ラグナ
エティカは走っていた。あてもなく、暗い森の中を、何かに追われるようにただ必死に懸命に走り続けていた。どうしてこんなことになっているのか。エティカにすらわからない。今どこへ向かっているのかもわからない。それでも急がなければ。会わなければ。もう一度。あの偏屈な星術師、その人に。
始まりは日常の小さな綻びから。思い返してみればあの朝、いつもなら一番に起きてくる父が降りてこなかった。父は村では珍しく僅かに識字を習得しており、村長の補佐としてあちらこちらと忙しなく働いていた。この日は安息日だったために、またいつものように村長から本を借りて夜ふかししていたのかもしれない。たまにはそんな日もあるだろうと兄妹たちにあとで父を起こして朝食を食べさせるようにと言いつけて、エティカはいそいそと村へ出かけた。
そこであの星術師とひと悶着あり、その後にカリナエ婆さんのところで豊穣祭までに縫う繕い物のための刺繍糸を分けてもらい、少しの野菜を買い、いつものようにカリナエ婆さんの長話に付き合い話し込みすぎ、帰り道もいつものように心持ち早足で家に帰った。
家に着いたエティカは家の裏の畑の手入れを頼んでいたはずの兄妹がいないことに気づき、憤慨しながらも日傘を片手に手探りで草取りに精を出す。間違って苗を引っこ抜いてしまわないよう、慎重に。そして残りの時間を掃除と洗濯物の取り込み、家畜の世話をしてから夕食の準備に取り掛かった頃には日が傾き始め、日中遊びほうけていた七つになる双子が帰ってきた。
叱ってもものともしないやんちゃな双子にため息をつきつつエティカが夕食の支度を済ませた頃、ようやく気がついた。そういえば父はどうしているだろう。朝ちゃんと起こしたのかと双子に聞くと、一度声をかけたら返事がなかったため自然に起きるだろうと思って出かけたという。悪びれもなくそんなことを言う双子にエティカは今度こそきっちりと腹を立てて双子を叱りつけ、まさかまだ寝てはいないだろうと思いながらも父の寝室へと向かった。
エティカは漸く己の犯した過ちに気がついた。一歩部屋に足を踏み入れると、人の気配があった。まさか今までずっと寝ていたのかと呆れて声をかけようとしたその瞬間、エティカは異変に気がつく。呼吸の音がやけに小さい。それに小さくうめき声のような声も聞こえてきた。戦きながらも恐る恐る近づき、父を呼んでみても返事がない。寝台に近づきその体に触れたところで、やっと現状を把握した。父の体は小刻みに震え、掛布の上からでもわかるほどに発熱していたのだ。手を伸ばすと父の額はじっとりと汗に濡れ、エティカの手のひらまで焼けてしまいそうなほどの高熱を孕んでいる。
何度声をかけても父は返事をしない。呼吸もどこかか細く心もとなかった。いつからこうだったのか。エティカの背筋を滑るように寒気が覆っていく。心臓だけが嫌にうるさく、そのうち父の呼吸までかき消してしまいそうなほどエティカの胸を打ち付ける。
どうしよう。気がつくとエティカまで震えていた。このまま崩れ落ちて朽ちてしまいそうだ。それでもなんとかしなくては。
必死に思考を巡らせるエティカの背後から双子が不安そうに声をかけてきた。ここでようやくエティカはいくらか理性を取り戻す。感染症の可能性もあるため双子を父の部屋から追い出し、水桶と手ぬぐいを用意するように言いつける。その間にエティカは父の衣服を緩め浮き出た汗を出来る範囲で拭い、双子の用意してきた水で父の額に濡れた手ぬぐいを載せ、コップ一杯の水を意識も定かでない父の体をどうにか起こしなんとか飲ませた。そのまま双子に父の様子に注意するよう言いつけると、エティカは杖を持ち家を出た。
――向かうは北の森。星術師の住まう塔。早足で森までたどり着いてから、エティカは杖をかなぐり捨てがむしゃらに走り出した。エティカが生まれて初めて、走った瞬間だった。
村に医者はいない。隣村にはいるが、そこまで行って帰ってくるのに半日はかかる。それだったら医術もかじっていると聞く星術師に直談判して応急処置だけでもしてもらったほうがいい。だからエティカは真っ先に森へと向かった。森のどこに塔があるかなんて、知りもしないのに。けれどそうまでしたところで、父の容態がそれまで持つかなんて誰にも保証できない。それどころか一日以上放っておいたのだ。まだ息がある方が不思議なほどの高熱だった。
どうしてもっと早く気づけなかったのか。エティカはおぼつかない足取りであてもなく走りながら、同じ後悔を頭の中で何度も繰り返し続けた。あの時もそうだった。母が天に召された時も気づけなかった。
自分が盲であったばかりに! 視力がない分、敏感でいなければいけなかったはずなのに!
