歌え!郷司くん
「あなたたちが郷司くんの“安心”になれ」という戸賀の言葉は、駿太郎と桃子の胸に強く響いていた。しかし、施設に郷司くんが入るのは日曜日だというのに、それまでに駿太郎と桃子に一体何ができるというのだろうか。戸賀と話をした次の日、桃子は二日続けて桃子のアパートに泊まった郷司くんを連れて、駿太郎と光が住んでいるアパートにやってきた。
桃子は自分一人で施設に入ることを言い出す自信がなかったので、駿太郎と一緒に言うことにしたのだ。駿太郎の部屋に入ると、最初はトランプやテレビゲームをして遊んだが、テレビゲームは郷司くんにとって経験したことのないものだった。
「楽しい!」
そういいながら郷司くんは楽しい時間を過ごしていた。
「たのしい!」
光も郷司くんの笑顔を見るのがうれしい様子だった。
しかし、いつも楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうのが、この世界の非情なところだ。桃子と駿太郎は話を切り出さなくてはいけない時間になってしまった。
「郷司くん、ちょっと話がある…」
桃子は真剣な表情で、郷司くんに話しかけた。
「どうしたの?」
郷司くんも桃子の顔を見て楽しそうな表情から、真剣な表情に変わった。
桃子は、じっと下を見てから視線を今度は、天井に移した。そして左隣にいる駿太郎に目をやると、駿太郎は静かにうなずいた。光は桃子の近くに来て、
「だいじょうぶ…」
と桃子に諭すように言ってから、桃子の右隣に座った。
「郷司くん…」
桃子はゆっくりと口を動かし始めた。
「何…」
郷司くんの顔は心配そうなり、次の瞬間、
「僕…桃子お姉ちゃんと一緒がいい!」
それを聴いた桃子は、唇をぐっとかみしめた。
「桃子お姉ちゃんと、駿おにいちゃんと光お姉ちゃんと一緒がいい」
「ダメなの‼郷司くん‼」
そういって桃子が郷司くんの両手をつかむ。
郷司くんは涙を眼に浮かべていた。
「なんで…?三人しかいないんだ…。みんな僕のこと怒る…。友達も…友達も…」
郷司くんはそこから先は言葉が出ない。桃子は郷司くんの横に駆け寄ってそっと抱きしめた。
「ともだちも、ぼくがわるいことしないと、みてくれない」
「光…」
不意に出た光の言葉だった。
光が郷司くんに会った回数は、間違いなく桃子や駿太郎よりも少ないはずなのに、光は郷司くんの気持ちを分かっていたのか。
「だから…暴れるんだ…」
桃子は郷司くんの耳をふさぎながら、駿太郎に問いかけた。
「目立ちたい…。ただそれだけだ」
郷司くんは認められた経験が少ない。だから認められたい欲求や信頼する人がほしい欲求が強くなる。子どもが悪いことをわるいと分かっていてやるのは、それ相応の理由が必ずある。これは、児童心理学で駿太郎と桃子がすでに習っていることである。
「だから…作ろうよ、第三ステージ‼所属と愛情の欲求を」
駿太郎は昨日に続き、力を込めてこの言葉を放った。
次の日になり、郷司くんが施設へ入所する日が来てしまった。駿太郎と桃子と光、そして郷司くんの四人は、大学の近くに施設があったので歩いて向かった。戸賀は駿太郎たちが着いたころにはすでにもう、施設に到着していた。
駿太郎は、光と戸賀が顔を合わせるのは初めてであろうと考え、戸賀に光のことを紹介した。
「月島光さん。知ってるわ!何度か授業で会ったことあるから」
といいだし光に「ねっ!」と微笑みかけた。
すると光も満面の笑顔になり、「ねっ」と反復するのだった。
これには駿太郎も少し以外で、驚いてしまった。
駿太郎は一昨日と昨日、確かに「第三のステージを作ろう」と言っていたのだが、どうするのか具体的に桃子には分からなかった。
「駿ちゃん…、どうするのよ?」
「まぁ、任せろって!」
心配そうに尋ねる桃子に対して、駿太郎は自信ありげに答えた。
「任せろって…?、昨日途中でどっか行っちゃうし、何考えてんのよ¡?」
