疑惑①
とんとんとん。規則正しいノックの音。防衛省庁舎の片隅。国連平和維持軍からも自衛隊からも疫病神扱いされた嫌われ者に仕方なく宛がわれた一室。当然の様に周囲に人気はない。
「…どうぞ」
「失礼します」
室内からの声に啄木鳥司狼は入室する。窓のない狭い部屋だった。主である神吉暦よりもデスクの方が存在感がある。
「おかえり。どうだった?1週間の休暇は?」
「ただいま。休暇がどうだったかって?楽しかったよ。桂に診察してもらった後はずっと宙と訓練してたけど得るものはあったし。りんごは癇癪を起さなかったし」
「そうか。良かったな」
「…俺は時々、親父が人の話を聞いてないんじゃないかと思う」
笑顔で頷く神吉に司狼は渋面を作る。
「なぜだ?滅多に会えない家族にあって来たんだ。楽しかっただろう?」
「いやいや、そう言う事じゃなくて。俺はニューヨークに休暇とって療養しにいったんだろ。大丈夫だって言うのに桂に診てもらえって言うから。ぐうたらのんびり遊んで過ごせると思ってたのに、何で普段以上に規則正しく訓練漬けの毎日を過ごさなくちゃいけないんだ」
「向こうに居るメンバを考えれば事前に察しがつくだろう。桂はアポロンの能力に相応しく残忍ではあるが理知的に育ったし、りんごはヘラの能力の影響か宙の事になると我を忘れるが普段は貞淑なレディだ。宙に至ってはゼウスらしく正義感が強く慈悲深い女性恐怖症さえなければ完璧な男だ」
「OK…分かった。俺の考えが甘かった事は認めるよ。本題に入ろう」
「そうだな。話の続きは家に帰ってからにしようか」
苦虫を噛み潰したような顔をする司狼を傍目に神吉はデスクに指で触れる。天板に埋め込まれた端末の画面が切り替わりカジュアルレストランで撮られた家族写真の壁紙を背景にアイコンがいくつか表示された。
その1つをダブルタップ。展開されたものの中から1つを選んでフリック。と、部屋の壁に埋め込まれた大型のディスプレイいっぱいに画像が表示された。
「…何だ?これ」
「何だと思う?」
司狼は腕組みしてその画像を見入る。
「…卵…にしては丸いか?つーかでかいな」
それだけなら何の変哲もないトラックに乗せられた直径3メートルを超える白くて丸い物の画像。
「タイヤが結構、潰れてる。重いんだな。で、答えは?」
「分からない」
「ええ~」
「君がアトラク=ナクアと戦っていた地点から1キロ程離れた場所で発見された。引き摺った跡があった事、周囲に蜘蛛の死体が複数見つかった事から奴らにとって重要なものである可能性が高い」
「俺と戦ってる最中にこんなもん作ってやがったのか…」
「技術研究本部に運び込んで一通りの非破壊検査をしてもらったが放射線も超音波もサーモグラフィも上手くいかなかった。お手上げだ」
「じゃあもう壊そうぜ。化け蜘蛛の卵かもしれないだろう。このまま放っておいて孵ったら小さな蜘蛛がワラワラ出てくるかもしれないじゃないか。ああ~想像したら何か痒くなってきた」
顔を引き攣らせて司狼は落ち着きなくうなじや腕を摩る。
「残念だが、それも無理だ」
「どうして?訳分かんないなら壊した方が良いだろ」
「壊せないんだ。掘削機を使っても傷一つ付けられなかった。恐らく通常の技術では歯が立たない」
「要は俺なら壊せるんだろ?やろうか?」
「いや、まだその必要はない」
「え?」
一瞬お互いの真意を探るように視線が交錯する。隻眼の偉丈夫の視線に気圧されるように司狼が先に目を逸らした。
「…俺は時々親父が怖くなるよ。また人が死ぬかもしれないのに」
「不服か?」
「別に…。ただ、俺は、俺たちはまだそんなに頼りないか?」
「そうだな。これは君たちと言うより俺の問題だ。最近、自分自身の甘さに辟易している。これから強大な敵と戦わなければならない君たちを信頼する気持ちと同じ位、心配でならない。どんな対策を練っても、まるで足らない」
「まあ、親なんて皆そんなんじゃないのか?大丈夫だって」
司狼は明るく気楽に言うが神吉は苦しげに頭を振る。
「いや、うん……そうだな。この話は止そう。本題に戻るが君はアトラク=ナクアの能力を何だと思う?実際に戦った者としての意見を聞かせてくれ」
「そう、だな。何て言うか創作性に富んだ能力だと思う。ほら、蜘蛛の糸って同じ太さの鋼鉄を超える強度とナイロンを上回る伸縮性があるって言うだろ?あいつはそれだけじゃなくて糸に光学迷彩を施したり弓矢を作ったりしてた。それにこの卵みたいな奴もあいつが作ったものなら多分、糸を使えば何でも再現できるんじゃないかな?」
「何でもとは、たとえば?」
「たとえば、人間のような複雑な生物も作れるかもしれない」
「うむ。では、この世界に存在しない物はどうだろうか?」
「それは無理なんじゃない?俺だって実際に見たり触ったりして構造を把握しないと現象としてはともかく形成できなかった。あいつが俺たちと同じ原理の能力なら、作る物が複雑であればあるほど人からどれだけ細かく説明されても再現できないと思う」
