのかい? これって装甲を全取っ替えだろ?」

 南は「そうなんだ」と呻いた。

「通常の装甲ならともかく、オロチはウンカイ星のレアメタルで造られていたからな。もう1回同じもので造り直すのは、ちょっと無理かもしれない」

 ウンカイ星のレアメタルは10グラムあれば半年は遊んで暮らせるほどの高級品だ。宇宙船の外装に使うなんて豪快な手段は、UNIONだって選択しない。

「別にレアメタルじゃなくてもいいじゃん。俺が飛ばしてんだから」

 攻撃など1つも当てさせはしない。言外にそう言い切る北斗に、南は苦笑した。

「そう言ってもらえると正直助かる。頼むぞ北斗」

「うぃーっす」

 北斗は後頭部で両手を組んだ。

「俺も節約レシピで頑張るから」

 そう言って菊池はぴょこんとシートから降りた。

「晩ゴハン作って来るよ。リクエストある?」

「唐揚げ」

「肉じゃが」

「煮浸し」

「五目ご飯」

 それぞれの口から出た料理に、菊池は笑った。

「じゃあ今晩は和食もどきにするよ。クラゲ、手伝ってくれる?」

「きゅう!」

 クラゲが菊池の腕の中で触手を持ち上げて鳴くと、宵待も「じゃあ俺も手伝うよ」と席を立った。



「平和な航海っていいよなぁ」

 柊はしみじみと唐揚げを頬張った。気を使う荷もなく、命がけで倒さねばならない相手も逃げなきゃならない相手もおらず、時間も燃料も気にせずに飛べる。自分が操縦に関与できないという大きな一点を除けば申し分のない旅だ。

「平和なんはええけどな」

 笹鳴はナスの煮浸しをつまんでじろりと隣を睨んだ。

「なんで自分がおんねん」

「宇宙食は不味いからだ」

 笹鳴の隣では、近江が当然のように居座って箸を動かしていた。

「輸送費をチャラにしてやってんだ。飯くらい食わせろ」

「輸送費出しとんのは中央管理局やろ。なんで自分1人に還元せなあかんねん」

「細かい事を気にすると禿げるぞ。お代わり」

 近江に差し出された空の茶碗を、菊池は半笑いで受け取った。どうでもいいがこの男は相当の大食いだ。もしかしたらと思って多めに作っておいてよかった。以前オロチに乗せた時も、そりゃあもう食料庫が空になるのではと思うほど食べていた。

「だいたいこのクラスの宇宙船にあんな厨房は普通はない。せいぜい煮炊きができる程度の小さなものが主流だ」

「あんた、うちの厨房見たの?」

 じゃがいもに箸を刺して、北斗は睨んだ。中央管理局の人間に船内をウロウロされるのは気に入らない。

「見たが?」

「そんなに冷蔵庫やコンロが見たかったら自分のとこの見たらいいじゃん。ドヴェナッツァチ・アポストロフクラスならそこそこの厨房あるでしょ」

「厨房に入れてもらえなかった」

 近江はちょっと残念そうに呟いた。近江ができる唯一の調理法は缶詰を開ける事だけだ。まともな判断力のある人間なら、そんな人間を厨房に入れたりはしない。

「俺としては食材がどのような仮定を経て料理になり得るのか非常に興味があるのだが、その野望を満たすには敵が多すぎる」

「……お前、いったい普段はどんな素行なんだ?」

 南はげんなりしてみそ汁の椀を手にした。

「オロチは普通じゃないのか?」

 宇宙船といえばオロチしか知らない宵待が首を傾げると、近江は真顔で見返した。

「通常の宇宙船クルーは航海時には宇宙食で栄養を補給する。中央管理局も海軍もそうだし、おそらくUNIONもそうだ」

 元UNIONの柊がうなずいた。

「炭水化物、ビタミン、タンパク質、ミネラル、脂質……そういった栄養を総合的にバランスよく短時間で摂取できるパックがあんだよ。長い航海の時は、普通はそれを使う」

「柊もそうだったのか?」

「俺だけじゃねぇ。北斗もそうだろ」

 柊が隣と見やると、元海軍の北斗は五目ご飯を嚥下してから眉を寄せた。

「海軍なんか、ひどい時は錠剤や栄養ドリンクだけ、なんて事もあったよ」

「それは食事って言わないだろ」

 菊池も眉を寄せて近江の皿に肉じゃがを追加した。

「食事だなんて誰も思ってなかったよ。ただのエネルギー補給。ガソリン詰め込んでるのと同じ」

 うわぁという顔をする宵待に、南が苦笑した。

「軍はそんなもんかもしれないな。オロチにも一応菊池が寝込んだ時のために多少は宇宙食を常備している。今度食わせてやるよ、宵待」

「食べたいような、食べたくないような」

 複雑な顔をする宵待の前を、また近江の空の茶碗が「お代わり」と浮かんだ。



「平和だな……」

 南はキャプテンンシートで満足げに目を閉じた。

 何せ自分達を運んでいるのは中央管理局であり、しかも指揮をしているのは対犯罪のプロである特殊部隊所属対テロ作戦部室長だ。撃墜される事はまずない。スイリスタルに支払う事になる修理代以外に、いま南の頭を悩ませているものは何もなかった。平和そのものだ。

