Serenade
短編3000文字シリーズ第6弾
もうすぐ夜が明ける。
満天の星空の元、天の川を眺めながら彼の奏でるセレナーデは今日も夜明けまで続いた。
「セレナーデ? 何それ」
友人の口から出た聞きなれない言葉に、彼は首をかしげた。
「曲の種類だよ、小夜曲とかって意味なんだけど」
音楽好きの友人は得意げにそう言い、これ見ろよと一枚のポスターを取り出した。
「田村小夜子、綺麗だろ?」
ポスターには赤いドレスを着た女性が手を広げて唄っている写真と共に『田村小夜子、コンサート』の文字がでかでかと踊っていた。
「彼女の歌うセレナーデがな? いいんだよ。こう、なんて言うか胸にぐっとくるって言うか」
彼はふぅん、と鼻を鳴らしてポスターを見る。
「通常、セレナーデっていうのは、男性が女性を想って唄う歌なんだけど、田村小夜子が唄うと気持ちがスッと入ってくるんだよな。ほら、男性の歌詞を女の歌手が唄うと妙にはまったりするだろ?」
「てかさ、お前オペラなんて見るの? これオペラ歌手だよな」
彼は興味薄くポスターをペラペラと揺らした。
「オペラなんて興味ねぇよ。田村小夜子が好きなの」
彼からポスターを奪い返して、友人は大事なものを扱うように胸ポケットにしまい込んだ。
「綺麗なんだよなぁ、俺一発でファンになっちまった。これはもう恋に近いよな」
「あ、そ。オレに言わせれば胸がでかすぎる」
「アホか、胸はでかいに越したことはねぇだろ」
当然のように豪語する友人の、彼女はやはり巨乳だった。ああ、そうだったなと納得する。
「とにかく、俺の好きな女をバカにすんなよ」
「一介のファンが何を言う」
「一目惚れだっつーの。お前にだって好きな女の一人くらいいるだろ?」
「好きな女ねぇ」
好きな女と聞いて、彼の頭に一人の女性が思い浮かぶ。
気まぐれで、甘え上手で、猫のような彼女はまさに彼の好みにぴったりだった。
「ホラな、いるだろ」
彼の顔を見て友人は鬼の首を取ったかのように人差し指を向けた。
「例えば俺がその、今お前が考えた女をバカにしたとする」
「オレはその田村さんをバカにした覚えは無いけどな」
「いいから聞けよ、お前の好きな女ってアレか? と俺が言うわけだ、胸小さいな、とか、太ってんな、とかな? お前マジかって。そしたらお前はどう思うよ?」
どう思う? と聞かれればいい気はしない。が、いまいちピンとこなかった。
「大体お前はオレの好きな女を知らないだろ」
「知らねぇよ、でもお前はその女に恋い焦がれてるわけだろ?」
「……言ってて恥ずかしくないか?」
ファミレスの一画であまりに大きい友人の声に彼は少し首を低くした。
「気にすんな、な? お前はその女が好きで好きでしょうがないわけだ」
「ん、と……そういうんじゃ無いんだよな」
確かに、好きな女と訊かれれば真っ先に想うのは彼女の事だ。その点で言えば間違いなく恋だと言える。だけど、友人の言う通り恋い焦がれて仕方がないのかと言えば、そういう事もない。例えば、容易に会えないとしても、彼はそういう恋の形も平然と受け入れてしまうのだ。大事なのは自分の気持ちであって必ずしも欲求や欲望だけが恋ではない。
「は? お前何言ってんの。好きな女とは会いたいし、やりたいだろ」
「それは否定しないな」
「だろ? それが無かったら男として終わってるぞ」
「それ言ったら田村さんとはどう頑張ってもやれないと思うぞ」
ポスターをしまった胸ポケットを指差して彼が言うと、友人は胸を張ってそんなことは無いと言いきった。
「やってやれない事なんてねぇんだよ。恋愛に不可能は無い」
「現実を見ろ、現実を。お前と田村さんとの距離は限りなく遠いぞ」
