悲しみの少女(1)
ソメイヨシノの木の葉はすべて枯れ落ちて、夜になると家の窓ガラスには、水滴が付くようになっていた。朝には渡り鳥の鳴き声が聞こえ、冬の訪れを予感させる季節になってきた。
「もうすぐ…冬か」
戸塚重造は、温もりのあるベッドの上でしみじみそう感じていた。
あの夏の事故から、もう12年と半年が経過しようとしている。重造は、なぜあの時、少女のそばについてやれなかったのかということを責め続けて生きてきた。月日が流れるのは早いものであり、あの少女に対して、まだ何の贖罪もできていないのではないだろうかと思っては、死にたい気持ちになる。
重造は、少女が写った写真に目をやる。笑顔がステキな、女の子で、こんなに美しい笑顔を作るのは、この少女だけであると重造は感じていた。
「おじいちゃん…、今日は少しでもご飯食べてよね」
孫の美知子は今年で18歳になり、高校を卒業する。
「美知子…、お前だけは、カウンセラーなんかになるんじゃないぞ」
「それは自分が決めることよ…。私だっておじいちゃんや被災地に行ってるお母さんや由紀子お姉ちゃんに憧れているんだから」
一つ屋根の下で暮らしていると、ここまで似るものかと重造は、孫の美知子の言葉を聴いて考えていた。
「あの子だって、きっとそれが生きがいなのかもよ」
孫が視線を送った先に、重造も目をやる。あの少女の写真であるが、美知子の言った通り、それが生きがいであってほしいと、重造は心から願っていた。
駿太郎は、突然倒れた光の体を狭い車道の路肩に引き寄せて、自分の携帯電話を取り出し、救急車を呼ぶため、119の番号を押した。
「あの…一緒に歩いていた友達が倒れました!」
その後、駿太郎は場所と光の性別などを答え、救急車をこの場で待つことにした。
電話をし終わった駿太郎は、光の近くにしゃがみ込み、光の名前を呼んだ。
「光!光!」
息は正常にしているみたいだが、話しかけても、名前を呼んでも、体をゆすっても、一向に反応が返ってこなかった。
光は、デートDV のカップルの後も、郷司くんの後も、ひと段落つくと少し異変が起こることが多かったが、まさかここまでになるとは駿太郎も考えてはいなかった。
川のせせらぎが、駿太郎には雑踏に聞こえてきた。駿太郎はただ、光の声が聴きたかったのだ。光の「しゅんたろう!」と自分の名前を呼ぶ、明るい声が聴きたかった。光が現れて、駿太郎は本当の意味で一人ではなくなったと感じるようになった。自分のことを「大好き、愛してる」と言ってくれる人がそばにいたからだ。
救急車はすぐにその場に現れ、駿太郎が手を振った所に停車すると、救急隊員が駆け足で降りてきた。
「まだ呼吸はありますか?」
「あります!」
「倒れたのは突然ですよね?」
「そうです!」
「分かりました。急いで運ぶので、あなたもご同行お願いします」
「分かりました!」
救急隊員のはぎれの良い質問に無我夢中で答えた駿太郎は、光と一緒に救急車に乗り込んだ。
病院に着いてからの時間は長かった。駿太郎は、光の治療が終わるのを待っている間に、桃子と戸賀に電話をした。すると、桃子と戸賀は、すぐに病院に駆け付けた。
「光ちゃんは?」
「治療室の中」
桃子の質問に答えた駿太郎は、その場にしゃがみ込んで泣いた。
「光の異変には気付いてた。俺がもっと早く病院に連れて行ってたら、こんなことにはならなかったんだ」
「しっかりなさい!」
自分を責める駿太郎に、戸賀は強く言った。
「あなたがそんなんじゃ、光ちゃんも悲しむわよ。あなたの笑顔が、あの子が求めているものだと思うから」
駿太郎は、その言葉を聴くと、ゆっくりと立ち、桃子と戸賀に肩を支えられながら、待合室の椅子に腰かけた。
病院の救急病棟は、一日に数名、救急搬送で運ばれてくるみたいだった。この日も駿太郎の前を、救急搬送された人が何人か通り過ぎて行った。そのたび駿太郎は不安に陥っていったが、戸賀の言葉を思い出し、何とか正気を取り持っていた。
光が救急搬送されて2時間後、ようやく医師に駿太郎たちは呼び出された。光は点滴を腕にうたれて、すやすやと眠っていた。駿太郎はその顔を見てホッと一息ついたが、医師は真剣な顔で、駿太郎たちに話し出した。
「貧血です…。しかし前にこの病院に来た時、血圧も正常で、貧血の気配すらなかったそうです」