 柊は自室でゲームやDVDの鑑賞をすると言ってブリッジから出て行き、笹鳴はやってみたかったという薬の調合を研究するために医務室にこもった。宵待はニュースや歴史の勉強、菊池はクラゲと共に作り置きできる料理に専念し、北斗は自室で昼寝をしている。さすがに中央管理局の船の中から無線の傍受を試みるのはやめたようだった。

 スイリスタルで手に入れた商品はすべてローレライで売れた。多少値切られたが手数料を差し引いても経常利益を計算できる。次回の税金は楽に払えそうだ。

 後はこの金を持ってスイリスタルへ向かい、フェイクフィルタを手に入れる。そしてイザヨイ星を守るのだ。ウグイスは無事にヒバリを説得できただろうか。

 それが終わったらどこへ行こうか。この間行きかけて取りやめた地球にしようか。初めて宇宙船を手に入れた場所。何も持っていなかった自分に破格の値段で宇宙船を譲ってくれた友人に会いに行こうか。前オロチはスクラップになってしまっただろうが、きちんと話せばきっとわかってくれるだろう。

 アゲハはどうしているだろうか。UNIONの重要な内部情報を提供したという事で死刑は免れたそうだが、それでも今は服役している事だろう。会いに行きたい。

 そんな事を南がつらつらと考えていると、再びブリッジに近江が姿を現した。

「南、相談がある」

「何だ?」

 どこか寄りたいところでもできたか。そう思って気軽に振り向いた南は、近江の固い表情を見て眉を寄せた。

「……何があった?」

 近江はアゴをしゃくり、ついて来るよう無言で示した。



 南が足を踏み入れたドヴェナッツァチ・アポストロフのブリッジは、オロチの優に30倍のスペースがあった。しかもここは主操縦用のメインブリッジで、他に対戦闘用、調査用、情報システム部といくつか操縦室が分かれているらしい。

「見てくれ」

 近江が示したモニタには、宇宙を渡る者が最も嫌う存在である凶悪な重力を振りまく天体が表示されていた。

「……ブラックホール」

「いや、まだギリギリ中性子星と呼べる」

 確かにその天体はまだ熱を発しているようだった。だが明らかに今にも寿命が尽きようとしている恒星の断末魔の姿だ。

「回避して飛べないのか?」

「問題はそこじゃねぇ」

 近江が示した3Dグラフを見ても、南にはまだわからなかった。

「これが?」

「見てる範囲を広げろ」

 そこで初めて南は気付いた。ここは元々宇宙塵が流れ着く空域で、それらの集まった小惑星が次々と中性子星の重力に吸い寄せられている。UNIONの航路はこれよりやや外れているものの、問題はそのグラフに表示された影響範囲だった。

「なんてばかでかい重力だ……! 元はどれだけでかい恒星だったってんだ?」

「トルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ限界って言葉を俺も学んだが、もうそこまで来てるようだな。この大きさのくせにフェルミ縮退が起きている」

「フェルミ……冗談だろう? あれはもっと小さい恒星で起こる現象で、この大きさの恒星では……まさか、ヘリウムフラッシュは?」

 近江は黙って別のグラフを示し、南はそれを見て更に愕然とした。

「超新星爆発まで秒読み段階だ」

「わかってるならさっさと回避しろ! 巻き込まれるぞ!」

 南は怒鳴ったが、今度は近江は別のグラフを示した。

「航路がすでにロシュ限界近くだから確実性を取ってできるだけ離れたいとは思っている。だがここは知っての通りただでさえ小惑星が流れ着く星の墓場だ。この船でそれらを避けながら飛ぶとなるとかなりの無理がある」

「シールドがあるだろう! この規模の船ならSシールドの装備くらいあるんじゃないのか?」

「Sシールドでどうにかできるもんじゃねぇ。通常惑星まで中性子星の重力に負けて公転に影響が出てるんだ。そんなもんが飛んでくりゃ、いくらこの船が中央管理局屈指の巨大輸送船でも大破するに決まってる」

