疑惑②
防衛省に程近い喫茶店。漆黒の軍服姿の三人の前にそれぞれホットコーヒー。神吉暦はブラック、啄木鳥司狼はミルクを入れ、飯豊マリアはミルクに砂糖を1杯、2杯、3杯…。次々に投入される砂糖にもはやコーヒーの痕跡はなく白い砂糖水状態。
「マリアが殺されたら犯人きっと砂糖のように甘い奴だろうな。死因は糖尿病。凶器は砂糖だ」
「砂糖で人を殺すなら袋に詰めて殴った方が早いだろう」
「いやいや、そうじゃなくて…」
「それに、たとえどれだけ甘やかされようと私は私自身に厳しい。糖尿病になる事などあり得ない」
「言動不一致も甚だしいな。砂糖の入れ過ぎだって話だろ?」
「仕方ないだろ。こうしないと飲めないんだ」
「じゃあ、何でコーヒー頼んだんだよ」
「それよりも、話の続きをしましょう、大佐」
「ん?糖尿病の恐ろしさについてだったかな?」
「いえ、それは…」
マリアは言い淀んで肩を落とす。神吉は軽く忠告だけに止めて話し始めた。
「アラネアについて現在分かっている事を話しておこうと思う」
「それは、盗聴を警戒するような内容なんですか?」
怪訝そうに尋ねるマリア。神吉は神妙に首を振る。
「分からない。念のためだ。少なくとも狭い部屋で立ったまま話すような事ではない。良いか?司狼」
「ああ、どうぞ」
「死因は頚部圧迫による窒息。吉川線なし。索状痕、死斑、共に異常なし。ただ、定型的縊死であるにも関わらず顔面にうっ血が見られる事、使用された索状物が蜘蛛の糸と言う特殊な物であった事により、他殺、自殺の判断は不明」
「悪い、親父。つまりどう言う事?」
「うむ。アラネアは首吊り自殺をした人間の模範的死体だった。ただ索状物、つまり首を吊るために用いた物が能力によって形成された糸だったために判断が下し難い。それに通常は頚部大動脈を絞められると血液が頭に回らなくなるため顔が蒼白になるんだ。しかし彼女は赤く浮腫んでいた」
「全くの原因不明、ですか?」
「いや、1つ可能性がある。アラネアは死ぬ直前に蜘蛛に噛まれているようだ。首の後ろ、うなじの辺りを。毒物検査の結果トリカブトに似た成分である事が分かった」
「えーと。ではアラネアは神経性の毒を自分に注射してから糸を形成して首を吊ったんですか?」
「そう言う事だ」
「それは……う~ん」
マリアは困惑した顔でコーヒーを飲む。
「異常じゃないってだけで正常でもない」
司狼が気持ちが悪そうに眉根を寄せて呟く。
「俺はこの結果を聞いた時、ギリシア神話の変身物語を思い出した。アラクネと言う女性は神をも畏れぬ自信家でアテナに織物の勝負を挑む。しかし彼女の織ったタペストリーはアテナが認めるほどの素晴らしい出来であったにも拘らず神々の不義を描いたため、アテナはタペストリーを破り頭を打ち、更に自己嫌悪で首を吊って自殺したアラクネにトリカブトの汁を撒いて蜘蛛に転生させるんだ」
「なるほど。犯人はマリアか」
「笑えない。私はアラネアと喧嘩した事も打った事も無い。それに彼女の能力はアトラク=ナクアだろ」
「アラネアのネタ元はアラクネだ。言語が違うだけでほぼ同じ意味の言葉だ。能力の名前を邪神にした事は少し後悔している」
全く反省した様子もなく言う神吉に2人は同時にため息をついた。
「じゃあ犯人は親父だ」
「黙れ、迷探偵」
マリアに一喝された司狼は肩を竦める。
「確かに状況は似ていなくもないですが、だからと言って状況が変わる訳ではありません」
「そう、その通り。しかし俺はこう思うんだ。これは彼女のダイイングメッセージではないかと。普通に死んでいれば我々はこれほど悩まされる事はなかっただろう。科学的に自殺の線は揺るぎない。なのに能力を介入させたせいで自然ではなくなってしまったんだ。まるでこれから私は怪物になりますとでも言っているかのようではないか?」
ニヤリと笑う神吉にマリアは混迷を極め、司狼は苦痛に耐えるように顔を歪めた。
「どう言う事ですか?結局はアラネアは自殺だったと?」
「そうだ。他殺はあり得ない。アラネアが自殺した場所は我々の家だ。そこに何者かが侵入し、自殺に見せかけて人を殺すことなど不可能だ」
