アギト
さっき顔を出したと思ったら、いつの間にか月は俺の頭上で闇をほのかに照らしていた。今日は雲一つない夜空で、月明かりは少しだけ眩しい。
「んっ・・・・」
小さなうめき声が聞こえた気がして、落ちかけていた俺の意識が首を上げる。危ない危ない。寝るところだった。
それはさておき、もしかしたらさっきのうめき声は。そう思って視線を獣人に向けた。どうやら当たりだったらしい。ちょうど目の前の大きな白狼はもぞもぞと緩慢な動きで起き始めたところだった。
いわれてみれば女の子らしさを感じないでもない大きな瞳に、俺の姿が映りこむのが見えた。目が合ったのだ。狼の鋭いまなざしに俺は少し押されながらも、俺は自己紹介でもしようと口を開いた。
否、開こうとした。
「こんばんーーーーあぅっ?!」
その瞬間、胸を思いきり押されたような強い衝撃と、一拍遅れて背中にも圧迫感が俺を襲った。視界は訳が分からないまま急転して、気づけば夜空を見上げていた。狼に押し倒されたのだと気づくにはあまりに急すぎた。俺は混乱しきったまま、俺の胸に鋭い爪を浅く食い込ませている本人を見上げる。
狼だ。
比喩でも、ましてや嘘でもない。目の前にいるこの獣人は紛れもなく狼である。無垢な命でも容赦なく奪う、強く気高く残酷な、正真正銘の狼になりきっていた。殺意と警戒に満ちた血走った目が、俺に嫌でもそのことを理解させた。
これはやばいぞ。俺の脳が五月蠅いぐらいの警鐘を鳴らし始めた。今すぐ逃げろ。そう頭が体に命じている。しかし相手は俺より大きい立派な狼だ。せいぜい身じろぎできればいいほうで、実際その通りだった。
「おっ、落ち着け!」
自分でもびっくりするぐらいの切羽詰まった声が出た。しかしそんなことを気にする余裕がないぐらい、俺は肉体的にも精神的にも追い詰められている。構わず抵抗を続けながらもなんとかコミュニケーションをとろうと声を張り上げる。
「俺は敵じゃない!」
必死に語り掛けるも、狼はゆっくりと口を開けるそぶりをし始めた。なにもされていないのにそれを見ただけで、呼吸困難になりそうなぐらいに喉が絞られていくような気がする。ここで怯めばそのうちになにかされるのは分かっている。しかし金縛りにあったように体が硬直している。
「あっ・・・・」
俺は大きく開けられた口を前に、ついに恐怖のあまり気絶した。
その直前、俺の頭に短い電子音が流れた気がした。