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綺麗な世界

 ああ! 世界はなんて綺麗なんだろう! なんて賑やかで色鮮やかで、そしてなんと満ち足りたものであることか!




「最近楽しそうだねぇ、エティカ。恋でもしたのかい」

 いつものおしゃべりの時間、カリナエ婆さんがエティカにそんなことを言った。カリナエ婆さんの見当違いな指摘にエティカは首を横に振ったが、それでも肯定するようにニッコリと微笑みかえす。

「最近ね、毎日が楽しいの。ちょっとしたことでも色んな発見があるんだなぁって知れて、それを感じられる今が素敵で嬉しい。なんでもないことのように思えて、世界って、楽しいことで溢れていたのね」

 エティカがあまりにも嬉しそうにするものだから、カリナエ婆さんもついなんだかおかしくなって笑ってしまった。最近のエティカは、俯きがちでポソポソと話す以前の彼女とは違い、よく笑い、よく話し、とても快活になった。エティカを自分の孫のように可愛がっていたカリナエ婆さんは、ただそれが純粋に嬉しかった。どうしてそうなったのか、彼女は言わないけれど。

「そうかい。エティカがそんなことを言うなんて、本当に毎日楽しいことだらけなんだろうねぇ。アタシにもおすそ分けしてくれないかい」

「もちろん。お婆さんには一番におすそ分けする。だってわたしのたった一人の大切なお友達だもの」

「それは嬉しいねぇ。そういえばお父さんは元気かい。最近村に来てないようだけど」

 さっとエティカの顔が青ざめた。盲たカリナエ婆さんには顔色から読み取ることはできなかったけれど、それでも口をつぐんだエティカに何かを感じ取った。

「あの……父は……体調を少し崩して、隣村まで、行っているの。もしかしたら向こうで当分、療養かもしれなくて」

「ああ、ああ、そうなのかい。ごめんねぇ余計なこと聞いて。そんなに落ち込みなさんなエティカ。きっと大丈夫だから」

 先程とは打って変わって泣きそうな声で話すエティカにカリナエ婆さんは慌てふためき、エティカの背中を撫でて慰める。これほどまでにエティカが落ち込むなら、重い病にでもかかってしまったのかもしれない。

 可哀想な事を聞いてしまったと後悔するカナリエ婆さんに、けれどエティカはこっくりと頷き返した。

「うん、大丈夫なの。きっと治って帰ってくるから。村長さんも、その間なら少しだけなら援助するって言ってくださったから。三月くらいだったら、多分大丈夫。だからわたし、信じて待っているわ」

「そうだねぇ。エティカの言うとおりだ。困ったことがあったらすぐにこの婆さんにお言い。できることなら助けてあげられるからね。ほら、野菜を持って行きな。今日はお代はいいから」

 エティカははじめ断ったが、言ったとおりがんとしてお代を受け取らないカリナエ婆さんに折れて、何度も礼を言って去っていった。そんなエティカを見送りながらカリナエ婆さんは笑顔を浮かべていた表情を曇らせ、小さくため息をつく。

 幸せそうなエティカ。それとともに、父の話をすると可哀想なほど落ち込むエティカ。

 その相反した奇妙な移り変わりはカリナエ婆さんの不安を呼び起こし、エティカへの心配をさらに募らせる。何事もなければいい。あの子が笑っていられるならそれでいいのだ。それでも、もしもあの笑顔が仮初だとしたらどうしよう。もう一度損なわれるようなことになってしまわないのか。

 エティカの笑顔を素直に喜べないことに、カリナエ婆さんはもう一度重たいため息を吐いた。




 エティカの新しい日常は、以前にも増して大忙しとなった。日課に加えて星術師の大先生の助手という名の家事手伝いをさせられる。夜は夜で星屑を集めなければいけない。それでもエティカはほんの少しも辛く感じなかった。むしろ毎日が楽しくて、こんな日々ならずっと続いたっていい。そんなことすら思い始めていた。