「もう止めようぜ。他殺だろうが自殺だろうがアラネアを守れなかったって事実は変わらないんだから」
「司狼?」
らしくない突き放すような言葉にマリアは瞠目する。
「やはり気が付いていたんだな。司狼」
「別に。ただ、アメリカで蜘蛛の化け物の能力を考えていた時に思いついたんだ。それでその思いつきが正しかったとしたらって考えたら、何もかも腑に落ちたって言うか、説明できる気がしたんだ」
「司狼、もっと分かり易く言ってくれ」
「えーと」
司狼は不機嫌そうに腕組みして言う。
「俺たちの能力はイメージが大切だ。それがきちんと出来ないと現象としてエーテルを影響させられない。だからアラネアの部屋で首に巻き付いた蜘蛛の糸と首に噛みついたまま死んでる蜘蛛を見つけた時に違和感を覚えたんだ。それで化け蜘蛛の能力が糸を使って何かを創る事じゃないかって気がついた時にピンと来たんだ。全部、茶番だったんじゃないかって…」
目を伏せる司狼の肩に手を置いてマリアは気遣わしげな視線を向ける。
「ミスなのか、意図的にそうしたのか。首を吊って意識を失った後で能力で生み出した蜘蛛に自分を噛ませる事も神経性の毒に侵されて激痛に苛まれながら糸を生み出して首を吊る事も不可能だ。これが可能なのは自分の分身を能力で創りだして自殺に見せかけた場合だ。つまり、あそこで死んでいたのは本物そっくりの操り人形だった可能性が最も高い」
「どうしてそんな事を?と言うより新宿に現れたあれはアラネアではなかったんですか?」
「俺はあれも彼女が創り出した物だと思っている」
「アラネアはアカシアの果実が発芽した訳じゃなかった。でも俺たちから自分の死を偽ってまで逃げ出し、怪物を創って人を襲った…可能性がある。だろ?親父」
「そうだ。あくまで可能性が高いと言うだけだ。証拠はない」
「じゃあ、何で俺たちに話したんだ?親父が一番嫌いな不確定な事だろ?」
司狼とマリアは真剣な視線を神吉に向ける。彼は右目を覆う眼帯にそっと触れてから口を開いた。
「アラネアは我々の敵のスパイであった可能性がある。証拠も根拠も何もない。この情報によっていらぬ混乱を招く恐れもある。しかしだからと言って話さないままでいる事で君たちに危険が及ぶ可能性を看過できなかった」
「ハッ。俺なりに理由を考えてたけど、まさか敵のスパイだったとはね。能力者撲滅を目指す俺たちの中で弱虫の振りして力を使わないようにしてたんなら、さぞストレス溜まってただろうな」
怒りか悲しみか、イライラと歯を食いしばって司狼は言う。今にも爆発しかねないほどの力が彼を中心に渦巻いている。マリアと神吉は冷静に話を続ける。
「彼女の素姓は調べたんですよね?」
「もちろん。3年前にニューヨークで試験的に実施した一斉検査で発見され保護された時は全く彼女を信用していなかった。敵だと思って念入り調べた。学歴、友人関係、家族構成、近所の評判。だが、不審な点は何も無かった」
「なら、余計分かりません。アラネアはとても人を殺せるような娘じゃなかった。彼女は本当に推進派のスパイだったんでしょうか?」
「分からない。この話はあくまで可能性があると言うだけだ。俺個人としては引っ込み思案で弱虫で気弱で虫も殺せないアラネアの性格が演技だったとは思えないがね」
「酷い評価ですね。アラネアの事、嫌いだったんですか?」
「まさか。俺は人に対して好きだとか嫌いだとか考えた事はないよ。その思考は自分に対して不利益しかもたらさない。ただ、万が一アラネアの姿を見たとしても仲間だとは思わないように。良いな?司狼」
「関係ない。アカシアの果実の種を世界中の人間に植え付けようなんて考える推進派を支持する敵は殺すだけだ」
「頼もしい言葉だ。しかし誰を殺し、誰を生かすかは君が、いや君たちが決める事だ。司狼、マリア、俺はいつでも君たちの味方だ。何かあれば必ず相談してくれ。微力だが誠心誠意、力になるから」
「はい」
神吉は揃って頷く2人に微笑みかけて席を立つ。
「では、俺はアラーニェの待つ穴倉に帰る。2人ともヒトナナマルマル時からの哨戒任務、頼んだぞ」