泣きだしそうになりながらもそれをこらえ、何度もえづきそうになる喉を飲み下しながらがむしゃらに走り続ける。どうせ場所がわからないのならとにかく探し続けるしかない。道中でエティカは何度も『大先生』と叫び続けた。今にも胸が爆発しそうなほど苦しくても叫び続けたし、靴が片方なくなって木々の枝や葉で足が血だらけになろうとも走り続けた。
何度も木にぶつかった。根っこに躓いてはみっともなく転び、それでも何度でも起き上がり走っては彼を呼び続けた。それしかできない。今のエティカにはそれしかできないのだと、半ば強迫観念にも似た思いに追い立てられながら。
そして何回、何十回、百回ほどはゆうに呼び続けた頃だったろうか。既にエティカ自身も虫の息となろうというとき――――彼が現れた。走り続けてボロ雑巾のように成り下がった、エティカの前に。
「喧しいのは嫌いなんだがね、お嬢さん。この私に何の用だい。こんな夜更けにそんな有様で」
昼間聞こえた、あの渋く掠れた傲慢さのにじむ声。こんな夜更けとは、あれから一体どれほど経ったのだろう。エティカは現れた星術師の至極迷惑そうな声音よりもそちらが気に掛かり、自分の有様も何もかもそっちのけで掠れかかった声で包み隠さず星術師に話した。
彼がエティカのしどろもどろな話をどこまで理解できたかは知れない。ただ『ふぅん』とどこか物知りげにひとつ呟くと、ふわりと一陣の風がエティカの頬を優しく撫ぜた。あの時と同じ、どこか癖のある薬草の青くも甘くもある香りがエティカを包み込む。
刹那、エティカの耳に届いたのは爆発的な鳴き声だった。一つではない。二つの音が不協和音を叶えながら大音量で鳴り響いていた。双子の声だ。彼らが泣き叫んでいるのだ。一瞬エティカは彼らが自分のあとをついて森へと迷い込んだのかと思った。けれどそれは違う。ふと触れた地面はざらついた土の感触ではなく、硬い木の感触がした。
間違いない、ここはエティカの家なのだ。どういうわけか一瞬で戻ってきた。戸惑いながらも何度もその感触を確かめるエティカの前で、耳を劈くような鳴き声とは違う、至極うんざりとした声が聞こえた。
「喧しいねえ。どうにかしてくれないか。これでは為すべきことも何一つだって為せないよ」
この非常事態に場違いなほどのんびりした声は、エティカの心を少しだけ宥めてくれた。
落ち着け。これは大先生がやったことに違いない。これだけのことができる方にお任せすれば、父も助かるかもしれない。半ば自分自身に言い聞かせるようにしてそう考えたエティカの行動は早かった。
父の部屋の前で泣いている双子を宥めながら自身の寝室へと導き、もう大丈夫だから早々に寝るようにと強引に寝かしつける。双子はしゃくりあげながらも何度も大丈夫かとエティカに尋ねたが、エティカはにっこりと微笑んで何度でも同じ答えを返した。『信じなさい』と。
その言葉を自分自身が裏切っていることを、心のどこかで自覚しながら。
子供部屋の扉を閉じたとたん、エティカは自分が震えていることに気がついた。閉じた扉に未練がましく掴まっている両手も、膝も、肩も、全身が隠しきれないほどに震えていた。
エティカは恐れているのだ。父の部屋に一人で向かうことが恐ろしい。もしも、もしも間に合っていなかったらどうしよう。よしんば父が持ちこたえていたとして、彼に治せないと言われたら、自分はこれ以上どうしたらいいのだろう。できることならエティカの命と引き換えに父を助けて欲しい。それが最善なのだ。けれどお前の命などいらないと言われたら、もうエティカにできることは何もなくなる。父がいなくなれば一家を支えられなくなる。エティカではあの双子どころか自分の身さえままならないのだ。
どうしたらいいのだろう。父に助かって欲しい。一方でそれを信じることも怖い。どちらにも傾けない。やはりエティカはラグナなのだろうか。この家のラグナ《不吉》だったのだろうか――。固く結んだ目隠しが、エティカの目尻をじわりと滲ませた。
「ちょっと」
「ひゃっ」