「なるほど。本人の知識が能力のレベルとイコールである所は同じか」
神妙に呟く神吉に司狼は怪訝な顔を向ける。
「どうして今更そんな事を聞くんだ?あいつは死んだんだろ?」
「俺は死んでいないと思っている」
「何故?グラディウスの爆発に巻き込まれて無事の筈は…」
「理由はある。1つ、死体が発見されなかった。2つ、アトラク=ナクアが形成した物体からマナの波動が感じられる。そして、これだ」
ディスプレイに表示される民家の画像。夜の住宅地の風景。そして屋根の上に蜘蛛。輪郭は闇に紛れて茫洋としているが大きな真紅の目が撮影者をじっと見つめている。日本のどこにでもある有り触れた日常に侵食する非日常の権化。
「冗談きつい…」
「まだある」
画像が切り替わる。ネオンの光が氾濫する夜の歓楽街。星のない空に大きな影。若干ブレているが跳躍する蜘蛛の姿。
「都内で目撃情報が多数寄せられている。携帯で撮影された写真ばかりだが申し分ない」
「被害は?」
「ない」
「無い?本当に?」
「少なくとも巨大な蜘蛛に襲われた、あるいは糸で簀巻きにされた死体が発見されたと言う情報はない」
「じゃあ、こいつらは何をしてるんだ?」
「分からない。何らかの目的があるように見えるが…」
「…親父、実はある程度見当ついてんだろ?」
ニヤリと司狼は笑う。
「推理でドヤ顔できるのは小説の中の探偵だけだ、司狼。我々は証拠を積み重ね、真実ではなく事実を見極めなければならない」
「あー。つまり?」
「分からない事は本人に直接聞く。それが一番誤解を生まずに済むし、何より手っ取り早い」
「蜘蛛に?」
「蜘蛛に」
司狼の正気を疑うような視線に神吉はただ頷いた。
「世田谷区での目撃情報が比較的多い。今晩、張り込んで捕まえて来てほしい。一匹で良い。アメリカでの訓練の成果を見せてくれ」
「ひっろ!区単位!楽しそうに無茶ぶりしやがって…」
「返事は?」
「いやー。蜘蛛と取っ組み合いはちょっと…」
「司狼」
「…了解…しました…」
血を吐く思いで敬礼する司狼だった。
「よし。マリアと二人で行動するように」
「はい」
「大佐!」
突然、声を張り上げて部屋に入ってきたマリアに視線が集まる。怒り心頭に発する彼女の手にはピンクマウスの入った容器。司狼と視線があってマリアの気勢が僅かに殺がれた。
「あ…お、お帰り」
「ただいま」
「じゃなくて!何なんですかこれは?」
汚い物でも持つように人差し指と親指だけで持った透明な容器を神吉に向けて突き出す。
「俺のペットの食用マウスだ」
「何で冷凍庫にそれが入っているんですか?」
「保存のためだ」
「くぅ…」
マリアが悔しげにぷるぷる震えて歯噛みする。
「落ちつけよ。もっと的確に問題点指摘しないと、この人まともに取り合ってくれないぜ」
「OK……。大佐、どうして休憩室の共有の冷蔵庫にネズミの死体がある?」
「全然ダメじゃん」
「だから、この子の餌だと言っているだろう?」
神吉がデスクの上におかれた物を示す。バーミキュライトの床材が敷かれたプラスチックのケージ。パネルヒーターとサーモスタットも完備。至れり尽くせりの環境で飼われているのはタランチュラだった。
さっと頑なに視界に入らないよう目を逸らす司狼。苦虫を噛み潰すマリア。
「なあマリア、どうしてこの人は唐突に蜘蛛なんか飼い始めたんだ?」
「毎日毎日蜘蛛の化け物をバラしていたら飼いたくなったそうだ」
「くっそ。この変態め」
「聞こえているぞ。2人とも」
「聞こえる様に言ってんだよ!取り敢えず他人に迷惑かけるのだけは止めろよ」
「アラーニェの餌を保存できる場所がそこしかなかったんだ」
「では家で…」
「駄目だ」
マリアの提案に司狼が即座に口を挟む。
「…え?」
「それだけは、絶対に、駄目だ」
司狼の念押しにマリアが咳払いして続ける。
「…冷蔵庫を買いましょう。ここに置けるような。小型のを」
「分かった。検討しよう。では、それまでピンクマウスは」
「ここに!置いておきます」
そそくさとデスクの上に置いて離れるマリアの姿に神吉は苦笑する。
「…そうだな。俺が持って居よう。まったく、どうして彼女の美しさが分からないのか…」
「無理です」
「そっから出したらぶっ殺すから」
辛辣な2人の言葉。蜘蛛を見る目は愛玩動物ではなく敵に対するもの。拒絶反応の激しさに神吉はため息をつく。
「よし。分かった。会議だ。外に出よう」
「え?」
「ちょっと」
「とことん話し合おうじゃないか。喫茶店で、コーヒーでも飲みながら」
神吉に背中を押されて2人は部屋の外に出される。そのまま扉を閉めて歩いて行く神吉の後姿にその意味を察した司狼とマリアは直ぐに後を追った。
問題は半分解決しました。東京編は書けそうです。