天国に唾を吐く
ひどい血の匂いがする。
そう思って、シアンは軽く眉を寄せた。
「……ぅ、あー」
年頃の少女らしく日頃から手入れを欠かさない鮮やかな金髪が、血と泥でぐちゃぐちゃになっている。紺碧の瞳がどろりと濁り、虚ろに虚空を見上げた。
喉の奥から絞り出すように呻いてみたら、切れた喉からごぷりと血の塊がせり上がってきた。耐えることもせず吐き出すと、また血の匂いが強くなる。
感じるものは、痛み、熱、痛み、痛み、渇き、痛み、熱。背中に生えた翼の白も、今は汚れて見る影もない。
人形じみた繊細な面差しで仰向けになって視線をやれば、黒雲に覆われた真っ暗な空には鳥一匹飛んでいなかった。少し前まで戦闘の気配に怯えて近付こうとしなかった動物たちは、今は辺りに充ち満ちた死の気配にでも怯えているのか、やっぱり影も形もなくて。
体を支える硬い大地の感触はお世辞にも寝心地がいいとは言えず、しかし体を起こす力なんかちっとも残ってはいなかったので、シアンはそのまま地面に手足を投げ出して寝転がり続けた。
――血の匂いが鼻を突く。
「……あー。しんど」
全く、こんなもの「清らかな」天使の陥る状況じゃない。
今度は言葉にして出して呟いてみるとそれに連動して体中の傷が痛んで、それを察したように隣で同じように寝転ぶ少年――フリュクが笑った気配がした。
「名誉の負傷、だろー」
同い年の同僚であるフリュクの声はひどく掠れている。多分、喉笛を潰されかけたせいだろう。
右足は変な方向にひん曲がっているし、左腕なんか粉々だ。そこそこ長かった蒼穹色の髪は途中で見事にぶった切られて、ざんばらの切り口を晒している。
自分と同じくらい満身創痍の無様な格好を横目で眺めて、シアンは鼻で笑ってやった。
「は、くっだらない。誰に対する名誉なわけ? それって一体、誰のための名誉よ?」
「そりゃーもう、俺たちの誇る大天空神閣下のためのデスよー」
端正な顔を皮肉に歪めて、フリュクもけらけらと哂った。愉快そうな、けれど明確に嘲笑を含んだ笑いは、全身血まみれの凄惨な姿によく似合う。神やその使いを崇める人間たちが今の彼らを見たならば、信仰を床に叩き付けるかも知れないと思った。
「つか、俺らをここに寄越したんって大神じゃん。責任の行き場っつったらソコしかないと思うんだけど?」
「だから大神閣下に誇れって? あはははは、毛ほどの役にも立たない名誉だわ」
シアンもまた心底可笑しそうに嗤った。笑い過ぎて折れた肋骨が痛む。まさかこれ、肺に突き刺さってないだろうな。
フリュクが「あー」と呻き声を上げた。
「くそ、マジいってぇ。俺ら、なぁんでこんなとこで死にそーになってんだろーなー」
「大神閣下があたしたちをここによこしたからでしょー」
敵対する魔族の手引きで大量に集結しつつあった魔獣たちを、たった二人で狩り尽くせとの命をくっつけて。本気でやれると思っていたのか、シアンにだって分からないが。
「これであたしたちが死んだら殉死ってことで盛大な式典開いて追悼すんのよ。吐き気がするわ」
「殉死ってさー、命に殉じて死ぬって意味なんだよなぁ。最高に忠義を尽くした部下ってことで永劫記録が残るんだぜ。マジ信じらんねー」
「んで、大神閣下は死ぬことも厭わないほど敬愛された統率者ってわけね。一体何様のつもりかしら、そもそも拒否権なんて与えてくれなかった癖に」
「大神様だろ」
「面白くないわよ、それ」
声を重ねて笑声を上げる。ごふ、と血を吐き出して、シアンは己の腹を撫でた。
「……やっぱ内臓ヤられてると回復遅いわね。ヒールのかかりが悪いわ」
「どんくらいやられてたんだ?」
