夏明けの大学
2001年7月9日、青森県の県道で、9歳の女の子が大型トラックにはねられて意識不明の重体となった。
その一報が、戸塚重造の耳に入ったのはその日の夜であった。重造はそれを聴くと血相を変えて女の子が治療を受けている病院へと車を走らせた。重造が病院に着くと、そこには女の子と歳の離れた兄と、重造が当時、大学で心理学を指導していた戸賀由紀子がいた。当時付き合っていた二人は、お互いの肩を抱き合い悲しみに暮れていた。
女の子の兄が重造の姿を認めると、重造に鬼の形相で駆け寄り胸ぐらをつかんだ。握り拳を作った右手で重造のことを殴ると、こう言った。
「人殺し!」
そう言われた重造はとっさに後ろを向いて泣いた。振り向いた先には、一人の男の子が涙を流しながら立っている。
農業一か月体験のため、一か月間、青森のこの町で暮らしていた男の子だった。
しかも彼は、事故の一部始終を目撃しているという。事故にあった女の子の家に宿泊しており、夕食の時間になっても帰ってこない女の子のことを心配していたのだ。
数時間が経過して、手術室の手術中の明かりが消え、中から医師が出てきて、経過を伝えた。
「一命はとりとめました。しかし、脳機能に重大の欠損を残している可能性があります」
2013年9月、駿太郎が月島光という不思議な少女と出会って五ヶ月の月日が流れた。夏休み駿太郎は、毎年だと北九州の実家に帰り、毎日そこで過ごしているのだが、今年は光のこともあり、光が実家に帰っていた一週間程しか北九州へは帰らなかった。しかし駿太郎はそのことをさほど気にしてはいなかった。どうせ福岡市から北九州までは、電車で一時間もあれば帰れる距離なのだ。もし家庭になんかあったら、その時は一人にすると心配になる光をつれて…などと駿太郎は考えており、それを考えるたびに変な気分になっていたのだ。
大学の後期の授業が始まる日、駿太郎は珍しく寝坊し、駆け足で大学に行く羽目となった。9月とはいえ、残暑が厳しく、朝から気温は30度を超える真夏日となっていた。教室に着くと汗がだくだくになっており、駿太郎はその汗を落ち着かせるため人がいないところに座ろうかと考えたが、席は満杯であった。しょうがないので、エアコンの風が当たりやすい席が一つ空いていたので、そこに座ることにした。エアコンの真下とはいっても、この大学のエアコンというのは、たまに熱風が入ってくるので、涼しくなるとはいいがたいものであった。
駿太郎が座った席の隣には、ノースリーブの服を着た女の子が座っていた。彼女は、授業前2分だというのに、真剣な表情でファッション雑誌を読んでおり、机の上にはノートも筆箱も何も出していなかった。そのファッション雑誌には、一人のアイドルの水着姿が乗っていた。駿太郎は、久米良明がこのアイドルのことが好きだったことを思い出した。久米曰く、このアイドルのいいところは、かわいい顔に似合わない、胸の大きさとその大きさと比率がいい、ウエストラインらしい。久米はいつもそのことを科学的に語っているので、駿太郎はその話を聴くのが面白かった。
気が付けば駿太郎は、しばらくその雑誌を眺めていた。それを読んでいた駿太郎の隣に座っている彼女は、駿太郎の視線の気配に気づいてしまったのか、駿太郎の方に視線を送った。それに反応した駿太郎は、反射的に視線を外したが、彼女の顔が鮮明に頭の中に残った。それは、どこのアイドルにも劣らない可愛さがあった。
しかし、彼女は確かにかわいいきれいな顔立ちはしていたのであるが、駿太郎が最も気になったのは、あまりの彼女のやせ加減であった。ノースリーブでさらけ出された腕は細く、顔も少し頬がこけている感じだった。駿太郎はその時ある可能性を考えたのだが、その女の子には、これまで見覚えがなかった人なので、何も声をかけないで、そっとしておくことにした。
駿太郎が桃子と偶然会ったのは、昼過ぎの13時から始まる3限目の授業が終わった後であった。桃子は今日も薄化粧でありながら、アイラインだけはばっちりと決めていた。桃子がアイラインだけをばっちりと決める理由は、顔が童顔だかららしい。バレーをやっていたころの「子ども顔だからと言って、なめられたくない」という思いが、このアイラインを引き、少し顔をきつく見せるというメイク技術を生んだと桃子は語っていた。