 ――――あの日、エティカは星術師の言うとおり、けれど半信半疑で空を見上げた。生まれて初めての、怖いくらいに明瞭な世界。まともに見渡した何もかもがくっきりと見え、自分が今までどれだけのものが見えていなかったかを知った。

 そして星空。寝物語に聞かされて、いつも見たいと願っていた星。それがあの時、エティカの視界いっぱいに広がっていた。吸い込まれそうな藍色の闇の中に、ぽつりぽつりと転がしたように輝く星たち。大小様々、色も一つ一つ違うような気もしたし、輝き方も違っていた。消えてしまいそうなのに、瞬いては輝き続けている。これが星なのだ。

 胸いっぱいに溢れる想いに切なくなってエティカが胸を抑えると同時に、視界の隅で何かがきらめいた。あっと目をやるとそこにはもうなにもなかったが、握っていた空瓶からはコロンとひとつ小さな音が聞こえた。見れば小指よりも小さな粒がひとつ、ささやかな光を放ちながら瓶の中にひとつだけ収まっている。

 エティカはすぐにわかった。これが星屑なのだ。そして先程視界の隅で捉えたのが、星のかけら。小さな頃母がエティカに教えてくれた、流れ星。星術師が言っていたのは、天の切れ目を探すことだったのだ。そしてこの星屑を瓶いっぱいになるまで集めること。

 ほのかに発光するそれを見つめながら、エティカは不思議な心地でそれを胸に抱いた。これが今のエティカにできること。なんて素晴らしいんだろう! きっと、きっとエティカはやり遂げられる。

 今までにない確信を抱きながら、エティカはもう一度空を見上げた。

 満天の星空がエティカを包み込む。お母さんが見守っていてくれている。あの奇跡のかけらたちを見ることができる今なら、それを心から信じられる気がした。




 エティカの日常に増えたのは、視力だけではない。

 例えば朝。朝告鳥が鳴くと、エティカはぱっちりと目を開ける。そしてまっさきに窓へ向かい朝日を浴びて、一晩のうちに澄んだ空気を思いっきり吸い込んで深呼吸する。以前はただ痛々しい眩さだった朝の世界は、エティカを優しい光で包み込んでくれる。自分が心からの笑顔を太陽に向けられていることに、毎朝感動を覚える。

 井戸から水を汲む時もそうだ。桶に汲んだ水が日の光に当てられてたゆたう時の、あの煌きと言ったら! 思わず時間を忘れてしまうほど、日差しの下で何度も水を揺らしてそれを眺め続けた。


 他にも色々とあるけれど、エティカが知ったのはこの世界があらゆる光の恩恵に預かれていることと、たくさんの色で溢れていることだった。

 薄い膜を何枚も貼ったような、透き通ったそらの色。思わず手を伸ばしてみたくなるほど様々な形に姿を変える、柔らかくて暖かそうな雲。双子の兄弟の美味しそうな桃色のほっぺに、キラキラと悪戯っぽく煌く栗色の瞳。父と双子が赤毛であることは、最近知った。

 何しろそれまでは何も見ることがなかったため、何色だと言われてもピンと来なかったのだから仕方ない。だからこそエティカはここぞとばかりに双子に色を尋ねて確かめたりして、首をかしげる彼らをよそに色の恩恵を楽しんだ。

 双子には父は隣町へ仕事に行ったと教えた。父は鍵をかけたままのあの部屋で眠ったように、けれど食事も呼吸も何もかもを必要とせず横たわっている。時折恐ろしくなる。それでも、父の体に身を寄せて体温を確かめてはエティカは自分を慰めた。