「怒らない、怒らない」
駿太郎は少し粛々とし始めた。
戸賀が駿太郎の隣により、つぶやくような静かな声で駿太郎に話しかけた。
「あなたの言う通り、あれをさせるから」
「はい!ありがとうございます!」
駿太郎は笑顔で答えると、桃子の方を向いて笑った。
また駿太郎は何を考えているのか全く桃子には理解できなかった。
入所式の会場は、施設内の大きな大ホールで行われることとなった。施設の子どもたちは二十人ほどで、多くは小学生で、中学生や高校生も中にはいた。この施設は戸賀の知り合いがやっているということもあり、さすがに子どもたちもみんな明るく、笑顔にあふれていた。しかし、今からはまったく知らない新しい友達がやってくるということもあり、少し緊張気味だった。
入所式が始まり、郷司くんが大ホールに恐る恐る入場してきた。子どもたちみんなの視線が郷司くんに注がれている。
「大丈夫…大丈夫…」
横についている桃子が郷司くんに話しかけている。
駿太郎の横にいた光も心配そうに郷司くんを見つめていた。
ホール内の気温は日が差し込んでいて少し暑く、湿度も少し高いように感じられた。その上この緊張感で、駿太郎の体は汗でぐっしょりになった。郷司くんも額に汗をかいており、手がかすかではあるが、震えているのが分かる。
郷司くんがキョロキョロしていると、ずっと心配そうに郷司くんを見つめていた光と目が合った。その時、光は郷司くんを落ち着かせようと考えたのか、ニコッと笑った。すると郷司くんもそれにつられてニコッと笑った。それから郷司くんは大きく深呼吸をして自分を落ち着かせて、大きく口を開いた。
「五嶋郷司…。七歳です。館花小学校の二年生です。よろしくお願いします!」
それは元気いっぱいの挨拶だった。
「よくできました!皆さん拍手―‼」
施設長さんの合図と共に子どもたち全員が拍手をした。郷司くんは満面の笑顔で照れ隠しをしていた。
「拍手やめー‼では次に郷司くんの特技を見ましょう」
いきなりの施設長の発言に、子どもたちの目が輝いて、
「何をやってくれるの?」
と口々にみんな郷司くんへの期待を喋りはじめた。
桃子は、また心配そうな顔になっている。
郷司くんも少し戸惑っているのが分かった。
ホール内は子どもたちの熱気でさらに熱くなったように感じた。駿太郎はうまくいくことを願うと緊張し始め、手の汗がさらに激しく出だした。
「だいじょうぶ…」
横にいた光は、駿太郎の手を握ると、笑顔でそう言った。
「あなたが心配してちゃ、あなたを信頼している子どもはさらに心配するわ」
戸賀が駿太郎に近づいて、つぶやくように駿太郎に言った。
そして、駿太郎は持っていたバッグからあるものを取り出し、ホールの後ろへと走り、高々とそれを掲げて、郷司くんに見せた。
「マイケル…」
それを見た郷司くんはつぶやいた。
「えっ…」
桃子もそれを見ると少し呆気にとられた様子だった。
「郷司くんあれ…」
「マイケルだよ…マイケルジャクソンのCD。お母さんが置いていったて、叔父さんから聞いた」
そういうと郷司くんは椅子から立ち、足の親指に力を込めた。そして大きく息を吸い込むと、一気に歌を歌い始めた。
その声はきれいなボーイソプラノで、見事にマイケルジャクソンの代表曲、『ヒールザワールド』を歌っていた。
「…」
子どもたちはその間、ただ唖然とし、何も言えなかった。
桃子は駿太郎の横に来て、「駿太郎…あれ…」と駿太郎に問いかけた。
「郷司くん…特技があったんだ。小学校では、音楽の時間も騒ぐばっかりで気づかれなかったけど…、気づいている人がいた」
「誰…?」
「郷司くんの叔父さんだよ」
「叔父さん?」
駿太郎の発言に桃子は耳を疑った。
「お母さんの贈り物のマイケルジャクソンのCD。いつもあの部屋の中で聞いて、歌ってたらしい。お母さんは、音大を卒業したらしいから、あの声もお母さんの贈り物だな…」