司狼とマリアは立ち上がり敬礼して見送る。神吉は苦笑して司狼の肩をぽんっと叩いて去って行った。
「はあぁ~。まさかまさかの超展開だ。頭痛い」
一気に脱力して司狼は頭を抱える。
「大丈夫か?司狼」
「あ?」
「アラネアを本当に殺せるのか?」
無表情にマリアは尋ねる。感情を殺してあえて聞く。司狼は苦渋の表情を浮かべて俯いた。
「親父にはああ言ったけど、正直分かんね。アラネアが恋人ごっこだったかもってだけでもキツイのに、まさかスパイで敵になって殺し合うかもしれないなんて…。殺せるかどうかで言えば出来る。人間の命が平等に軽い事を俺は知っている。けど…ああやっぱり駄目だ。実際にそうなってみないと何とも言えない」
「判断は司狼に任せる。私たちは一蓮托生の相棒だ。もし、司狼が殺したくても出来なかったら私が代わりにアラネアを…」
「駄目だ!それは、違う。俺の決断を、俺の責任を奪わないでくれ、マリア」
「…済まない」
司狼の厳しい言葉にマリアは項垂れる。
「ま、まあ、俺がヘタレたら手を貸してくれよ。相棒!」
「…うん」
「ああ、俺も殺した相手が珍しいからって理由で身体の一部を取って置くくらい強い心臓が欲しい」
マリアを気遣って努めて明るく振る舞う司狼だったが、
「それは父さんがゲイザーの肉片をホルマリン漬けにして保存している事を言っているのか?さすがにそれはちょっと…」
台詞の選択を間違えて割と本気で引かれた。
「冗談だ…よ?」
「そう…だよな。うん」
微妙な空気が漂う。司狼はふと疑問に思う。この冗談が通じないと言う事は果たして自分は普段マリアからどんな風に見られているのだろうか、と。
「まあ良いや。じゃ、俺これから寄る所あるから」
司狼はコーヒーを一息で飲み干して別れを告げる。
「寄る所って?」
マリアは怪訝な顔をして聞く。司狼はニヤリと笑った。
「世界一大きい卵を見学に」
防衛省技術研究本部の廊下。きょろきょろと部屋を覗き込んではふらふら歩く司狼。それを迷惑そうにしながらも無視を決め込む文官たち。結局すべての研究室を回っても見つからず格納庫まで足を延ばしてようやく目的の人物がいた。
「如月さん」
声をかけて手を振る。振り返った白衣の女性が眠たげな目を司狼に向けた。
「やあ、6号」
「どうも。探しましたよ」
「何故?」
「卵を見せて貰おうと思って技本に行ったのにいなかったから」
「誰かに聞けば良いだろう。日本語話せるんだから」
「まあ、そうですけど…。ここの人たちは、何て言うか俺たちと話したがらないから…」
「神吉暦の最高傑作と名高いブルージーンシリーズのミュータントがただの人間を恐れるのか?」
小馬鹿にしたように嗤って彼女は言う。
「どう言う意味ですか?」
その態度にカチンときた司狼は眉根を寄せる。
「どうもこうもない。恐怖とは未知に対する反応だ。ここの連中はお前たちが何をしでかすか分からないから恐れて遠ざけている。お前はそいつらの感情に漠然とした恐怖を感じている。とても人間的な行動だと思うが、知的生命体ならばせめて勇気を見せて貰った方が好感が持てるね」
「はあ。何か、済みません」
彼女の言っている事が良く分からなかった司狼は取り敢えず恐縮して謝った。
「…ポンコツめ」
「良いんですよ、俺は。如月春告女史とお話しできるだけで」
「駄目だな。それじゃ。閉じてしまう。沢山の人と話さないと思考の幅が広がらない。自分にない物を吸収する為には他人とコミュニケーションしなければ」
「如月さんと話してると時々大佐と話してるように気がします」
「それは光栄だな。あの怪物と並称されるとは。私が過大評価されているのか、あの人が過小評価されているのか」
「俺にとってはどっちも怪物ですから。それよりも、あれ触ってみても良いですか?」
格納庫の片隅。装甲車やトラック等とならんで安置されている巨大な白い物体。現代科学手は太刀打ちできず仕方なくロープで固定され迷彩柄の軍装に身を包み自動小銃で武装した8名からなる分隊に見張られている。
「構わんだろう。あれは誰の物でもない。私にもどうこう出来る権限はない。まあ、お前にやる事に文句が言える奴がここにいるとも思えんが」