背後から不機嫌をにじませた声をかけられ、エティカは飛び上がりそうなほどに驚いた。鼻腔にあの甘苦い薬草の匂いが仄かに香った。エティカが恐る恐る振り向くと、どうも真後ろに星術師の大先生が立っているようだった。
「いつまで人を待たせるんだい。処置はしたから、来なさい」
そう言って有無を言わせずエティカの手を取ると、勝手知ったるとばかりにずんずんと歩き出す。骨ばった大きな手のひらに、エティカの手がすっぽりと包まれている。思いのほか強く握りこまれたそれに、しっかり歩きなさいと励まされているような気がして、エティカは滲んだ雫を振り切るように頭を振って彼のあとに続いた。
「単刀直入に言うと、君の父上は既に死にかけていた」
星術師はひとまず父親の容態が落ち着いたことをエティカに知らせると、話があると言った。階下に降りエティカの勧めた椅子に腰を落ち着けた星術師は、世間話の延長といった様子で淡々とエティカに告げる。
「今はね、ただ症状の進行を止めた……と、いうよりも君の父上の状態を停止させたといっていい。無理がたたっていたのだろう。もしかすると寿命なのではないかな。なにか誤解をしているようだがね、私は医者ではないのだよ。症状を止める術は持とうとも、治療の術は持たないし、なによりあれはおそらく医者でも匙を投げるだろう」
「そんなっ」
なんてことを言うのだろう。助かったと思ったのに。エティカは星術師の足元に縋り付く思いで跪いた。
「そのようなことをおっしゃらないでください。なんでもします、なんでもしますからっ。せめて明日お医者様を呼んでくるまで……」
「だから、手遅れなのだよ。君が一番よくわかっているのではないのか」
なにがなんでもすがりつこうというほどのエティカの勢いが、星術師の呆れたような一言によって停止した。収まっていたはずの震えが思い出したようにぶり返す。罪人はお前だと言われているような気がして、エティカはその場から逃げ出したくなった。
知りたくなかった事実が突如として立ちはだかる。父は自分のせいでこうなったのか。盲で病弱なエティカのことを父は異様なほどに気にかけていた。そんな父に無理を強いたのはやはり、自分だ。どうしたらいい。これ以上どうしたらいいのか。エティカのせいで、母が。今また、父が。エティカには何もできない。また手遅れになったのだ。エティカのせいで。
今度こそエティカは跪いてもいられず、星術師の前で床に這いつくばった。無様なさまではあったが、それが一番今のエティカにはお似合いのような気もした。震えで喉がひきつりそうになりながら、それでもどうにか声を振り絞った。
「おねがい……おねがいです、だいせんせい。えてぃわりえ、さま……どうか……なんでもします。わたしのいのちをさしあげます。ですからどうか、ちちを」
「ふむ。自らの命を父親の命と引換に、かね。バカを言っちゃあいけないよ。私は悪魔ではない。そんな取引など成立しないね。それともなにかい? 君は、己の価値がそれほどだと自負しているのかね。大層な自信家だね。いや、恐れ入るよ」
星術師は嫌味ったらしく言うが、エティカは這いつくばったまま千切れんばかりに首を振った。
そうではない。そんなことなど、生まれてから一度として思ったことなどなかった。自分に価値などない。そんなこと、彼に揶揄されずともエティカが一番よくわかっている。
それでも。それでもだ。
エティカは床に頭を擦り付けんばかりに、彼に懇願した。
「わたしには価値がありません。生きていても仕方ない人間かもしれません。誰にも必要とされていません。でも父は違います。父は村にもこの家にも必要なひとです。私と違って、必要とされています。私はいついなくなっても誰も困りません。だから大先生のお好きにしてくださって、かまいません。どんなにこき使われても、打ち据えられても、私という人間を惜しむものはいません。だから、どうか……」
「価値がないからこそ、好きに使え……か」
エティカの頭の先で、星術師が動く気配がした。そのままその骨ばった指先で強引に頤を掴まれ、上を向かされる。エティカには何も見えなかったけれど、じっと観察されているような、そんな感覚がした。