「織姫と彦星だって一年に一回は逢えるんだぞ? 現実の距離なんて限りなくゼロに近いんだよ」
はいはい、ロマンチストごちそうさま、と彼が眉間を押さえると、友人はどういたしまして、と白い歯を見せた。
「で? どんな子だよ、可愛いのか?」
「それはお前には関係ないな」
彼女の可愛い所を上げればきりがないが、からかう気満々の友人に懇切丁寧に「こういう子で」などと説明する気にはなれなかった。ここに来てようやく友人の言っていた事を理解する。確かに好きな女をバカにされるのはあまり気分の良い物じゃない。
「悪かったな」と彼が謝ると、友人は「何が?」と訊き返した。
スマートフォンの画面を見る。暗闇に浮かぶ光には大きく時刻が表示されている。
よく晴れた空には細い月がほんの少しだけ世界に明かりを照らしているだけで、小さな星達が良く見えた。
彼はスマートフォンを傍らに置き、コンクリートに座って満天の星空を眺めた。休みの前の日、特に良く晴れた日などはこうして立ち入り禁止の屋上に侵入しては決まって星を眺める。
「織姫と……彦星、と」
天の川を挟んで夏の大三角形の二つを見つけると、手を筒にして覗いてみた。
「距離ねぇ」
伝説では二人の間に流れる天の川はお互いの声も届かないほど幅の広い川だったはずだけど、地上から見える天の川は意外なほど狭く、二つの星の距離はそれほど離れて見えなかった。
「さて、今日は来ないかな」
スマートフォンの画面をつける。時刻は深夜一時、来るとしたらそろそろかな、と思う。
管理人に内緒で屋上に持ち込んだ簡易テーブルに灰皿を置き、煙草に火をつけた。吐き出した煙は闇夜に溶ける様に消えていき、彼の脳裏にいつだったか彼女と二人で見上げたあの夜空を思い出させた。昔から星を見るのは好きだったけど、こうして良く星を眺めるようになったのはあの時の星空がきっかけだった。
星空の下で目を閉じると今でも思い出す。目を開ければあの可愛らしい笑顔がすぐそこにあるような気がして自然と笑みが零れた。彼女の声、彼女の香り、彼女の温もり、普段は思い出す事も無くなったその全てが、夜空の下では鮮明に蘇る。そして決まって一つの曲を思い出す。
――通常、セレナーデっていうのは、男性が女性を想って唄う歌なんだけど――
テーブルに頬杖をついて彼は頭に浮かんだ曲を静かな夜に小さく口ずさんでみた。決して上手ではないけど、この静かな夜に彼の口ずさむ唄は間違いなく彼女に捧げられたものだった。
セレナーデ? そんなんじゃないよ、と頭を振る。オレはそんなにロマンチストじゃないよ、と。するとスマートフォンがメールの着信を告げた。一瞬の驚きの後おもむろにスマートフォンを取り上げる。
『寝てる?』
端的な彼女の文字が画面に映し出されて思わず心が跳ねる。
現実とイメージの距離は限りなく遠い。彼がここでいくらセレナーデを奏でたところで誰に届く訳でもないし、人に聞かれれば恥ずかしいほどの勝手な自己満足だ。それでも、もし神様がいるのだとしたら、彼のへたくそなセレナーデを聞いて思いっきり意地悪な巡り合わせを用意してくれたようだ。
ま、いっか。
彼は夜空を見上げて神様にべろを出した。
あんたがくれた意地悪なチャンス、どういう結果になっても後悔はしないよ、と。すると天の川を横切るように星屑が流れた。あれはもしかしたらかささぎだろうか、だとしたら七夕じゃなくても二人は逢えるじゃないか。そう考えて堪え切れず彼は声を出して笑った。
神様だの、織姫と彦星だの、セレナーデだの、今日はなんだかおかしい。きっとそれもこれもあの友人のせいだ。
『起きてるよ』と打ち込んで送信する。光の速さで飛ばした文字達はきっとすぐに彼女の元へと届くだろう。今この時二人の距離は限りなくゼロに近かった。