フロムイースト
ナントカの法則だの。誰それの定理だの。
世の中に溢れかえるクソが、教科書という形式でもって私の脳みそに揺さぶりをかける。
隣に座る友人−−シュルもあきれ顔で、コールスローの残りを薄っぺらなスプーンの縁に絡めて、退屈な時間ごとなめ取ってみせた。
「ウグ」
なに、とは言い返さない。とかく私は今、目の前にあるこの算数だか理科だかの問題をとっちめなくちゃならないのだ。
けれど、いざ取りつこうとすると、教科書は、正確に言えばそこに書かれたテキストは、集中というかぶせ網からいともたやすく逃げおおせる。
「ウグ。わからないなら『わからない』と素直に言った方がいいと思う」
もう机よりほかに顔を向けるまいと決意した私の視界の端に、シュルのシャープな首筋と、『へ』の字に曲がった唇が引っかかる。
頭皮ににじみ出る脂汗の感触を知る。
ありとあらゆるものをとっちめてきた私だから、シュルだってその例外ではない。クールぶった根暗なクラスメイトを大勢の前に引きずり出して、赤面させて喜んでいた在りし日のあの残酷な園児は確かに私だ。
でもシュル、今さら仕返ししようっての?
「ウグちゃん。ほら、誰も笑ったりしないから……ね? 」
正面から天使の声。可愛らしいムシェンの、小さい子供をあやすような優しい声。それが私の動悸を加速させる。思いやりは恥にとって、つまり傷に対する塩だ。わかってやっているのなら大した畜生だよ、ムシェン。
「甘やかすべきじゃないと思うよ、ムシェン」シュルは鎮痛に言う。「つるかめ算もわからないなんて……」同学年だよね、わたしたち、と。
私は勉強ができない。
そもそも読むことが嫌いだから。
でも、これは読書家シュルと出会うまでの勘違い。つまり去年までの私。
例えば、今の私なら雑誌を読むことくらいならたやすくできる。苦労しさえすれば小説だってわけないだろう。代々木公園を時計回りに、書を懐にして一日中グルグル回り続けるシュルに春じゅう付き合ったささやかな成果だ。
「自分が動くことで世界は初めて静止するんだよ」シュルは歩きながらそう説明した。あとで恥じつつ言い足したように引用であり、例えシュルの言葉でなかったとしても、それは私にとって真実だった。
座っていると世界が騒いでいけない。
自分が生来ひとつの場所で二秒とじっとしていられない理由がようやくわかった気がして、初めて自分でなく世界のほうが間違っていることもあると知った。
あのとき、やっとシュルを仲間とみなせるようになったのだ。
でも教科書となるとまだまるで駄目。
あれは右手にペンを持ちながら読む物であって、歩きながら読むことは原理に則してない。
教師の冷たい視線に晒されながら、周囲の読書姿勢の中央値となるよう、常にクラスメイトとせめぎ合わなきゃならない。それがルール、それが教科書読解の冷たい原理。
とても耐えられない。あんまりウンザリさせられたものだから、教科書を目にすると反射的に吐き気がこみ上げる。たとえそこが我が家に等しいケンタッキー・フライドチキン北青山店二階のフードスペースであったとしてもだ。
だからトイレに行くふりして逃げた。
悪いねふたりとも。やっぱり勉強なんてガラじゃない。
しつこく鳴り続ける携帯電話の電源を切り、夜の帳が降りてゆくなか、朝開かれた日曜日のバザールの残骸が影を濃くする国連大学の前を通り過ぎて、大通りを横切った。
そうしてそのまま坂を下りきって、何かを腹に入れる算段を立てつつ渋谷川を渡ったところで、私は久しぶりに暴力に遭遇した。
未だに取り壊されない東急東横線の高架を潜り、ちょうど今の季節では六時前でも薄暗く、ぽつぽつ設置された電燈も心もとないその道路で、私と同い年くらいの少年三人が小柄な一人を覆うようにして囲んでいた。
何か不穏な物事が行われていそうだったけれど、それを確認する労力を払うのは、ほかに用事がある人なら億劫な程度には一見して事態の全貌が明らかでなかった。加えて彼らは私と同じ小学生で、子供のやることというのは、裏にいる親の鬱陶しさも加味して、直接の迷惑がかかるまでは見過ごされがちだ。
その証拠に、腐ってもここは渋谷であるから何人もの大人がその不穏な集まりの横を通り過ぎただろうに、彼らはいまだに存在していた。
でも注意して観察すればわかる。例えば囲んでいるほうは小柄な一人を膝先だけで蹴っている。立ち止まって耳を澄ませればちゃんと罵倒が飛んでいる。
そして私はいま飛び切り暇で、おあつらえ向きにむしゃくしゃしている。
得物を探すのにはちょっと苦労した。
もういなくなっていやしないか不安に思いながら走って戻り、彼らの影を捕えた時はほっとしつつも気がせいて、そのまま駆けつけて手ごろな一人の横っ面をバットで振りぬくことになった。
「痛っ」と控えめに、恥ずかしさすら含んだようにそいつは呟く。うずくまったのを追撃するため、上段に構えたバットを後頭部に振りおろす。
怯んだような彼らの空気を逃さないよう、より混乱していると判断した左側ののっぽの顔をバットで突く。後ろに避けられる。「誰だよ」とのっぽは問うけれど、続けて肋骨と腹の境界に叩き込まれた一撃で音素が歪み、しゃっくりのように、意味不明な残りの音が吐き出された。
それから、最後の一人とまともにやりあうことにちょっと慄きながら振り向いて、そいつがとっくに逃げ出していたのを知った。