 だからといって、不安ばかりでもない。豊穣祭で縫う妹の為の衣装の刺繍は今まで一色または二色でしか縫えず、模様も簡単なものしか縫えなかったエティカだったが、今ならもっと色も増やせるしもっと複雑な模様も縫えることに気がついた。なにしろ日が落ちてからよく見えない手元を、慎重をきして注視しながら縫うため時間の浪費が激しかったが、これほど明瞭な視界だったらさくさく縫える。これまで我慢してきた自分の分も縫えるかもしれないと思うと、エティカは嬉しくてたまらなくなった。

 いつも村のはずれでみんなが楽しく歌い踊っていた祭りに、自分もささやかながら参加できるかもしれない。ずっと憧れていたものが現実へと向かっていくことを期待して、エティカの心は日々少しずつ浮き立っていった。




 星術師の塔へ向かう途中通り抜ける森の道すがらも、エティカの楽しみの一つだ。光のかけらを散りばめた木漏れ日はいつ見ても目に楽しいし、光に透けた緑の葉の瑞々しさは例えようもなく美しい。木々はどっしりと大きく構え、それに蔦う植物はつるが愛らしい。足元に咲く小さな花をじっと眺めるのも楽しくて、時々塔につくのが遅れてしまい大先生に嫌味を言われたりする。

 エティカは星術師の彼を大先生と呼ぶことにしたが、彼にはサダルスゥドという名があり、大先生なんて大仰な真似はよしてくれなんて至極迷惑そうに彼は言っていた。けれどやっぱり名前で呼ぶなんて大それたことはできなくて、何度も大先生と呼びかけてはうんざりとした顔を向けられた。

 そんな大先生の助手といえば聞こえはいいが、エティカの課せられた手伝いはなんてことはない、塔の雑事だった。大抵は言われた部屋の掃除と洗濯を行うだけ。星術師はその性質上、というか職務上基本規則正しい生活とは無縁なため、食事の用意は簡単な軽食の用意を言いつけたとき以外はいらないと言われた。

 大先生は確かに自分で言うとおり、そんな生活に身をおいているらしく、エティカが訪ねる真昼間に寝ている時もあれば、前夜から全く変わらず同じ部屋に同じ服でじっと机に向かっていることもあった。

 そんな生活のせいか彼の顔色はいつも悪く、目の下には濃い隈が出来ていた。おまけに研究に没頭するあまり寝食を度々忘れるせいか、体つきは痩せ気味で骨ばっていて、背丈だけはずんぐりむっくりと高いのにも関わらず猫背気味で、いつも異様な空気を孕んでエティカを出迎えた。そういった生活をしているから心身も侵されあんなに偏屈でいつも嫌味を言うのだろうかと、最初のひと月は見当違いの心配をしたものだったが、彼にとってはそれが本質のようだというのは二月目で理解した。

 要はあの人は言葉を飾らないのだ。思ったことを言うだけで、言葉にむやみに暗喩を入れたりはしない。言葉を飾らず意味を隠さない。こんなことを言ったら大先生は怒るかもしれないが、エティカは大先生を素直で正直なお人なのだと思うことにした。

 時折あけすけすぎる言葉にエティカの胸もちくんと痛んだりすることもあるが、リゲルのようにエティカに対して悪意を向けたりはしない。柔らかそうな黒髪から覗く、鋭い眼差しを彩るエメラルドの瞳を向けられるとどきっとすることがあり、そういう時エティカはどぎまぎしながらも、カリナエ婆さんの言うことは本当で大先生は“いいおとこ”なのかもしれない、と考えたりする。

 ともかく、悪い人ではないのだ。だからこそ塔へ向かうことも苦痛ではなく、むしろ大先生に投げられる嫌味がだんだんと楽しみになっていくエティカだった。





 今日はお婆さんに沢山野菜をもらったし、果物までいただいたので大先生におすそ分けしよう。

 スキップでもしそうな勢いで、エティカはもう歩き慣れた塔への道をたどる。村へは不審に思われるといけないためいつも通り目隠しをして杖も持っていくけれど、森へはエティカの家からまっすぐに迎えるため必要ない。少しでもたくさん色んなものを見ていたいし、もっといろんなことを知りたい。感じたい。