 南は瞠目した。

「通常惑星……? まさか、この近くに人が住んでいる太陽系があるのか?」

 近江はまた別のグラフを重ねた。

「お前もよく知っているだろう。……ヨナガ星だ」

 南は蒼白になった。

 事はこの重力を回避するだけの問題ではない。このブラックホールのサナギを消し去らなければ、惑星ヨナガはやがて中性子星に飲み込まれる。

「どうしろって言うんだ!? 元々ブラックホールは中性子星が消滅してできるものだろう! 破壊が起爆スイッチになるんだぞ!」

「1つ手がある」

 近江は両腕を組んだ。

「南、相対性理論は知ってるな?」

「馬鹿にしてるのか」と南は言いかけたが、爆発まで秒読みの中性子星の方が気になったので言葉を飲み込んだ。宇宙船に携わる者にとって相対性理論は必須科目だ。

「これに量子論を加えたスティーヴン・ホーキングという地球の物理学者の理論によると、ブラックホールは蒸発させる事ができる」

 南は眉をしかめた。

「それは陽子質量程度の微小ブラックホールの場合だろう。あの中性子星はどう見ても確認されているブラックホールの中でも1、2を争うでかさだぞ」

「お前の船に、アイソトープをいじれる人間がいるだろう」

 南の瞳に殺気に似た鋭さが宿った。

「……菊池にあの巨大な中性子星を蒸発させろと言うのか?」

 南は視線をモニタへ移した。

 中性子星の大きさはまだ相当離れているのにのしかかって来るほどだった。あのサウザンドビーすら小さく思える。

「無理だ。これよりもっと小さいコールドホールの時ですら菊池はぶっ倒れたんだぞ。その何十倍もあるこんな星なんか分解できるわけがない」

「ならお前はヨナガ星が消滅してもいいというのか? あの星に何百億の命が乗ってると思っている?」

「だからといってみすみす菊池を死なせるわけにはいかない! 俺は船長なんだ!」

 南は近江を正面から睨みつけた。クルー全員の命に責任を持つ。それが船長の役目だ。

「……他を当たれ」

 激しい怒気を含んだ視線に、近江はため息を吐いた。

「そんな時間はない。見ればわかるだろう」

「それを何とかするのがお前達の仕事だろう!」

 南とは真逆に、近江は冷ややかな瞳で視線を合わせた。

「南、俺にその力があったら俺がやってる。だがあれを何とかできるのはお前の部下だけだ。……お前だって本当はわかっているだろう」

 氷結した火花を散らす視線を先に反らしたのは、南だった。

「……なぜ、もっと早くにヨナガ星に通達しなかった?」

「惑星軌道管理局の計算によれば、ヨナガ星が太陽系の反対側にいる時に爆発するはずだった。それなら恒星が盾になると踏んでいたんだ」

「惑星軌道管理局の上層部を全員クビにしろ!」

 南は音を立ててきびすを返した。



「でっか」

 事情を知らされ連れて来られた菊池は、ドヴェナッツァチ・アポストロフのブリッジでモニタを見た後、そうつぶやいて口をあんぐりを開けた。

「いくら何でもでかすぎだ。あんなのが朱己に消せるわけねぇだろ」

 菊池の隣にいた柊は近江を睨み、吐き捨てるように吠えた。

「問題はでかさじゃねぇ、重力だ。周囲の太陽系に影響を与えるまでに成長している」

 近江はモニタを操作しながら視線だけを菊池に向けた。

「惑星軌道管理局の計算より早く成長したのは、あの中性子星の鉄含有量が以前調査した時より増加していたためだと思われる。漂着した他の惑星によるものだろう」

 菊池はクラゲを抱えたまま眉間にしわを寄せた。

「鉄の原子核は最も結合エネルギーが大きいから、それ以上の核融合反応は起こらずに星の中心部が熱源を失って重力収縮するからだね」

 菊池に一緒にくっついてきた宵待には何の理屈かさっぱりわからなかったが、菊池が言うのだからそうなのだろう、と無理矢理理解しようと努力した。

「その通りだ。収縮が進めば鉄の原子核同士が重なり始め、陽子と電子が結合して中性子になり、やがて星の中心部がほとんど中性子だけで構成される核となる」

「教科書通りの中性子星だね。フェルミ縮退は?」

「現在は縮退圧と重力が釣り合っている。よって、限界というところだろうな」

 菊池がいっそう眉をしかめた。とても話しかけられる雰囲気ではなかったので、宵待はこっそり北斗に耳打ちした。

「北斗、菊池と近江は何を言ってるんだ?」

 北斗は緩慢に帽子の下から宵待を見たが、1度目を閉じてから再度宵待を見上げた。

「要するに、重力によってあらゆる物質が中性子の塊にまで圧縮されてるって事だよ。分かりやすく言うと、圧縮される力と重力が同じだから、何とか形状を保ってるってわけ」

「力の均衡が崩れたら?」

「爆発するに決まってるでしょ」

 北斗は宵待から目をそらし、モニタを見つめた。

「その爆発を超新星爆発と言うんだよ。そこから自己重力によって極限まで収縮し、巨大なガス雲が収縮して、ブラックホールとなる」

「ブラックホール……」

 宵待は息を呑んでモニタを見つめた。小さく軽い小惑星は列を成してどんどん中性子星に引きずり込まれている。重力と縮退圧の均衡が崩れるのは、もはや時間の問題に見えた。

「そうなる前に菊池は中性子星を消滅させようと言うのかい?」

「正確に言うと、消滅させてしまうとブラックホールになってしまうから、蒸発させるというのが正しいよ」

 宵待は菊池を見た。小さな頭、華奢な肩、身長だって自分より低い。その菊池が、あの巨大な恒星と戦おうとしているのだ。クラゲとたった2人で。

 菊池はふとため息を吐いた。

「俺の処理能力が中性子星の成長を上回れるかどうかが問題だな。脱出速度は光速の3分の1……光の軌道さえねじ曲げる巨大な重力……」

 ブラックホールはすべての常識を覆す時空だ。『円の内角は360度』という当然の常識でさえ、ブラックホール内では成立しない。

「せめてもっと近づけない?」

「今でもロシュ限界ギリギリだ。これ以上近づくと時空の歪みに巻き込まれる。明日には現実の世界では100年後になってるぞ」

 菊池は動物のようなうなり声を上げてモニタを睨んだ。

「唯一の救いは、あれがまだ中性子星だって事だな……でもあんな膨大なニュートリノを操る事なんか俺にはできない……ホーキング輻射の増幅……粒子と反粒子の対生成・対消滅……」