「殺される」とかなんとか、腐った女のように悲鳴を上げつつ逃げてゆく。カンに触るが追いかけるわけにはいかない。代わりにうずくまってグズグズべそをかくのっぽの頭頂にフルスイングをおみまいしておいた。
「教科書は盗るな……」
戦利品の財布をふたつポケットにねじ込んで、久々の運動に痛む手首の調子を気にしながら捨て置かれたバックを漁っていると、そう声をかけられた。
小柄な少年。完全に忘れていた。どうしたものかと思案して彼の顔を見る。そこで初めて彼が日本人でないことに気が付く。
「見逃してくれるなら渡すけど」嫌そうに財布が差し出される。堀の深い顔、太い眉。お世辞にも美形とは言えない。
外国人然とした少年から日本語が発せられるという独特の違和感に首を傾げながら、「くれるって言うなら貰うけど」と私は手を伸ばした。けれど財布はすんでのところで引っ込められる。
「やっぱりあげたくない」私がバットを持ち上げたのを見て少年が付け加えた。「助けて貰った、お礼がしたい」
そういえば、晩飯の算段がついていなかった。
そして蕎麦をたぐることになった。
もちろん私はもっと高級なものを要求したけれど、生憎彼の財布には千円ぽっちしか入っていなかった。彼は我慢すると言ったが、席を一緒する相手に飯がないというのは相当にすわりが悪い。かといって私も一緒に払うというのは本末転倒。
結果、私は鼻を鳴らして妥協した。
「外人でしょあんたって」彼が慣れた手つきで割り箸を割り、器用にわかめ蕎麦をすすっているのを見て、思わず声が出る。
「本当に日本人なのか君は」対して、彼はおぞましそうに私の丼に目を向ける。おかしなヤツだ、コロッケを乗せた蕎麦の何が悪い。蕎麦は日本のもので、コロッケは日本のもの。それにこいつはこの蕎麦屋の正式なメニューだ。
蕎麦は出されたらサッサと流し込むもの、と早々と食い終えた私は、今回の戦利品を整理する。具体的には携帯ゲーム機のデータを消去して、スマートフォンのSIMカードを抜く。
「いつもこんなことをやってるのか」
「いつもじゃないよ、できそうな時だけ。……ねえこれってそんなに価値あるの? 」
少年が驚くべき身の速さで私が掲げた教科書を奪おうとする。すんでのところで背の後ろにそれを隠して、フフンと笑った。
「いつ盗った。返せよ」
「だってあんたトロいんだもん。……やだよ、面白そうだもの」
私はその教科書を膝上で開いた。ここで騒ぐべきでないと判断したのか、少年は恨みがましそうにこちらを睨み、腰を据えて蕎麦をすすることに専念する。
しばらく目を通して、あまりの退屈さにあくび交じりにテーブルに抛った。何か面白い落書きでもあるのかと期待したのに、それは私が知っているよりずっと教科書だった。
「ねえ、読んでて嫌にならないのこれ」
「なるよ」彼は蕎麦を掻き込む合間に言った。「でもやらなくちゃ」
「誰かにせっつかれるから? 」ふと思う。私は同類を見つけようと躍起になってるのだ。そしてもちろん、そんなものはどこにもいない。
「まあ、自分にね」丼を置いて、教科書を大切そうに鞄にしまい込む「済ませないとたぶん生き延びられないんだ。でも嫌なもので、やればやるほど自分の才能の無さをまざまざと思い知らされる。自分の価値を否定される。
うんざりして、気持ち悪くなって、でもわかりきってることは、やらないままにするともっと酷い羽目に逢うということなんだ」
「逃げればいいのに」私は思わず言ってしまった。彼は驚いて、それからほほ笑んだ。それでようやく、言わなければ良かったと後悔した。
どうも私は彼に負けたらしい。
それでも、傷に塩を塗り込むことになっても、言わずにはおれなかった。
「なんで笑うの……」
「単にうらやましいんだ。君は健康で、綺麗で裕福なんだなと」
「名前、なんて言うの」
店を出る。急に張りついた寒さに顔の皮をこわばらせながら問いかける。これまた久々に自分を負かした相手だ、名前くらい知っておきたい。
「オーニツ。Ornizでオーニツ。君は? 」
「ウグ」漢字は難しいから説明しづらいけど、と少し考えてから、「ライオンって意味の名前」
ちょっとした沈黙が降りる。何か言うべきことがあるような、ないような。今すぐには思いつきそうにない。そういうときには、こう言って別れるに限る。
「またねオーニツ」
「じゃあなウグ」
君みたいな野蛮人にはもう会いたくない……。そんなボヤきが聞こえたけれど、脇に抱えたバットを見せて笑いかければ、自分の運命を受け入れて肩をすくめた。
そう、私は自分を負かした人間に対しては存外にしつこいのだ。
足を元いたケンタッキーに向けながら、時間を見るために携帯電話の電源を入れると、丁度電話が掛かってきた。シュルからだと気づいて、迷うことなく通話ボタンを押す。
歩みながら話す。「悪かったって思ってるよ」思ってもいないことを言いながら、シュルのネチネチとした嫌みをできるだけサラサラにしようと努める。
「いや逃げるよ? 」けれど、もう逃げないかと訊かれて私ははっきりとそう答えた。
人が増えてゆく。この時間、仕事が終わり、大人たちが駅を目指して混雑を作る。私はそれに逆らって歩かなくちゃならない。
寒風が吹き、唇が割れる。次第に足を運ぶ地面が少なくなり、大人たちの歩みは遠慮がなくなる。誰かに足を踏まれ、踵を引っかけられる。
でも私は押し返されやしない、絶対にそうはならないのだ。
なんで、とシュルは問うた。私はそれに答えた。
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