「じゃあ、失礼して」
司狼はゆっくりと歩いて近づいて行く。自衛官らは彼の行動にざわつき小銃に手を伸ばした。
「おい!止まれ!」
分隊長らしき男が一歩前に出て制止を促す。
「あ?何だって」
不機嫌そうに喧嘩腰で司狼は応じる。歩みを止めず歩き続ける司狼の態度に彼はとうとう小銃の銃口を向けた。
「止まれと言っている!」
「へえ。良いぜ。撃てよ。その代わり自分も撃たれる覚悟くらい出来てるんだろうな?」
睨み合い一触即発の空気が漂う。しかし後ろから近づいてきた春告に司狼は後頭部を叩かれ、腕を捻り上げられたため大事には至らなかった。
「痛い痛い痛い」
「馬鹿か貴様は。まともに交渉すら出来んとは見下げた人間だな。お前の頭は飾りか!?」
罵倒しながら膕を踏みつけ膝を折らせ首を絞める。
「貴官も味方に銃口を向けるとは何事だ。こいつはこれでもこの国の人間を命懸けで守った戦士だぞ。銃を向けるべき相手を間違えているのではないか?」
「しかし…」
「それにこいつに銃を向けると言う事は、あの神吉暦に銃を向ける事と同義だぞ。理解しているか?」
神吉の名前が出た途端、今までとは比較にならないほど動揺した彼はそれを隠すように踵を返した。
警備に戻るよう隊に命令を出す声が震えている。
「さすが大佐。その恐ろしさは万国共通か…」
「まったく。手間のかかる」
「済みません」
手を話してもらった司狼は改めて白い物体に近づき触れる。
「硬い。ざらざらしてる。やっぱり感触としてはあの時の矢のような鉄筋が近いか。でもこんなに殻を頑丈にして孵化の時どうするんだろう」
「何か感じるか?」
「膨大なエーテルとマナ。でも暗号化されているのか、プロトコルが俺と違うのか詳しく読み取れない」
「そうか。これを詳細に調べて仕組みを解明できれば科学技術を飛躍的に進歩させることも可能だろうに…」
「欲張ったら駄目ですよ、如月さん。俺なんかが言わなくても分かってると思いますけど、自分の手の届く範囲を逸脱すれば待っているのは破滅だ」
「神吉大佐の受け売りか?」
「Yes!」
照れくさそうに司狼は笑った。
「それより如月さんは良くここに来るんですか?」
「ああ。気になってな」
「大佐を見かけた事は?」
「ある。これが運び込まれてからは1日に一回は会って話しているな」
「そう。じゃあ、何かあったら大佐の傍を離れないようにして下さい」
「何故だ?」
「現状これに対抗できる力を確実に持っているのが大佐だからです」
「なるほど。理由は分からんが、一応肝に銘じておこう」
気のない返事ではあったが司狼は満足して卵に向きあった。
「じゃちょっと後ろに下がってください」
怪訝な顔をしながらも春告は言うとおりに数歩後退する。それを見届けた司狼は大型の軍用ナイフを形成して逆手に持ち白い物体に思いっきり突き立てた。ガチンッと硬質な音が響く。司狼の唐突な行動に自衛官たちがどよめいた。司狼は周囲の事など気にも留めずにガリガリとナイフで引っ掻く。その刃が通った後には表面に傷が入っていた。重機ですらビクともしなかったとは思えない程くっきりと。
「何だ。存外柔らかいな」
ニヤリと司狼は笑う。瞬間、ぞわりと白い物体の表面が蠕動して傷が跡形もなく消えた。
「おう、引き籠り野郎。ちゃんと生きてるか?俺の存在を感じるか?ああ!?」
蹴り飛ばし再びナイフを突き立てると先端がめり込んで亀裂が入る。頭突きをして尚も叫ぶ。
「良く聞け!俺の名前は啄木鳥司狼だ!憶えろ!魂に刻め!目覚めたら真っ先に俺を殺しに来い!ヘタレ野郎!」
「止めろ、バカ」
春告に襟首を掴まれ司狼は引き剥がされる。
「あと何だっけ。日本語で罵倒ってあんまりした事ないんだよ」
「知らんでもいい言葉だ。それよりも何でこんな事をした?」
「安全策だよ。これだけ挑発すればここで暴れるよりも俺の所に来るだろう?あいつ相当怒ってるぜ。はっきりと奴のアストラルを感じる。まあ、問題はどこで戦えば被害を少なく出来るか、だな」
司狼はオオカミが牙を剥く様に口角を吊りあげて笑った。