 それに――――大先生は、エティカを見ても、エティカの目を見つめても、恐れたり疎んだりは、しない。

 胸に灯る仄かな暖かさを心地よく感じながら、はやる足をごまかすために木々を見上げた。けれど笑顔を浮かべたエティカの視線の先に、彼が、居た。

「……エティカ?」

 リゲルだ。

 エティカがのけぞるほど熊のように大きく、がっちりとした体つき。日に焼けた金髪に、高い鼻筋、意外なくらい澄んだ水色の瞳。いつかこっそり目隠しをずらして確認したリゲルの姿がそこにあった。

 なぜ、ここに。

 そう考えたのは、エティカだけではなかった。

「おい、こんなところで何してんだよ…………ラグナ。なんだ? 杖も目隠しもないじゃないか。何やってんだこんなところで」

「あの、わたし……」

 エティカはリゲルの前で、反射的に目を閉じていた。どうしても彼には目を居られたくない。いや、大先生以外の誰であっても、見られたくなかった。

「まさか迷い込んだのか? そんな格好で出歩くからだ。つくづくどんくさい女だ」

 怯えて身を縮こませるエティカに気づいているのかいないのか、リゲルはせせら笑いを浮かべてずんずんと距離を縮めてくる。

 エティカが半歩下がってももう遅い。いつの間にかエティカのすぐ前にたどり着いて、いつも村でしているように彼女を見下ろしていた。

「まあいいや。ちょうど俺も帰るところだったから、ついでに家まで送ってやるよ。その代わり、目を見せろよ」

「……え?」

「お前のラグナを見せろってんだよ。目隠しもしてないんだし、いいだろう? ここには俺とお前しかいないしな」

 ――――いやだ。エティカは言われた意味を察した瞬間、これまでにない拒絶をリゲルに抱いた。絶対に嫌だ。リゲルになんか見せたくない。エティカの目はラグナじゃない。肝試し紛いの感覚でリゲルに見られるのなんかゴメンだ!

 そう思うと、体の反応は早かった。リゲルの隙をついてさっと身を引くと、そのまま彼の横をすり抜けてエティカは走り出した。まさかエティカが走って逃げるとは思わなかったのだろう。隙を突かれたリゲルの声が後ろから追いかけてくる。

 幸い、エティカが走るのはこれが初めてではない。慣れていないとはいえ、一度は何も見えないまま夜の森を走ったのだ。その時の恐怖と走り続けることの難しさに比べれば、今のほうがずっと簡単に思える。木々を避け根っこを飛び越えながら、エティカはリゲルを振り切る思いでがむしゃらに走った。

 家に向かってもどうせリゲルにはすぐに追いつかれてしまう。そうなったら怒ったリゲルに何をされるか想像もつかない。だったら近い方の塔に向かって入ってしまえばこっちのものだ。今までの自分からは考えられない突飛な行動に我ながら笑いだしそうなおかしな心地になりながら、エティカは休まず走り続けた。



 エティカが息も絶え絶えに塔へとついて振り返ると、誰の姿もなく声も聞こえず、ただいつもの閑散とした森が広がっているだけだった。リゲルは諦めたのだろうか。まさかエティカに追いつけなかったなんてことはないだろう。あとでいじめてやればいいとでも思ったのかもしれない。野菜をもらったぶん、当分は村に寄らないようにしよう。エティカはそんなことを思いながら、塔の中へと入った。


 エティカはいつも塔に入ると、研究室にこもっている大先生に挨拶をしてから仕事に取り掛かる。そんな必要はないと彼は迷惑そうにするけれど、それが礼儀だと思ったし、何よりエティカがしたいので、余程集中しているとき以外は声をかけるようにしていた。