 菊池が小さい声でぶつぶつと呟いた言葉の何1つ、宵待は理解する事ができなかった。中性子の存在ですら、最近菊池に聞いたばかりだ。20世紀前半までは最小の粒子だと言われていたとか何とか。

「しぐれ」

 菊池は突然振り向いた。

「計算にちょっと協力してよ。この間の不可能平行ワープが計算できたんだったら、ブラックホール熱力学の公式くらい簡単だろ?」

「冗談じゃねぇよ。ありゃ数学、お前が言ってんのは理論学じゃねぇか。俺は理数系なんだ」

 柊は肩をすくめた。ウンカイ星で航空学を叩き込まれた柊だが、理論の方はどうにも苦手だった。とりあえずやってみるというのが信条の柊にとって、理論展開は鬼門である。

「えー……じゃあ」

 菊池がオロチクルーを見回した瞬間、全員が視線をそらせた。そんな難しい理論に手助けなどできるはずがない。そんな中、宵待だけが一歩前に出た。

「待ってくれ、菊池。本当にあんな巨大な恒星を消滅……蒸発させられるのか? そんな事ができるのか?」

 菊池は一瞬真顔になった後、クラゲを抱え直して小さく笑った。

「宵待、ヨナガ星で食べた串焼き、美味しかっただろ?」

 不意に思ってもいなかった事を訊かれ、宵待はとっさに素直にうなずいてしまった。確かにあの串焼きは美味しかった。

「俺も、また食べたい。……だから」

 菊池は笑みを消し、普段は決して見せない厳しい表情を浮かべた。

「あのブラックホールの出来損ないを、必ず葬ってみせる」

 不意に乾いた拍手が響いた。クルー達が視線を動かすと、それは近江の手から発せられていた。

「さすがオロチのクルー、いい啖呵だ」

 両手を下ろすと、近江は真っ向から菊池と視線を合わせた。

「協力は惜しまん。できる事はすべてやろう」

「じゃあ言わせてもらうけど、条件は3つあるからね。まずその1、この船に損害が出ても俺もオロチも責任取らないからね。修理代なんか払えないし、そんな事考えながらあんなヤツと戦えない。もちろんできるだけの事はするけど」

「わかった。あとの2つは?」

「今回のブラックホール退治が成功したら、報酬にオロチの修理代を中央管理局で持って」

「惑星軌道管理局の連中の給料を削ってでも払ってやる。最後の1つは?」

 菊池は一拍置くと、にやりと笑った。

「俺は船長以外の指示には従わない。今からこの作戦が成功するまでは、うちの船長がこのドヴェナッツァチ・アポストロフの総指揮者としてもらう」

 さすがに近江は瞠目した。この中央管理局の巨大輸送船ドヴェナッツァチ・アポストロフの総指揮権を、一時的とはいえ一介の自由貿易船の船長に譲れというのか。

「もちろん主操縦は北斗、副操縦はしぐれ、俺の補佐は宵待、バックアップはドクターにやってもらう。この条件を飲んでもらえないなら、万全の態勢で集中できない」

 近江は一瞬瞳に剣呑な光を宿らせたが、やがて呆れたようにため息を吐いた。

 そうだった。この結束力の強さこそが、オロチの力の源なのだ。

「……できるものならやってみろ。この船のメイン操縦だけでもそこのパイロットが覚えられたらたいしたものだ」

「できるに決まってるでしょ」

 北斗が帽子のつばを持ち上げて近江をギロリと睨んだ。

「柊サンはどうだか知らないけどね。なんせ理数系らしいから」

「ふっざけんな死ね北斗! こんなモン平行ワープの計算に比べたら朝飯前だっつーの!」

 2人のやり取りを見てため息を吐いた南は、視線だけを近江に向けた。

「つまり、俺達のやり方でやらせてもらうという事で了承したと思っていいんだな? 近江」

「勝手にしろ」

 言葉とは裏腹に、近江は笑った。




 ドヴェナッツァチ・アポストロフのメインコントロールルーム、その艦長席に南、その真下にある副艦長席に菊池が座った。

 正面のメインパイロット席に北斗、その右側に副パイロットの柊、バックアップシステムの主席に笹鳴、パワーコントロールシートに宵待。

 そして、ドヴェナッツァチ・アポストロフの後方に、今にも爆発しそうな中性子星。

 中性子星に船の正面を向けなかったのは、いざという時に全力で逃げるためだった。相手は莫大な重力の化け物であり、ロシュ限界……惑星や衛星が破壊されずにその主星に近づける限界ギリギリの距離まで近づき、背を向けていつでも逃げ出せるようにしてあった。