「多すぎて確認し切れない。フリュクは?」
「どーだろ、とりあえず胃は破裂してんじゃね? 胃液洩れてる感ばりばりだし」
「そりゃお気の毒、胃穿孔の気持ちが分かる貴重な経験ね。つーか戦闘終わっても医療班の一人も来ないなんて、くそったれ課長は何やってんのかしら? どうでもいいことはトイレットペーパーの残量まで把握してる癖に、こういうことはサボるのね。死ねばいいのに」
「同感。でもって帰って文句言ったら『僕は部下を信じてたんだよ☆』とか爽やかな笑顔で言うんだぜ。うあムカつく、今度闇討ちしてやろーか」
「あたしも誘いなさいよ。ついでに大神ンとこに爆弾でも送っとこうか」
「おー、いんじゃね? 魔族の過激派装って、飛び切りえげつないの送り付けてやりたい。引き籠もりッぱで腐りかけてる脳味噌じゃ、んなことしなくても誰がやったか分かんねーかもしんねーけどな」
「半腐乱の最高統率者とか嫌だなあ。あれで当人一応立派に勤めてるつもりなんでしょ?」
「でなきゃとっとと代替わりでもなんでもしてるっつの。俺らの生殺与奪権当たり前みたいに握りやがって、これだからカミサマってほんっと嫌い」
「神様ってのは崇める方にも選ぶ権利あるのにねぇ」
よいしょ、と右手を持ち上げて、シアンは軽く握って開いてを繰り返す。砕かれ断たれた骨と神経はどうやら一応繋がったようだ。二の腕から縦にぶった斬られて骨が見えている左手は、さすがにまだのようだけど。
「まーなぁ」
フリュクもごろりと寝返りを打つ。顔を顰めながらとんとん胸を叩いて、盛大にずれた骨の位置を直した。
ついでに半ば折れていた一本を、上から叩いて完全に折る。形容しがたい激痛に呼吸が止まったが、無視できないほどでもない。ああ、やっぱりこっちの方が治りが早い。
「とにかく確かなこととしては」
フリュクの言葉に、二人は顔を見合せて唇を歪める。同時に口を開いて、台詞を続けた。
『――あんなカミサマ、死んでも選ばねェ』
完璧にハモッた後で、二人はくつくつ、けたけたと嘲笑った。
「やさぐれてんなー」
「今更でしょー」
鼻を突くのは立ち込める血の匂い、舌を刺すのは鉄錆に似た鮮血の味、目に映るのは濁った血の色。全身に、まるでねばねばした泥濘みたいに死の気配が纏わりつく。
「早く帰んないとねぇ」
神を気取った死に損ないが支配する、あの腐れた天国に。
「報告書とか、クソ面倒臭ぇけどな」
潰すだけならいつでもできるし。
二人の天使は息を吐き、また空を見上げた。
夜明けはまだ、遠い。
・シアン
紺碧の目に金髪の少女。外見年齢十代半ば、実年齢云百歳。
大天空神の支配する天国の、下界の調整役的な組織に勤務する天使。ほぼ強制で戦闘専門の課に所属させられており、見た目はお人形だが腕っ節はやたらと強い。
当代の大神になってから魔族との争いが激化したので、魔族よりも大神の方に殺意が湧いている。大神早く死ね死ねと思っているが、出来ればその前に大神の鼻に退職届を捻じ込んでやりたい。
・フリュク
蒼穹色の髪と目の少年。外見年齢十代半ば、実年齢云百歳。
シアンの同僚天使。シアンと組むことが多い。見た目は線の細い美形だが、シアンより強くて柄が悪い。こっそりシアンに片思い中。
度重なる魔族との争いのせいで天国が疲弊していることが分かっているため、いつか反抗勢力取り纏めて組織に反逆を起こしたい。大神ブッ殺すと思っている。
・課長
シアンたちの直属上司。のんべんだらりとしたサボリ魔だが、時々醸し出す黒幕臭が凄い。大神へ敬意を払っている姿を見たことがないのに、何故か上層部から突っ込まれたことがない訳の分からん青年天使。