夏休み。
「はぁ……」
深く溜息をついて、ユイカはテーブルに広げていた教科書とノートをパタンと閉じた。ペンをテーブルの上に転がしながらダラリとそこへ突っ伏して、裏庭に面した窓から入ってくる、床を焦がすような真夏の陽射しと、ムワッと温いそよ風に顔をしかめる。
暑い。怠い。何もしたくない。宿題に体力を使い果たして、まるで捨てられた人形のようにただぼーっとテーブルに寄りかかり続ける。
今日は夏休みの初日。そのまだ午前中。それなのに、もう自分は宿題を全て終わらせてしまった。偉い。わたし、凄く偉い。さあ、これから何をしようか。何をして遊ぼうか。そんなことを思ってみるが、
「…………」
なんのアイディアも思い浮かばない。暑いから頭が働かないのではない。そもそも、したいことなど何ひとつないのだ。
なのに、どうして急いで宿題を終わらせたのかと訊かれたら、ただそういう性分だからとしか答えようがない。するべきことがあると、それを終わらせないことにはどうしても落ち着かないのだ。
自分がしたいことなんて何もない。ただどこまでも、義務に追われて走り続けるだけの人生……。
頭と身体が疲れると、心まで疲れてくる。ユイカが十三歳の少女らしくない無力感にずぶずぶと沈んでいっていると、部屋の外、玄関のほうから、聞き慣れた少女の声が聞こえてきた気がした。
それで重い身体をどうにか起こし、セミロングの髪を少し手で整えたのと同時、バン! と勢いよく部屋の引き戸が開けられ、そこに黒い三角帽子とマントを身につけた少女が現れた。
「魔物の気配だっ! アッ、危ないっ!」
その少女は何やら叫びながら駆け出して、その手に握っていた長い木の枝を振り上げる。そして、それをユイカのベッドの上にいたクマのぬいぐるみ――ウルへ容赦なく叩きつけた。
「ちょっと、やめてよ! っていうか、部屋に入ってくるときはちゃんとノックしてって言ってるでしょ!」
「クク、何をバカな……。魔法使いというのは、音もなく風のように現れるもの……」
「いや、普通にドア開けて入ってきたし……」
ベッドの傍へ四つん這いで歩いて、落ちていたウルを拾い上げる。すると、現れた黒衣の少女――この家の隣に住む同い年の幼なじみ、ミズキが深く溜息をついて、
「相変わらずテンション低いなぁ、ユイカは……。そんなんで生きてて面白いの?」
「な、何さ……わざわざそんなこと言いに来たわけ?」
「まさか。大魔法使いのタマゴであるこのアタシがそんな暇なわけないじゃん。夏休みになったからこそ、余計に忙しいくらいだよ」
言いながら、ミズキはユイカの手からウルを掴み取り、それをベッドの上へ置き直して、それと向き合うように自らもベッドにぺたんと腰を下ろした。
漆黒のマントの中、濃紺の袖なしワンピースのポケットから小指の爪よりも小さな石――虹色に光る、魔力を宿す虹石と呼ばれる石を口へ放り込んでゴクリと飲み下し、ウルに向かって右手を向ける。
「生命よ、宿れ! マア・ルイケ!」
「……わたしのぬいぐるみに変な呪文かけないでよ。やるなら自分の物にやって」
どうやら魔法はかからなかったらしく、ぬいぐるみらしく微動だにしないウルを見やりつつユイカはテーブルに頬杖をつく。ミズキは悔しげに歯ぎしりしてから、
「ああもう! 暑いなあ!」
三角帽子とマントを放り投げて、下ろしていたセミロングの髪をいつも通りゴム紐で縛って、短いポニーテールにする。
「これは……本気を出さなければダメなようだ。どうやら、この中には相当強力な魔物が逃げ込んでいるらしい……。かくなる上は――燃やすしかないっ! カナン・イザニッション!」
そうミズキが呪文らしい言葉を叫んだ瞬間、ウルへ向けたその右の掌の前に、ポッと小さく火が灯った。ユイカは慌ててベッドへ駆け寄ってウルを掴み上げ、
「や、やめてってば! ホントに燃やす気なの!?」
「え? あはは。そんなことしないよ、冗談だよ、冗談」
「本当……?」
手から火を消しながらニヘラと笑うミズキを睨み、しかし毎度のことなので本気になって怒るのもバカらしいし、そもそも暑さのせいで立ち続けている気力もなく、ユイカは溜息をつきながら再び元いた場所に腰を下ろす。
「それより、何しに来たの? こんなに暑いんだから……遊ぶなら一人で遊んでてよ……」
「違うよ。別にアタシだって遊んでるばっかなわけじゃないんだから。今日はもちろん、一緒に宿題をやりに来たんだよ」
そう言って、肩にたすきがけしていたバッグの中から一冊のノートを取り出し、なぜか自慢げにこちらへ見せる。
「へえ……。夏休み初日から宿題やろうとするなんて、ミズキにしては珍しいじゃない。でも、悪いけど、わたしはもう全部終わっちゃったから」
「えっ!? もう!? まだ一日目の、しかも午前中なのに!」
跳び上がるように腰を浮かせながら、ミズキは子猫のように大きく丸いその目をさらに丸くする。まるで鍋の中にいるような暑さなのに、よくもこんなに元気なものだと思わず感心しながらユイカはテーブルに突っ伏す。
「うん。今日の朝早くから起きて、ずっとやってたから……」
「へー……まあ、それならそれでいいや。じゃ、それ写させて」
「なんでよ。自分でちゃんとやりなさいよ」
「そっちこそなんでさ。いいじゃん、それくらい別に」
言うや、小動物のようにすばしっこくこちらへ駆け寄ってきて、テーブルに置いてあったユイカのノートを手に取りそれを開く。
「うわっ、ホントに終わってるし……。でも、なんで? ユイカが宿題すぐやるのはいつものことだけど、今回は特に早くない? なんかやりたいことでもあるの?」
「別に何もないけど……。宿題があると思ったらよく眠れないから、終わらせることにしただけ」
「うわぁ、何それ……? ねえ、ホントにさ、ユイカはなんでもいいから趣味とか見つけたほうがいいよ。なんていうか……心のゆとり? そーゆーのを持ってないと、いつか鬼ババみたいな顔になっちゃうよ」
「そう言われても……」
趣味は見つけろと言われて見つけられるものではないし、それに見つけられるのならとうに何か見つけている。無感動な、つまらない人間で悪かったわねと、内心愚痴を呟きながら口を尖らすと、
「うーん……ああ、もうっ、やっぱやめ! ねえ、アイス食べに行こっ!」
急にミズキが立ち上がり、脱いだマントと帽子を手早く身につけ直してから、ユイカの腕を掴んで立たせようとする。
「え? 宿題は? やるんじゃなかったの?」
「そんなのどうでもいいの! アイス、アイス! 今はアイスが食べたいの!」
「えぇ~? メンドくさいよ……っていうか、暑いから外に出なくないし……」
「いいから行くの! アタシは闇の大魔法使いなんだから、ユイカはアタシの言うこと聞かなきゃダメなの!」
こう言いだしたら聞かないことは、幼なじみだからよく知っている。ユイカは軽く吐き気までするような気怠さを感じつつ立ち上がり、まるで連行されるようにミズキに腕を組まれながら部屋を出たのだった。