お互いを人として
駿太郎が一つの仮説を打ち明けてからのその場の沈黙は長かった。休日である大学は、沈黙の中、物音が一つもしなかった。ただ聞こえていたのは、尋子が泣くのをこらえている音と、陽平の荒い息の音だった。駿太郎はこの後どうやって陽平に話を切り出していこうかと悩んでいた。桃子は尋子の背中を優しく、ただ優しくさすっている。光は尋子の顔を心配そうにのぞき込むと、その次は陽平の顔を見て、その次に視線を隣の駿太郎に移した。それに気づいた駿太郎は、「どうしよう」と光に目で訴えかけた。駿太郎の隣に座っていた光は「しゅんたろう、ふあん?わたしも」と駿太郎に静かに呟いた。
「陽平さん、子どものころ、父の暴力をどのような気持ちで受けていましたか?」
光の言葉を聴いた駿太郎はとっさにその言葉が出ていた。
「ちょっと高井君‼」桃子は、その駿太郎の質問に驚いた様子を見せた。
「そんなトラウマを思い出させるようなことどうして言えるのよ!」
桃子の次の言葉は、怒りを含んだ言葉だった。
陽平は、目をぐっと大きくし、駿太郎を見て、「怖くて、怖くて…」と口にした。
そのあと陽平は、大声をあげて泣き出し、何も言えなくなった。
その時光が席を立ち、陽平に近づきこう話した。
「こわくて、こわくて、しぬかもっておもってた」
陽平は、光のその言葉に泣きながらうなずいた。
陽平はしばらくして落ち着きを取り戻した。そしてゆっくりと話し始めた。
「子どものころの父の暴力には、死の恐怖を覚えました。だから今も私は、死と隣り合わせにいる感覚であります」
駿太郎、桃子、光の3人はその話をうなずきながら聴いていた。
「尋子ちゃんが手を出してきたとき、別れようとはしなかったんですか?」
桃子の問いに、陽平は尋子をじっと見つめて答えた。
「怖いと思った…怖いと思ったけど、」
「怖いと思ったけど?」桃子は、その続きが聴きたい様子だった。
「こわいとおもったけど…はなれることができなかった」
その続きを話したのは、光だった。その視線は陽平のほうをしっかりと見つめていた。陽平は、一度下を向き、もう一度顔を上げてからゆっくりとうなずいた。
「どうして?」と桃子はもう一度陽平に問うていたが、その答えを話したのは駿太郎であった。
「虹山尋子が自分の全てを分かっている人間だから」
「僕には…」そう言って再び陽平は涙を浮かべた。その続きの言葉は、その場にいる全員が予想出来た…「尋子しかいないんです」
「ひろこ、ようへいのことすき!」「ようへい、ひろこのことすき!」
その言葉を発した時の光の顔は笑顔だった。
「ごめんなさい…陽平!」そう言った時の尋子は、泣きながら陽平の手を握った。また、陽平もその手を握り返していた。駿太郎はもう何も二人に話しかけられなかった。
駿太郎、桃子、光の3人は2人を残して自習室を出た。大学の外は、13時を過ぎた段階で、球場のほうからは野球部の元気がいい声と、球技場からはサッカー部がボールをける音が響いていた。桃子は駿太郎のほうをチラチラと見て、何かを言いたげだった。
「何?」とそれに気付いた駿太郎は桃子に尋ねた。
「陽平君が尋子ちゃんに手を挙げた理由て、もしかしてトラウマによる恐怖?」
「うん…「殺されるかも」と無意識に感じ取った陽平さんの防衛機制が働いた」
「そうなんだ…」と桃子は納得してうなずいたが、
「その最初の暴力が、陽平さんの攻撃欲求を高めたのかもしれない」
という駿太郎の言葉に桃子は「えっ?」という反応を見せたが、「それは俺の思い過ごしであってほしい」と駿太郎は言葉を濁すだけだった。
光はにっこりとして、「あってほしい」と駿太郎の言葉を反復した。
しばらくキャンパスを歩き大学を出る。
「ねえ!…ポスター作らない?」突然の桃子の言葉に駿太郎は「何の?」と驚いた様子を見せた。桃子はニタニタと笑いこう続けた。
「デートDVの!」
一瞬戸惑った駿太郎は少し早足になったが、心の中では、「いいねー!」と感じているのが桃子には見え見えだった。
「絵は誰が描くの?」と振り返りざま重大の疑問をぶつけた。それを聴いた桃子は、笑顔になり光を見つめて、
「光ちゃんは、高校生の時美術部でした!」と話した。