 ただ、菊池だけは正面を向いた方が集中しやすいとの事だったので、1人だけブジッリで反対側を向き、南とは高さが違うものの正面から向き合うように座っていた。

「グラフ照準中性子星、すべてのシステムオールグリーン、中性子星膨張率0.025%継続」

 宵待の声が静かにブリッジに降る。その後方で菊池はクラゲをひざに乗せたまま宙を見つめていた。意識はすでに中性子星へ向いており、誰の声も耳に入っていない。

 タイミングはすべて菊池に任せる事になっていた。菊池の能力が発動すると同時にドヴェナッツァチ・アポストロフは戦闘態勢に入る手はずになっている。

 ブリッジは静まり返っていた。本来なら人の発する音で消されている低いタービン音だけが、かすかにブリッジに響いている。

 近江は彼らの邪魔をしないよう、南の席の近くで沈黙を守っていた。

 物音1つしない、息を殺したブリッジ内で、ぴくりと南の指先が動いた。その動きをまるで見ていたかのように、他のオロチクルー達が緊張したのを、近江は見逃さなかった。

 近江が視線を動かすと、菊池とクラゲの瞳が黒から青へ変化していた。集中力が高まっている。

 菊池の身体が一気に白熱化するのと、南が「Sシールド起動!」と号令を出したのはほぼ同時だった。

 かなり背を倒したシートに深く身を沈めたまま、菊池がクラゲとともに強烈なエネルギーの塊となったと同時に、その菊池に背を向けていた宵待はすぐに膨大なデータパネルに視線を走らせた。

「膨張率0.024%に変化。縮退圧と共に重力縮小0.0012%減少」

 微々たる数字だ、と近江は思った。その程度の減少率では蒸発は到底叶わない。

「エアスキッド固定。座標軸確認。ヨナガ星への影響予測を把握」

 南の声が静かにブリッジに響く。宵待や笹鳴がカバーしきれないシステムに関しては近江の部下達がそのまま受け持っていたので、情報官の1人がコンソールに指を滑らせた。

「エアスキッド起動。座標軸ぶれなし。ヨナガ太陽系への影響予測はまだ基準値を下回っています」

「基準値に到達次第Sシールドを広域フルパワー」

 南の視線はあらゆるグラフに向けられていた。中性子星はギリギリ燃焼しているものの、ほとんど不過視の状態と言っても過言ではない。この暗い宇宙で光を発しなくなった恒星を確認するには、あらゆるシステムがはじき出す電磁派等のグラフでしかできない。

 南以外のクルー達は誰1人動かない。だが全員が息が詰まるほど緊張しているのが近江にはわかった。

 菊池も白熱化したまま微動だにしない。

 そんな状態が10分も続いた頃、宵待がうわずった声を上げた。

「ホーキング輻射確認……!」

 ホーキング輻射とは、相対性理論に裏付けられた上での中性子星の蒸発の発端だった。ブラックホールの質量の減少を示す、小さな熱放射の光だ。

 近江は思わずシートの背から身を浮かせた。菊池は今、本当にブラックホールの誕生を止めようとしている。それを視覚的に確認できたのだ。ちっぽけなたった1人の人間と1匹のクラゲが、太陽系の軌道さえ狂わせるような巨大ブラックホールのサナギと対等に戦っている。

 近江は白熱化してほとんど輪郭の見えない菊池を見た。

 地球とルナベースが手放した巨大な力。手放した後にその巨大さを知り、何人かの首まで飛んだという。

 こんな力を1惑星が手にしていたらと思うとぞっとした。エアシーズの再来だ。南がエアシーズを含めどこにも所属していない事は、菊池にとっても大きな幸いだった事だろう。そうでなければ、菊池は兵器としての人生を歩んでいたに違いない。

「ホーキング輻射率上昇!」

 宵待の声に、近江は意識を目前の恒星へ戻した。近江の知った事ではないが、こんなところにブラックホールが現れたらUNIONは大幅に海図を書き換えなくてはならなくなるだろう。航路はもちろん、ヨナガ星を有する太陽系だって消滅するのだから。

 近江は何一つ口を挟まず、じっとオロチクルー達の動向を見守っていた。彼らの結束力と団結力を前に、口を出せる者など存在しない。それは近江の部下達も同じようで、ドヴェナッツァチ・アポストロフ内でオロチクルー達の行う事に疑問や意見を口にする者もいなかった。彼らはまるで1つの生物のように互いの動向を把握している。並の連携ではない。

「膨張率0.0012%! 縮退圧と共に重力縮小8.2%減少!」

 やがて、真っ暗だったモニタに小さな光の明滅が肉眼で確認できるようになった。

 ホーキング輻射率が上がり、中性子星の重力崩壊が膨大な反作用によって熱放射を増加させているのだ。

 中性子星が、本来の終末ではなく、人為的に蒸発させられようとしている。おそらく歴史上初の事だろう。

 北斗と柊の肩が大きく上下していた。緊張が心拍数を限界まで上げ、呼吸数が上がっている。

「ヨナガ太陽系への重力影響予想、基準値を上回ります!」

「Sシールド広域フルパワー!」

 情報官の1人の報告に、南が鋭く指示を出す。このドヴェナッツァチ・アポストロフが搭載するSシールドは、フルパワーにすれば恒星の重力に影響を与えるほどだ。南はこの艦1隻でヨナガ星の公転を守ろうとしているのだ。

「膨張率0%突破! 収縮に入ります! 縮退圧と共に重力縮小38%減少!」

 北斗と柊が操縦桿を強く握りしめるのと同時に、再び南が叫んだ。

「来るぞ! 全員何かにつかまれ!」

 とっさに近江がシートの肘掛けに両手を掛けたその瞬間、炭酸の泡のように出現しては消えていたホーキング輻射の熱放射の光が集積し、中性子星はとうとう耐えきれずに巨大な爆発を起こした。