桃子は、駿太郎に会ってそうそう「光ちゃんと夏休みにデート行った?」と聴いてくるので、駿太郎は、「遊園地とショッピング…」とだけ答えた。
すると桃子は駿太郎がムカつく一言を言い放った。
「ショッピング¡?だろうね(笑)だって今日の光ちゃん結構ダサい服着てたもーん!駿ちゃんが選んだってすぐわかった。センスないねー!」
確かに光の服を選び、8月が誕生日だという光に服を選んで買ってあげたのは、駿太郎である。しかし、あの時光は間違いなく「しゅんたろう!ありがとう!」と言って喜んでいた。だったらそれでいいのではないのか。確かにセンスがあるかどうかと聴かれたら、素直にないと言えるが、桃子の一言に、駿太郎は本気でいらいらすることとなった。
光は、郷司くんが施設に入ってからずっと様子がおかしかった。駿太郎は、光はいつも笑ってはいたが、心の奥では笑っていない気がした。駿太郎は夏休みの一日だけ、布団に入っても寝付けない日があった。その時ついに隣の光の部屋から泣き声がするのを聞いてしまった。心配になった駿太郎は、光の部屋へかけていった。駿太郎はその時、光と陽平のカップルの一件の後も光の笑顔が一瞬失われていたことを思い出した。
「光‼大丈夫か…。光‼」
するとすぐにガチャリとドアは開いた。
「しゅんたろう‼」
光は笑顔で駿太郎の前に現れた。
「ごめんて、駿ちゃん!」
「もういい!」
駿太郎は、帰り道で許してもらおうと追いかけてくる桃子を振り切ろうとして逃げていた。それはまるで、小学生の追いかけっこに見えたのか、周りの人たちがそれを見て笑っているのが目に入り、駿太郎は恥ずかしくなり、駿太郎は逃げるのをやめた。
「仲がいいな、うらやましい!」
そう言ってきたのは、駿太郎と同じゼミの瀬川彰彦だった。
彰彦は駿太郎とよくカラオケに行ったり、ボウリングに行ったり、大学で飲み会をする時は、駿太郎と二人で協力して幹事をする駿太郎とのなかであった。そして、彰彦は心理学部一の力自慢であり、ベンチプレスでは100を超える重さを両手で上げるらしい。
「付き合ってるの?」
「いやあ…ありえない」
駿太郎と桃子は彰彦の質問に、声をそろえてそう言った。
これまで、6月くらいから何人もの人に「駿太郎と桃子付き合ってるのか?」と言われてきたが、絶対にありえない話だとずっと言ってきた。駿太郎と桃子は大学内では仲がいいが、いまだ二人で飲みに行ったこともない。
それを彰彦に伝えると、桃子と二人で飲みに行ったことがある彰彦は、「勝った―‼」などと言い出し、大騒ぎしていた。
三人は大学の門を出て、左に行くと踏切にたどり着いた。ちょうど電車が通るときみたいで、黄色のバーが下りているときだった。
駿太郎はその間、周りを見渡す。小学校低学年の小さい子どもたちが、電車が通り過ぎるのを今か今かと待っているのを見ると可愛かった。
その次に駿太郎の眼に思いがけない光景が飛び込んできた。一人の男性が、運転していたであろう車から降りて、バーの中へ入っていくのが見えた。
「危ない‼」
駿太郎が思わず叫ぶと、駆け出した。
それを見た桃子や彰彦も駿太郎に続いた。
駿太郎はバーの中に入ると、男性を無理やりバーの外へ出そうとした。しかし男性はそれを嫌がり、なかなか上手くいかない。彰彦が入ってきて、男性をつかむ、力が強い彰彦であるが、彰彦をもってしても突き飛ばされた。このままでは三人とも死んでしまうが、駿太郎には一つの思いがあった。
「子どもたちに人が死ぬところを見せたくない」
「桃子‼緊急停止ボタン‼」
駿太郎は叫ぶ。
「分かった」
桃子は、緊急停止ボタンに向かいボタンを強く推した。まだ電車は見えない。果たして間に合うのか。
彰彦は抵抗する男性の腹を思いっきり殴った。すると男は、崩れ落ちるように線路に上に倒れようとしていたので、彰彦と駿太郎は二人でそれを抱きかかえてから、バーの外へと出した。駿太郎は次の瞬間、電車が踏切の20メートル手前で、緊急停止しているのを目撃した。
「よくやったー!」
その一部始終を見ていた人たちからは拍手喝さいがおき、駿太郎たちが救った男性は、彰彦の強烈のボディーブローの影響であろうか、気絶していた。
この男性はどうしてバーの中に入ったのでしょうか?