 それにその時は大抵大先生が根を詰めて机に向きっぱなしであることが多いため、休憩を取らせることもできる。大先生のためにもこれが最善なのだとエティカは信じて、今日も塔の螺旋階段を登る。

 そうして研究室にたどり着きノックをすると、いつもと違って返事があった。大先生は滅多に返事をしない。おや、と思いながらもエティカは失礼しますと声をかけてから部屋へと入った。

「やあ。今日は少し遅かったじゃないか」

 様々な薬品やエティカには用途もわからない物がひしめき合っている、広いはずの狭い部屋の中の中央で、大先生が椅子に腰をかけたまま振り返る。今日はとても幼く、10歳の男の子のような風貌でエティカを出迎えた。

 これも、エティカの日々の楽しみの一つだった。大先生は、日々風貌が変わる。今のように幼い時もあれば、カリナエ婆さんのような老人になっている時もあるし、最初に出会った時のような壮年の男性である場合もある。

 日によって違うのでエティカは実年齢を聞いてみたが、そんなことを聞いてどうするのかと逆に尋ねられ答えに窮してしまい、結局教えてはもらえなかった。だからエティカの中での大先生は年齢不詳なのだが、カリナエ婆さんの話では若い頃からいたというのだから、実は相当年を食っているのかもしれないとも思っていた。

 それでも幼い姿に見慣れるはずもなく、あどけない容姿に尊大な態度をとる見た目は少年の大先生に面食らいつつ、エティカはもじもじしながら籠を手前に掲げた。

「あ、あの、お婆さんと話し込んでしまって。野菜をたくさんいただいたんです。あと、果物も。あとで大先生にもむいてあげます」

「いいよ別に。食事以外で余計に時間を浪費するのももったいない」

 にべもない。がっくりしながらも、それでもやっぱり剥いておこうとエティカは心の中で決意した。そうしていつもの通り部屋を出ていこうとすると、珍しく大先生に呼び止められた。

「ちょっと。頭に葉っぱがつき放題だよ。そんな頭で掃除されてもゴミが増える一方だ、そこに鏡があるから落としていきなさい」

 頭に葉っぱ。きっとリゲルから逃げてくる途中でついたものだろう。慌てすぎてそんなことにも気づかず大先生の前に立ったことに恥ずかしくなりエティカは赤面したが、鏡と聞いたとたんその赤もさっと引いてしまった。

 大先生に勧められた鏡は積まれた物品に立てかけられるようにして無造作に置いてあったが、エティカはむしろそれから目をそらすように顔を背けて、申し訳程度に会釈を返した。

「ゴミ、が散らばると悪いので、そ、外で払ってきます。すいません。じゃあ、いきますね」

「…………ああ。じゃあ、仕事を終えたらまたここにおいで」

「は、はい。失礼します……」

 そそくさと部屋を出ていったエティカの横顔は青ざめており、それを見送る星術師の幼い面差しも、どこか気難しそうに陰っていた。




 掃除と洗濯を終えて、エティカは果物を剥いてから大先生の部屋へと向かった。夏の果物は瑞々しく味が濃い気がする。大先生にも気に入って欲しい。

 心持ち浮き立ちながら部屋を尋ねると、今度もまた返事があった。扉を開けると鼻腔をくすぐる薬草の甘苦い香りが、エティカの心を落ち着かせる。いつの間にかこの匂いにほっとするようになっていた。

 そんなことを思いながらテーブルに向かい向いた果物を乗せた皿をエティカが置くと同時に、大先生が振り返った。なんと、先程の姿からまた変化していた。10歳くらいだった彼はこの短時間でまた年をとったように大きくなり、けれど肌は瑞々しく面差しは若かった。まるでエティカと同年代の青年のようだ。あっけにとられたエティカは呆然とし、ついつい大先生をあけすけに凝視してしまった。