 人間が、ブラックホールの誕生を止めた瞬間だった。

「エアスキッド解除! 北斗、エンジン全開! ヨナガ星まで全力で逃げろ!」

 そう南が言い切るより先に、北斗は操縦桿を倒していた。

 巨大な中性子星はドヴェナッツァチ・アポストロフのメーターを振り切るエネルギー量を放出し、津波のような勢いで周囲に広がった。押し寄せる熱と放射能に飲み込まれた小惑星達が瞬きする間もなく一瞬で消滅してゆく。その勢いはタンホイザー砲などの比ではない。四次元的360度のどこにも逃げ場がないエネルギーがドヴェナッツァチ・アポストロフをも飲み込もうとしていた。

「くそっ! 全然動かない……!」

 北斗が計器に目を走らせて吐き捨てた。

 崩壊寸前にまで追いつめられていた中性子星の重力は、爆発してもまだ完全に息の根を止められてはいなかった。中央管理局きっての輸送船のエンジンをもってしても、まるで縫い付けられたように動けない。

「ロシュ限界突破まであと10秒!」

 宵待が叫んだ。ロシュ限界を超えて引きずり込まれれば、空間と時間が反転する時空に飲み込まれて実在する世界との時間にズレが生じてしまう。俗にいうウラシマ効果が発動するためだ。だがタイムスリップより問題なのは、ロシュ限界内の重力に機体が耐えられない事だ。重力に負けて引きずり込まれたら最後、爆発のエネルギーで人体ごと中性子レベルにまで分解されてしまうだろう。

「北斗!」

「重力圏内に引きずり込まれて動けない!」

 爆発とともに重力も霧散するはずだが、完全に影響を受けなくなるまでにはまだ時間がかかりそうだった。だが待っている時間はない。ドヴェナッツァチ・アポストロフの脱出速度を上回る勢いで怒濤のごとくせまり来るエネルギーは、船を完全に絡めとった。焼き切れるほどエンジンを全開にしているのに、まるで蜘蛛の巣にかかった蝶のようにじたばたともがくだけで逃げられない。

「ロシュ限界突破まであと5秒! 4、3、2……突破!」

 その瞬間、押し出されてゆく爆発エネルギーの流れが、ドヴェナッツァチ・アポストロフから速度を上げたように見え始めた。亜高速時空に乗り、通常の時間軸より船内の時間の流れが遅くなったのだ。

