この手を通して。
「行ってらっしゃいませ~!」
と、店員総出での見送りの声が、通りに響き渡る。
「うーん……大魔法使いの見送りにしちゃ寂しいけど……まあ、いっか。――我々は必ずや魔王を倒して戻ってくる! それまで、みんな、どうか待っていってくれ!」
旅道具一式と食料を詰め込んだリュックが肩に食い込むほど重く、正午を過ぎていよいよ殺人的強さになり始めた陽射しが麦わら帽子越しでさえじりじりと熱い。空色の半袖シャツと、ベージュの半ズボン、それぞれから出ている肌などは、まるで焼き魚のように刻一刻と焼け焦げていっているのが解るほどである。
もうダメかもしれない。
ユイカは石畳の地面にくっきり刻まれる自らの影に、老婆のような姿勢で杖をついて歩きながら、
「フヨウさん。今日、泊まる所まで、どれくらいかかるんでしたっけ……?」
と、漆黒のスカートを楚々と揺らしながら前を歩くフヨウに尋ねる。フヨウはユイカの倍近く膨らんだようなリュックを軽々と背負い直しながら、
「順調に歩いて、およそ六時間と少しというところではないでしょうか?」
「ろ、六時間も……こんな暑さの中で……?」
「休み休み歩いて、それくらいでございます。今はだいぶ日も長いですし、もう少しくらいは遅れても問題ございません。焦らず、ゆっくり行くことにいたしましょう」
「フヨウ、そのリュック、重くないの? それに、そのトライデントって槍も……」
出発の儀式を終えれば用済みだというように、黒い三角帽子とマントを脱ぎ、紺色の袖なしワンピース姿になりながらミズキは尋ねる。
フヨウのリュックが膨らんでいるのは、誰が余計に食料を買い込んだせいなのだ。そう怒ってもよいところなのだが、フヨウはどこまでもメイドらしく静かに微笑み、
「重くない、とは申しません。ですが、わたくしが先導者となってお二人をお守りせねばならない以上、これは最低限の荷物でございます」
「ごめんなさい、フヨウさん……。あの、わたし、あとほんのちょっとくらいなら荷物増やせますけど……」
「ありがとうございます、ユイカお嬢様。わたくしは大丈夫でございます。ユイカお嬢様は、まずはご自身のこと……旅に身体を慣れさせることを考えてくださいませ」
「はあ、すみません……」
肩身の狭い気分でユイカが目を伏せると、その直後だった。
「ねえねえ、メイドのお姉さん。俺たちと一緒に遊ばない? ガキのお守りなんてしてないでさ」
「昼ご飯まだなら、なんでも好きなもの食べさせてあげるよ。で、なんか食べたら海に遊びに行ったりしようよ」
と、二人組の若い男がフヨウの前に立ち塞がった。
「凄い武器持ってるね。何? これから狩りにでも行くところ?」
と、フヨウの持つトライデントに触ろうとした長髪の男の手を押し留めつつ、フヨウは穏やかな口調で、
「申し訳ありません。急いでおりますので、行かせていただけますでしょうか?」
「そうだそうだ! アタシたちはこれから魔王討伐に行くんだぞ! 邪魔すんな、この暇人共っ!」
と、ミズキが臆することもなく木の杖を男の一人に突きつけた。瞬間、周囲に満ちていた暑さが凍りつき、時間が止まった――ように、ユイカには感じられた。
「ちょ、ちょっと、ミズキ……!」
どうしよう。ミズキが殴られる。そうユイカは慄然としたが、男たちは同時にプッと吹き出し、腹を抱えて笑い始めた。
「ああ、アレか。お前ら、あの『勇者ガール』ってヤツか。マジであんなツアーに申し込む女なんていたのかよ」
「暇人なのはどっちだよ。なあ、お前ら、お気楽なのはいいけどよ、あんまり男に迷惑かけんじゃねえぞ。お前ら女が男女平等だのなんだの言って好き勝手やり始めたせいで、俺たちはいつもその尻ぬぐいさせられてんだ。いいご身分も大概にな」
と、男たちは酔っ払いのように笑いながらどこかへと去っていく。
「ふん、何さ、あいつら……。パパはともかく、お前らみたいな役立たずに助けられたことなんて、生まれて一度もないっての」
「さて、行きましょうか」
ミズキは頬を膨らませながら、フヨウは何ごともなかったように微笑みながら、再び街の門へと向かって歩き出す。が、
「……わたし、やっぱりやめる」