 そんな彼女の反応に興味がないのかあえて無視しているのか、なんてことはないように大先生が立ち上がる。

「私の古い友人がね、落し仔――君のように突然変異で体毛から色素欠乏を起こしていたり、肌や身体が弱かったりするものたちの総称だよ――の研究をしていてね。君の話をしたらぜひ詳しい情報が知りたいと言うんだ。悪いけど、可能な範囲でいいから色々見させて貰ってもいいかな」

「――は、はぁ……」

 エティカには何がなんだかわからないが、できることなら協力するつもりだ。

 大先生はエティカの身長や体重を量ったり、目に何か光るものを当てたり振ったり、口の中を見たりと、よくわからないけれど色々なことを試した。特に苦痛を伴うものではなかったが、いかんせん大先生の距離が近すぎた。年齢不詳とはいえ見た目は青年の大先生が年頃のエティカに接近すれば、少なからず動揺するのが普通の反応だろう。

 もちろんエティカも例に漏れず、大先生が何事もなかったかのように淡々と終えたことを告げた時には、エティカは全身桃色に染まってしまっていた。体が熱くて妙に恥ずかしい。すぐ逃げ出したいのに体が固まって動けない。

 そんな風に内心じりじりと焦るエティカの心も知らず、大先生はリラックスしたように馴染みの椅子にどっかりと腰を落ち着けた。

「本当は皮膚の採取なんかもできたらいいのだけどね。君、生身の人間だし。まさか殺すわけにもいかないし。第一、女の子の肌に傷をつけたとあっちゃ君のご友人のうるさい婆さんにどやされかねないからな。ひとまずこれで終わりだ」

 色々と問題のある発言をこともなげに言いながら、大先生は手にしていた羽ペンを机の上に転がせる。

 エティカはというと大先生の言葉に、はっとした。まだできることがあるなら、エティカはなんでもする。なんでもしなければならないのだ。

「あの、わたし、いいです」

「なにが」

「ひふ……皮膚、とってください」

「……はぁ?」

 大先生がこれでもかと怪訝な表情で振り返る。普通の人が見たら怯えるような鋭い目を向けられても、もう二月もそれと向き合ったエティカには聞かなかった。それどころか頬を上気させ、座っている大先生に大胆に詰め寄った。当然、無意識にでしかないが。

「あの、わたし、大先生に感謝しています。今だけとは言っても、目をみえるようにしてもらって、いろんなものを見れて、知れて、見えるものからいろんなことを感じるんです。世界がこんなに綺麗なものだったなんて知らなくて、しれた今がとても愛おしい。だからわたし、大先生にもそれをお返ししたい。わたしなんかで役に立つなら、こんな気持ち悪い肌なんかでいいなら、いくらでもとってください。そのほうがわたしも、」

「ああ、気持ち悪い。きもちわるいね!」

 突如、苛立ったように大先生の声がエティカの話を遮る。びっくりして口を閉じたエティカを下から睨めつけるようにして、大先生はふんと皮肉めいて鼻を鳴らした。

「黙ってくれないか。不愉快だよ。気持ち悪くて仕方ない」

「……あ」

「言っておくけど君の肌のことじゃないよ。君自身がだ。君自身のその態度と姿勢が気持ち悪い! 聞いていて気分が悪いんだよ」

 大先生が、ひどく怒っている。そのことにようやく気付いたエティカは青ざめ、そしていつもどおりの彼のあけすけな言葉に、いつも以上に胸の内を削がれるような痛みを覚えた。

「なんだいその顔は。傷ついた? 私はよくよく無神経だと言われる。悪かったね、傷つけて。だが本当のことだ。それに言っておくけれど、君も私に負けじ劣らじ無神経だと思うよ」

「……わたし?」

「そうだ。君がだよ。気持ち悪い肌ってなんだ? しょうがないだろうそれが君の肌なんだから。同じような症状の人間にも気持ち悪いと言うのか君は。そんな顔をしながら。さも傷ついていますという顔をしながら、同じ痛みを平気で施すわけだ、君って人は」