「どういうことでしょうか?」
駿太郎は、心配そうに医師に問いかける。
「体の内部のどこかから、出血していることが考えられます。先ほど全身を写すCTで、体を分割して見てみましたが、胃のあたりが腫れていました」
「重大な病気ですか?」
桃子は少し涙目になっていた。
「分かりません…内視鏡をしないと、分からないんです」
それから戸賀が、胃カメラの検査に承諾するサインをして、とりあえず今日、光は入院し、駿太郎たちは帰宅することとなった。
「私がついてるから。大丈夫よ高井くん…」
「お願いします」
戸賀は、光の病室に泊まることになった。
次の日、駿太郎は朝から病院に駆け付けたが、まだ光は目を覚ましていなかった。戸賀はずっと光に付き添っていて、眠っていないみたいだった。
「先生…大丈夫ですか?」
「私の心配もできるなんて、あなた優しい人ね」
今日は、その戸賀の顔がとても優しく感じた。駿太郎は今まで戸賀のそんな優しい顔を見たことがなかった。
「光は、まだ寝てますね」
「疲れていたのでしょう」
駿太郎は、光に近づくと、そっと額を撫でて、「ごめんね」と言った。
光が入院してから2日、3日経っても光は目を覚まさなかった。駿太郎の不安は大きくなる一方で、医師に何度か相談に行ったが、「原因が分からない」の一点張りであった。
「戸賀先生!光の家族が来たら目を覚ますのではないでしょうか?」
駿太郎は、すでに光の実家には連絡が行っていると思ってはいたが、戸賀に家族を呼ぶことを提案してみた。
「光ちゃんの家族には連絡しました」
「そしたら来てくれるのですね」
戸賀は大きく首を横に振る。
「光ちゃんの実家に家族は、お母さんとお兄さんがいるのだけど、二人とも小さな町で二人だけの医者なの。お母さんは、心療内科でお兄さんは総合医って聞いてたから、街を離れることができないはずよ」
戸賀は、駿太郎たちで支えてあげることを提案していた。医師も光については、ただ眠っているだけなのに、目を覚まさないことは初めてらしいので、かなり困惑している様子であった。
「脳は、運ばれてきた時にCTで撮りましたが、正常に動いているんですよ。まぁ何年か前の、事故での外傷は消えませんけど」
医師のその言葉を聴いた時、駿太郎は初めて光が昔、事故にあっていることを知った。
「先生…その事故の話は、誰から聞いたのですか?」
駿太郎は医師に尋ねた。
「戸賀先生ですが…」
その日の夕方、駿太郎は戸賀の研究室に訪れた。学園祭も最終日ということで、キャンパス内は、人であふれかえっていた。しかし、大学の建物の中に入ると人は誰も歩いておらず、とても静かで、なんだか気味が悪かった。
戸賀の研究室に入ると、戸賀は一人でパソコンのキーボードをたたいていた。どうやら仕事をしているらしかったが、駿太郎が来ると、戸賀はすぐに駿太郎と向き合った。
「先生…、なぜ光が昔、事故にあったことを知っているのですか?」
駿太郎は、疑問に思っていることを伝える。確かに光は、学部も違い、大学の担任の先生も、心理学科の先生ではないので、戸賀がそんなこと知っているはずがない。
「月島光…。彼女は、私の昔からの知り合い。彼女のお兄さんと私は、小学校からのおさな馴染み」
戸賀は駿太郎に本当のことを話した。
「戸賀先生は、だから光のこと…」
「2001年7月9日…彼女は事故にあった。頭を強くうった…」
戸賀はそう言うと、封筒を駿太郎の前に置いた。駿太郎がその中身を見るとそこには、6万円の大金が入っていた。
「先生!」
駿太郎は驚いて大声をあげた。
「高井くん…、あなたには、知らなければいけないことがある。そして、月島光の心を解放してあげて!」
「先生…」
戸賀は涙を流していた。
駿太郎はその封筒を握りしめて、「分かりました」と呟くと、静かに研究室を出ていった。
戸賀は、駿太郎がいなくなった研究室で、電話をとっていた。
「重造先生…、明日の夕方ぐらいには、そちらに向かうと思います。あなたの贖罪は、彼の心を解放することで、やり遂げてください」
戸賀は、重造にすがる思いであり、自分の無力さも同時に感じていた。
そして、電話の向こうから、咳払いの音と共に、「わかった」と声が聞こえた。
駿太郎は、どうやって月島光の心を解放するのか?
光が抱えるものとは…?