その場に佇みながら、ユイカは言った。え? とミズキは足を止めて、
「何? まさか、あんなヤツらの言うこと気にしてんの? 大丈夫だよ、アタシたちは三人一緒に行くんだから。他の人に迷惑なんてかけないよ」
「ううん……わたしには無理だよ。ミズキにもフヨウさんにも、それにきっと知らない人にも……絶対たくさん、たくさん迷惑かける。わたしが旅をするなんて……やっぱり無理だよ」
「い、今になって何言ってんの? さっき、魔王にありがとうって言いに行くって言ってたじゃん。そのナイフだって自分で選んだんだし……!」
「そうだけど……」
自分は何を調子に乗っていたのだろう。旅など、自分にできるわけがないのに。人に迷惑をかけるだけに決まっているのに。
ミズキの熱に当てられたせいか、いつの間にか自分は冷静さを失ってしまっていたらしい。しかし、あの男たちのおかげでどうにか我に返ることができた。ユイカはミズキとフヨウに背を向けて、
「……ごめんなさい。魔王城まで行くなんて、やっぱりわたしには無理。わたしは家で大人しくしてるよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、ユイカ!」
と、ミズキが走ってユイカの前へ回り込み、
「わ、解ったよ! じゃあ、魔王城まで行くのはやめにしよう。魔王城じゃなくて、隣の村。隣の村まで行くだけなら、大丈夫でしょ?」
「いいよ、わたしのことなんて気にしなくて。ミズキは魔導士になる訓練がしたいんでしょ? それなら、ちゃんと旅をして色々勉強しなきゃ」
ミズキの肩をぽんと叩いて、再び自宅のほうへと歩き出す。と、
「違う……。違うよ、ユイカ……」
微かに震えたような声で、ミズキが言った。
「アタシが旅をしたい理由は、修行したいっていうことだけじゃないよ。それも確かにあるけどさ、それより……その……なんてゆーの? 単純に、ユイカと色んなことしたいっていうか……」
「わたしと……?」
どういう意味だろうと振り返ると、ミズキは「うぐ」と妙な声を出しながらなぜか身構え、ボッと燃え上がったように真っ赤な顔で目を逸らし、
「い、いつもみたいに部屋で一緒にダラダラするのも楽しいけどさ……アタシはユイカともっと色んな場所に行って、もっと色んなものを見てみたいっていうか……」
「色んなものを……?」
「それだけじゃない。色んなもの食べて、色んなことに挑戦して……泥だらけの顔とか、泣きそうになってる顔とか、綺麗な景色見て感動してる顔とか……そういう、ユイカの色んな顔を、アタシは見てみたいんだよ」
「はぁ? 色んな顔って……ば、バカじゃないの?」
ミズキの真っ赤な顔を見ていると、こちらまでなんだか恥ずかしくなってきて、思わずユイカの顔も熱くなる。と、ミズキの後ろで立ち尽くしていたフヨウがくすりと笑い、
「まるでカップルのようでございますね。この旅は、ひょっとしてお二人の新婚旅行なのでしょうか?」
違うったら! とムキになって怒鳴るミズキがおかしくて思わず吹き出してしまってから、ユイカは小さく息をついて、言った。
「しょうがないわね。ミズキがそこまで言うなら、つき合ってあげる。どこまで行けるかなんて解らないけど、行ける所まで……行ってみよう、かな?」
「ユイカ……」
と、安心して身体から力が抜けたような声を出すミズキの目を見るのが、なんとなく恥ずかしい。皮肉や冗談も上手く思い浮かばず、なんと言葉を続ければいいのか解らず戸惑っていると、
「さて、今度こそ参りましょうか、お嬢様がた」
と、フヨウが助け船を出すようにそう言って、先を歩き出した。すると、
「行こ、ユイカっ」
ニッと笑いながら、ミズキがこちらへと手を差し出す。ユイカは一瞬、躊躇って、しかし思わずつられて笑ってしまいながら、その手を取って歩き出した。
この手を通して、自分の世界は広がっている。ユイカは今、確かにそれを感じた。
ミズキという窓を通して、自分はこの先、何を見て、何を聞いて、何を感じるのだろうか。何と出会い、何を考え、どう変わっていくのだろうか。
熱い風に背中を押されるのを感じながら、ユイカは頭上に広がる真っ青な夏の空を、目を眇めながら見上げたのだった。