 ――そんな。そんなつもりじゃない。そんなつもりで言ったわけではない。言葉もなく首を横に振るエティカを見上げ、そんな否定すら一笑に付す様に彼は冷たく笑い飛ばした。

「違わないよ。世界の何が綺麗だって? 世界は世界だ。綺麗も汚いもない。脚色するのは勝手だが事実と捉えるのはよしてくれたまえよ。それでも綺麗だと抜かすなら何故鏡から目を背けた」

「そんな、わたしは、だって」

「だってなんだ。目が赤いからか。肌や髪が白いからか。他の人間と違うからか。言い訳にもならないね。自分自身から目をそらしているくせに世界がなんだとは、とんだ綺麗事だよ。お綺麗すぎて反吐が出そうだ」

 本当に反吐が出そうだと言わんばかりに眉をひそめ、大先生が立ち上がる。立ちすくんでしまったエティカに詰め寄り、冷ややかな瞳に彼女を映して言い聞かせるように囁いた。

「いいか、私はね、事実に基づいてこの研究に従事している。偽りも誤魔化しも通用しないからだ。正確に星を詠まなければ総てが無に帰す繊細なものだからだ。そんな私が我慢ならないのはね、正当性の欠片もないものだよ。偽りと誤魔化しと脚色に穢された、万人が振りかざす選り取りみどりの真実とやらだ」

 言い含める彼の表情からは怒りも苛立ちも消え失せ、ハッとするほどに真摯だった。エティカの心に、深く深く突き刺さるほどに。

「落し仔の多くは容姿を隠そうとはするが、目を隠そうとまではしない。なぜなら見えないわけではないから。見えているものを隠すような、そんな不便なことをわざわざしたりはしない。だというのに君ときたら完全な盲のように振舞っているときた。本来日をよけるなら君の父上から貰った日傘で十分だというのに。父上の好意に泥を塗ってまで視界に蓋をしている。それはなぜか」

「それ、は」

 ――それはエティカの目がラグナだから。不吉だから。だから、見せてはいけないと。見えてはいけないと。エティカは自分の目が。

「病的なまでの自虐的思考。そこはたいそう居心地がよさそうだね、エティカ」

 エティカはエティカの目が嫌い。肌が嫌い。色が嫌い。だから、いじめられても仕方ない。いなくなっても誰も困らない。エティカはいらない子なのだ。そう信じてきた。ずっと。ずっと――――。

「君の価値は他人が決めるものじゃない。己の価値は己で見つけるものだ。だが君はその劣等感で目を覆い隠し何も見ようとしない。知ろうともしない。そんなものは正当な評価ではない。……君に価値があるか、ないか。今の君はそれを決め付ける権利なんて、持ち合わせていないんだよ」

 みえた。

 見えて、しまった。

 全てのものが。エティカの目に。大先生の瞳の中に、呆然とした自分が映る。

 病的なまでに白い肌。老婆のような白い髪。ラグナと同じ、不吉の色をもつ瞳――――。


 エティカは逃げた。リゲルから逃れた時のように、いやそれ以上に、がむしゃらに走って塔から降りて、森を抜け、転がるように家に戻った。

 驚いている兄妹を尻目にまっさきに自分の部屋へ駆け上り飛び込むと、チェストの引き出しを抜く勢いで引き出してその中身をまさぐり手にとった。

 もどかしい手つきで頭の後ろに回し、固く結びつける。もう取れないように。ずれないように。何も見えなくなるように。

 全てが済んで再び視界が闇に包まれ、エティカはようやくそこで全身の力を抜いた。ほっとした。今は見えることがなによりも、恐ろしかった。

 うずくまるエティカの傍らに置いてある瓶の中には、星屑が半分ほどまで埋まっている。


 あとひと月。

 あとひと月で、ビンの中身を埋めなければならない――――。

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