「Gブロック上部甲板破損! FブロックEブロック共に亀裂発生!」

「電力システム出力44%低下! ジャイロコンパス沈黙!」

「メインエンジン出力120%! レッドゾーン! 限界です!」

「ウイングレット破損! バランス保てません! 船体傾きます!」

「Sシールド出力12%低下! 船体耐久値MAX!」

 一気に船が分解し始めた。重力と爆発エネルギーに、ドヴェナッツァチ・アポストロフが悲鳴を上げる。

「船長! ワープだ!」

 柊が叫んだ。

「俺が軌道計算する!」

「ワープブースター全開! 被害ブロックを閉鎖! 総員避難命令を発動!」

 柊の言葉にかぶせるように、南が叫んだ。

「ディスチャージ秒読み5、4、3!」

「クラス設定ニュートラル!」

「ディスチャージ!」

「菊池! 戻れ!」

 宵待、笹鳴、南の声が重なり、ドヴェナッツァチ・アポストロフは亜高速の檻を破壊して飛び出した。





 行方不明になっていた中央管理局の大型輸送船『ドヴェナッツァチ・アポストロフ』がボロボロの姿でヨナガ星に発見されたのは、中性子星が爆発して10日も過ぎた頃だった。

 機体は分解寸前まで破損し、エンジンは焼けこげていたが、乗船員は全員無事だった。ただ、意識不明者が1人と1匹。

 ほとんど衰弱死手前まで力を使い果たしたのは、もちろん菊池とクラゲだった。

 発見時、彼らは全員が憔悴していた。彼らの時間軸ではわずか5分前に中性子星の爆発より脱出したばかりだと言う。

 彼らは爆発に巻き込まれながらも正確に脱出空域へワープした。瞬時に爆発影響範囲内を予測してワープ航路を開き、ワープアウト座標をはじき出したのは、もちろん柊だった。

 ヨナガ星は多少爆発に巻き込まれたものの、本来の超新星爆発より威力の劣るものだったので氷河期に突入する事なく無事公転軌道を1度もずらされずに済んだ。

 ヨナガ星の大統領メイゲツは、すぐにドヴェナッツァチ・アポストロフを保護し、療養と修理に当たった。

 中でも恩義の深いオロチのメンバーにはいっそう手厚い処遇をし、菊池は笹鳴と共にヨナガ星の星立第一病院へ収容された。

 笹鳴の看病と治療のお陰で菊池とクラゲが意識を取り戻して口が利けるようになったのは、入院して更に10日も経った頃だった。

「……中性子星は?」

 菊池の第一声に、笹鳴は笑った。

「安心しい、ちゃんと消えたで」

 菊池は安堵して吐息し、隣で眠っているクラゲに指を伸ばした。

「みんなも、無事?」

「ああ、ぴんぴんしとる」

 菊池は再び吐息して天井を見上げた。

「今回は……本当にヤバかった。クラゲがいなかったら、多分失敗してたし俺も死んでた」

 菊池はそっとクラゲを撫でたが、クラゲは身じろぎもせず眠っていた。

「増幅能力の賜物やな」

「それだけじゃないよ」

 菊池は力なく笑った。

「わかんなかったかもしんないけど、あの時の俺、能力の暴走が起きてたんだ」

 笹鳴は瞠目した。かつてそんな事など1度もなかった。

「身体中の細胞が……なんて言うか、まるで中性子星の重力に引きずり込まれるみたいな感じがして、心拍数が急激に上昇して意識が拡散していくのがわかったんだ」

「朱己……」

「だけど、クラゲが俺を戻してくれた」

 菊池は顔を動かしてクラゲを見た。

「俺の能力を増幅させながら、その上で俺の自律神経を抑えてくれてたんだ。上手く言えないけど、意識が離れた身体を守っててくれたって言うか……」

 笹鳴はぞっとした。自律神経の失調は命に関わる。心臓も呼吸も自律神経だ。それが止まれば生きてはいられない。

「ホント、たいしたヤツだよ、クラゲは。元気になったら好物をたくさん作ってあげなくちゃ」

 菊池が拾った小さな命。その命が、今度は菊池の命を守ってくれた。

 笹鳴が見つめていると、クラゲもやがてもぞもぞと動いてつぶらな目を開けた。

「……きゅう?」

「うん、成功したって」

 菊池が微笑んで抱き寄せると、クラゲは嬉しそうに身を寄せた。

「ほんま……ただの愛玩動物やないな、自分は」

 笹鳴にも撫でられ、クラゲはくすぐったそうに目を細めた。

「クラゲも立派なオロチのクルーなんやさかい、はよ元気になりや」

 クラゲは瞬きした後、小さく嬉しそうに「きゅう」と鳴いた。



 中性子星の爆発は超新星爆発に近い破壊力を持っていたと推測されており、それにしてはドヴェナッツァチ・アポストロフが完全に分解されなかった事が疑問視されたが、菊池が重力の正体とされているニュートリノという素粒子の存在をコントロールしていた事が後にわかった。中性子星のすべてのニュートリノは操作できなかったが、ドヴェナッツァチ・アポストロフのニュートリノを限界まで排除し、それによって重力の影響を軽減させようとしたのだ。「できるだけの事をするって言っちゃった手前ね」と菊池は笑っていた。

「軽減させてあれか……」

 と北斗は遠い目をした。もし菊池がニュートリノを排除してくれていなかったら、もっと早くにロシュ限界を突破し、時間のズレは10日どころの話ではなかっただろうし、そもそも全員無事なんて事はなかったはずだ。