「びじゅつぶでした!」と光も反復する。駿太郎はうなずくだけであった。
駿太郎のアパートの前に来ると、桃子は「ここでお別れだね」と言いながら二人を見送る体制に入った。駿太郎が青く澄んだ空を見上げ「久々の快晴だなー!」と光に言いながら登っていると、桃子が「高井君!」と駿太郎を呼び止めた。桃子のその時の顔はやけにいやらしい顔であった。アパートの下を子どもが笑顔で通り過ぎている。その子どもたちも駿太郎を見ているみたいだった。桃子は駿太郎に近づき、こう話した。
「ポスター頼んだわよ…光ちゃん、駿太郎くんの言うことは聞くから。だってあなたのこと愛してるから…」
「はあ?」駿太郎は意味が全く分からなかったが、上を見ると光がにっこりと笑ってその様子を見つめていた。
この地にもようやく春がやってきたようだ。ソメイヨシノが満開となり、戸塚重造の家の周りには人が集まっていた。小さな駅だけがあるこの小さな町で、ここは絶好の花見スポットである。今年も子供は笑顔で木の上から散る花びらを眺めていた。重造は今年で70歳を迎え、体は徐々に無理がきかないようになってきた。今はおじいさんになってしまった重造であるが、3年前まではこの町でカウンセラーとして活躍していた。
12年前の一人の少女との出会いは、重造の人生を大きく変えることとなった。その少女を一目見た時に不思議な魔力を感じ、重造は一気に虜になってしまった。それから8年後重造は自分が犯した大きな罪に気付くことになった。それは心理学者として絶対に侵してはならない罪であった。
「おじいちゃん…少しは外に出ないと…」
後ろから話しかけてきたのは、重造の孫である美知子だった。
「私は、人を殺した…外に出るわけにはいかない」
重造の贖罪は死ぬまで続くのであろうか。重造は少女が映った写真を眺めながら、静かに目をつむった。
月曜日の夜、駿太郎がアパートの部屋に戻ると、そこには光の姿があった。光の様子が尋子と陽平のカップルと会ってから少しおかしかったので、駿太郎は一時自分の部屋で光の様子を見るという処置をとった。今日の光には笑顔が戻っており、駿太郎はそれを見ると少し安心した気分になった。
「ちょっと待ってろ、ご飯作るから!」駿太郎は嬉しくなりそう光に言うと、光は満面の笑顔になり、「ごはん、つくる!」と言い、駿太郎に微笑んだ。
駿太郎が光の向こう側を振り向いた時に、「しゅんたろう!」という光の声が聞こえたので、駿太郎はもう一度振り向くと、光は大きなポスターを持っていた。
「光‼ポスターもうできたのか!」
「できた!」それは桃子に頼まれた、デートDVのポスターであり、駿太郎は思わず感心してしまった。
駿太郎が気づくと桃子は駿太郎の近くに寄ってきた。駿太郎は光のその笑顔に引き込まれそうだったが、すぐにその顔を見れなくなってしまった。光が駿太郎に抱き付いていたからだ。
「光どうしたんだよ?」駿太郎が少し驚いた様子で、光に尋ねると、
「しゅんたろう‼すき‼」と光は明るい声で言った。
「え‼?」駿太郎戸惑っていたが、すぐに次の言葉が飛んできた。
「しゅんたろう!あいしてる‼せっくすしよう‼」
その言葉に駿太郎は言葉が出なくなったが正気を取り戻した駿太郎は、光の体をやさしく引き離して、「分かった」と光につぶやいた。
「ありがとう光…」
「ありがとう!」と光は駿太郎の言葉を反復していた。
「俺も光のことは大事だけど、セックスはできないな…」
「せっくすできない」それでも光は笑顔を崩さない。
「今日は抱きしめてあげる!」
駿太郎はそう言ってギュッと光の体を抱き寄せた。駿太郎の心は、愛おしい人を思うというより、かわいいかわいい子どもをだっこしている感覚に近かった。光の腕は駿太郎の背中にしっかりと回されていた。
その二人の下には、光が完成させたポスターがあった。そのポスターには、手をつないでいる男女の絵と、駿太郎と桃子と光の3人で考えた言葉が書かれていた。
【お互い尊重しあう愛を創りましょう!】
どれだけお互いのことを好きであっても、お互い一人の人として尊重しあってください。
お互いを尊重し信じることがいい関係を築きます。
次回から第2章です!