「駿太郎…昨日…」
桃子は駿太郎の顔をまっすぐと見ていた。
「なんか特技があるだろうと思って、叔父さんに会いに行ったの。そしたら教えてくれた」
桃子はそのあとまっすぐに郷司くんを笑顔で見つめていた。
「あれは、歌い方を覚えたらもっと上手くなるわね」
戸賀が駿太郎と桃子の横に寄ってきて話した。
「えぇ。上手くなりますよ!」
駿太郎も緊張がほどけて笑顔になった。
「あなたたちが作ったのは、第三のステージだけじゃなく、第四まで作ったわね!自尊と承認の欲求!」
郷司くんが歌い終わるとホール内は、拍手喝采に包まれた。
「郷司くんすごーい‼」
その音は、鳴りやむことを知らなかった。
駿太郎と桃子と光が施設を施用としているとき、
「桃子お姉ちゃん!駿おにいちゃん!光お姉ちゃん!」という三人を呼ぶ声が響いた。
三人が後ろを振り向き、斜め下を見ると、そこには郷司くんが立っていた。それを見た桃子はゆっくりと近づき、しゃがみこんで、
「いつでもここに来るからね。私たちに頼れることがあったら言いなさい」と郷司くんに話しかけた。
郷司くんは大きくうなずき、「僕ね!歌がうまいみたい。みんなに言われた。だから…マイケルジャクソンみたいな人になる!」
「ゆめみつかった」
光も笑顔だった。
「郷司くん…」
駿太郎が郷司くんに近づいて、しゃがんだ。
「君の名前は、郷司。お母さんが最後に着けた君の名前だ。この字には、お母さんのことを忘れないで…という意味があるんだって。言いたいことがあったら、ここの人たちや僕たちでもいいから素直に言いなさい。強く生きるんだ」
「うん…」
その言葉に郷司くんは真剣な表情でうなずいた。
「光お姉ちゃん!」
郷司くんは光の方を向いて、光を呼ぶと、
「光お姉ちゃんみたいに笑いたい!」と光に言った。
「さとし!だーいすき‼」
光のその笑顔に郷司くんも満面の笑顔で答えていた。
駿太郎は家に帰ると、光に対してなんか知らないが、変な感情を抱いていた。帰るときに隣同士になって歩かなかったことを不思議に思った桃子は、「焼いてるの?」と駿太郎に聞いていたが、駿太郎は首を激しく横に振っていた。
もうすぐ17時半になり、光が買い物に行く時間になってしまう。
「ほたっとけ!」
少し気になったが、駿太郎は何のやる気もなくなり、ベッドに横たわった。このまま寝ようと思ったのだが、寝れない。隣の部屋がとにかく気になっていて寝れない様子だった。
寝れないのでテレビをつけると、中年男性の自殺が増えているという社会問題を取り扱うニュースをやっていた。普段の駿太郎なら興味のある内容であるが、今はそんなことどうでもいいような訳の分からない気分だった。
横の部屋からドアの開いた音がした。おそらく光が買い物へ行くため、隣の部屋から出てきた音であろう。
そう感じた瞬間、駿太郎は、思わず自分の部屋のドアを開けてしまっていた。
「光!」
「しゅんたろう!」
光は相変わらずの笑顔だ。しかし、その笑顔はすぐにまた見えなくなってしまった。
光は駿太郎の体にしがみついていたのだ。
「しゅんたろう、すき!」
「…」
駿太郎は何も言わない。
「あいしてる!せっくすしよう‼」
またその言葉を駿太郎は聞いてしまった。駿太郎はびっくりというよりも少し笑顔になり、こう答えた。
「だから…セックスはできないの!ご飯食べよう」
「ごはんたべよう!」
駿太郎の言ってた第三のステージとは、心理学者マズローが唱えた、社会的欲求階層説の理論です。
第一が生理的な欲求
第二が安全性
第三が居場所
第四が周りからの承認と自尊感情
第五で自己実現欲求です
詳しく知りたい方がいたら、質問してくれるとうれしいです!
しかし、郷司くんの歌を実際に聞いたことがないのに、歌わせた駿太郎はかなりの自信屋、単細胞?ですかね
次回から第三章(^^;;
いまマラソンで言うところの25km付近です。
長くてすみませんm(_ _)m