「菊池の様子はどうなんだ? 笹鳴」

 南が視線を向けると「この俺が、よりによって同僚を回復させないわけないやろ」とにやりと笑った。

「せやけど療養は必要や。身体中の細胞が疲れ切っとる。クラゲもや」

「クラゲと言えば、今回は大活躍だったんだって?」

 柊がヨナガ星名物の大仏まんじゅうを頬張りながら笹鳴を見ると、大きな頷きが返って来た。

「クラゲがおらへんかったら、朱己の心臓は止まっとった」

 その言葉に南は拳を握った。危うくクルーを失うところだった。南の最も恐れている事だ。

「もう2度と、あんな真似はさせない……」

 思い詰めて呟く南に、宵待が笑った。

「多分ダメだと思うよ。菊池ってあれですごく頑固なところがあるから、誰かを助けるためならまた無茶をするんじゃないかな」

「だが、船長として命を危険に晒すような真似はもうさせたくない」

「違うでしょ」

 今度は北斗が意地悪げな笑みを浮かべて南を見た。

「そういう時は止めるんじゃなくて、どうすれば生き残れるかを考えるのが、船長の仕事でしょ」

「そうそう。今までだってそうだったじゃん」

 大仏まんじゅうを飲み込んで、柊も笑った。

「ドクター、朱己の回復にはどれくらいかかる?」

「せやな。あと10日いうとこやろ」

 南はため息を吐いた。こんなに心配しているのに、クルー達は全然わかってくれない。

「10日か。またヨナガ星に足止めだね」

「串焼き食おうぜ串焼き。朱己にはテイクアウトしてもらってさ」

「あかんて柊。朱己はしばらく流動食や。内臓機能が低下しとるさかいな」

 ふとノックの音が聞こえ、クルー達は顔を上げた。

 平和な会話を中断させたノックの主は、ヨナガ星の大統領メイゲツと近江だった。

「不自由はないか?」

 メイゲツはずいぶんと貫禄を増した物腰で部屋を進むと、空いていたソファに腰掛けた。近江もそれに倣う。

「大丈夫だ。世話をかけるな、メイゲツ」

「何を言うんだ、南。いま俺達がこうしていられるのはお前達のお陰だ。何でも言ってくれ」

 笑って、メイゲツはクルー達を見回した。

「1度ならず2度までも助けてもらって、本当に心から感謝する」

 頭を下げるメイゲツに、南は苦笑して顔を上げるよう伝えた。

「それは昨日もおとといも聞いたし、特に頭を下げられるような事をした覚えはない。それに、爆発の被害がまったくなかったわけじゃないんだろう?」

 メイゲツは少しだけ真顔になって頷いた。

「確かに隕石による被害は発生したが、人が住んでいた場所ではないし、消火活動もほとんど終わっているから心配ない。気温変化による環境破壊はこれからだがな」

 多数の隕石が落下した事により、ヨナガ星の気候は今かなり乱れていた。数少ない砂漠に先日雹が1時間に渡って降り続けたばかりだ。

「だが、公転がずれていれば被害はこんなものでは済まなかったはずだ。感謝するのは当然だろう。……菊池は大丈夫なのか?」

 メイゲツに視線を向けられて、笹鳴は小さく頷いた。

「医療機器の整っとる病院に入れてもらったさかい、順調に回復しとる」

 メイゲツはほっとしたように頷いた。

「……ところで」

 それまで黙っていた近江が口を開いた。

「菊池の回復を待って出発するとして、選択肢が2つある」

 南は顔を上げた。

「ドヴェナッツァチ・アポストロフの修理にはどう見積もっても1ヶ月はかかる。菊池の回復は10日前後だと聞いているが、それまでヨナガ星で待つか? それとも別便で行くか?」

 別便、と南は小さく呟いた。ドヴェナッツァチ・アポストロフほどの輸送船などそう簡単に用意できないだろう。だとすればどちらにしても時間がかかる。

「どっちが早いんだ? ドヴェナッツァチ・アポストロフの修理を待つのと、別便を待つのと」

「後者だ」

 そう言って、近江は「実は」とため息を吐いた。

「先日、到着の遅れをスイリスタルに打診したところ、皇帝達……特にヒムロ星のビャクヤ皇帝が立腹してな。俺達には任せられねぇから自分達で迎えに来ると言われた」

 ああー……と南は宙を仰いだ。手に取るように想像できる。

「俺としては最後まで運びたいところだが、ドヴェナッツァチ・アポストロフを放っておくわけにもいかん」

「だろうな」

 南は苦笑した。

「じゃあ、スイリスタルの迎えが到着したらそれで行かせてもらおうか」

「わかった。そう伝えておこう」

 近江は席を立った。

「菊池の治療費に関しても中央管理局で持つ事になったから、安心して療養してくれ」

「当たり前だ」

 睨む南に背を向け、近江は部屋を出て行った。



 その後、ヨナガ星は異常気象が続いた。天変地異に近い気候の連続だったが、地震や火山活動というような内部からの異常ではなかったので少々地形を変えるにとどまった。

 その間ずっとクルー達はヨナガ星に足止めされたが、メイゲツの妹のアンズやヒグラシやセキレイ達が気を使って話し相手になってくれたり情報を提供してくれたお陰で、クルー達は退屈する事なく過ごせた。菊池もクラゲとともに順調に回復し、ヒムロ星の輸送船が迎えに来た頃にはすっかり回復していた。

「それにしても、あの亜高速の空間から瞬時にワープアウトポイントを計算するなんて、しぐれはすごいな」

 元気になった菊池に褒められ、柊は得意げに笑った。

「まぁな。亜高速空間の状況を考えるとあんま遠くだとどこ飛んでくかわからなかったし、かと言って近いとまた巻き込まれる可能性があったから、ちょっと面倒だったかな」

「ワープと時空は切っても切れない関係だろ? 位置的にもよくやったよ」

 鼻を高くして笑う柊に、北斗はため息を吐いた。

「ワープアウト直前に30度も角度を変える指示だしておきながらよく言うよ。あやうく恒星に突っ込むとこだったじゃん」

「あぁ? 結果的に脱出できたんだからいいだろうが」

「誰が舵をとってたお陰で上手くいったと思ってんの」

 火花を散らす2人に、菊池が苦笑した。

「喧嘩すんなよ。今コーヒー淹れてやるから」

「お! やった! 朱己のコーヒー!」

「あんま熱いのやだよ。ちょっと冷まして」

 そんなやりとりに南は目を細めた。いつもの光景だ。

「そういえば」

 笹鳴が南の耳元ですっと声を落とした。

「惑星軌道管理局の上層部、ホンマに何人かクビが飛んだらしいで」

 南は渋い顔をして視線を飛ばした。

「まぁ、当然と言えば当然だろうな。太陽系1つ消滅させるところだったんだから」

「近江のヤツが相当圧力をかけたらしい。惑星軌道管理局は中央管理局の下にある部署やさかい、そらもうメッタメタやったらしいで」

「役所の人間がどうなろうと知った事じゃないが……あいつ相手にクレームを受け付けるのはちょっと気の毒だな」

「何言うてんねん。近江は自分に怒鳴られたからそうしたんやて言うてたで?」

 南は思わず声を落とした。

「……本当か?」

「朱己を貸し出す交渉をした時に、えらい血相で責められた言うてたわ。まぁ、八つ当たりもあったんやろけどな」

 意味深に笑う笹鳴に笑みを返そうとして失敗し、南はため息を吐いた。

「俺、そんなに怒鳴っただろうか……」

「ええって」

 背中をぽんぽんと叩かれて南は肩を落とし、笹鳴は声を上げて笑った。

「行くで、南。そろそろ次の場所へ出発や」

「そうだな。総員配置に付け。コーヒーは飲んでしまえよ」

「はぁーい」

「うぃーっす」

 慌ただしくコーヒーをノドに流し込むクルー達を見ながら、南もキャプテンシートに腰を下ろした。

一応頑張って調べてみましたが、お話の都合上ところどころ実際では起こりえない現象を書いております。ご了承ください。

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