「落し子か。またえらく自虐的に育ったもんだ。――……いいだろう。君の話をのもうじゃないか」
星術師はエティカの頤を手放すと、立ち上がった。
「そうと決まったら早急にことを進めようじゃないか。君、その鬱陶しい頭巾と目隠しを外しなさい」
「え……」
「早くしなさい。それともさっき言ったことは同情を買うための三文芝居かね」
「ち、違います……。はずします。はずしますから、どうか」
星術師のにべもない態度にエティカは抵抗する気も失せ、恭順の意を示した。ここで拒んで機嫌を損ねでもしたら今度こそどうにもならないかもしれない。それこそ一番避けねばならないことで、エティカのつまらない恐れや抵抗など今は唾棄するべきなのだ。
それでものろのろと頭巾を外し、目隠しをほどいた時にはエティカは完全に俯いていた。何もない状態で見つめられるのはこんなに恐ろしいことなのだ。長いこと何もつけていない自分の素顔を晒すことは、エティカにとって苦痛そのものでしかない。むき出しの視線が当たることは、日差しが直接肌に触れるよりもずっと、恐ろしく辛いことだった。
「おとなしくしておいで」
ゆったりと星術師が言う。それに付随したようにひどく優しい手つきで両頬を包まれ、固く閉じたままのエティカの瞼に、そっと何かが触れた。暖かい息吹を感じる。声にならないほど小さな囁きが、右、左と交互に刻まれる。何かはわからないが、その囁きが長くなるにつれ、エティカの瞼も熱を孕んでいった。何かが、ある。いや、見える。闇の中の光点。寝物語に聞いた、夜空に昇る一番星のような、煌きの光。
ふっと最後に吐息がかかり、星術師がエティカから離れていく時には、既にそれらの熱も光もいつの間にか消え去っていた。
「目を開けなさい」
「でも」
「いいから、早く開けなさい」
――人前で瞼を、開ける。
いつ以来だろう。思い出せないほどに遠い日の話だ。それを今、しろと言われている。ここでできないと拒んだが最後、彼は自分を見限るだろう。それだけはあってはならない。
今のエティカにできること。それは彼の言ったとおりに従うこと。自分自身に言い聞かせながら、白い睫毛を震わせて、エティカはとうとう目を開けた。
「きゃあっ」
おかしい。はじめは、ぼんやりとしていた。薄暗い視界はどこからかの光源に揺れ、その中心に黒い棒のような何かが佇んでいたのだ。
恐れおののきひっくり返ったエティカを見下ろすそれは、のそりと揺れて、小さくなった。いや、座った。先ほどエティカが勧めた小さな椅子に。
「見えるかね」
「え……は……」
「これは何本だ」
淡々と告げるその黒い影は、呆然とするエティカの前に何かを突き出してくる。背後から照る光源から見えるそれは、二本がたたまれ、立てられているのは三本に見えた。
そうして見えた通りにエティカが答えると黒い影は――――星術師はその手をおろし袂をまさぐって何かを取り出し、エティカの足元にことりと置いた。それはコルクで蓋をされた、手のひらサイズの空の瓶だった。
「一時的に君の目をよく見えるようにした。君はこれから三月のあいだに星屑をできるだけ集めて、この瓶の中身をいっぱいにしなければならない。それまで君のお父さんは症状を止めておく代わりに眠ったままだ。進行も完治もしないし、三月立つまで目覚めもしない。ま、そのままで目覚めれば一刻もせずにあの世行きだがね」
「ほし、くず……?」
「そう。毎晩空を見上げて流れ星を捜しなさい。君の目がそれを捉えたなら、その星屑は自動的に瓶の中へと入るから。いいかい、瓶をいっぱいにするんだ。あと三月経つまでにね。それが限界だよ。君の目も、お父さんのこともね」
そう矢継ぎ早に言うと、星術師はここにはもう用はないと言わんばかりに立ち上がり、出口へと向かっていく。聞きたいことは山ほどあるのに目の前のことで精一杯のエティカはそれを見送ることしかできず、けれど最後に彼はもう一度戸口のところで振り向き、付け足すようにエティカに告げた。
「そうそう、対価の話だけど、君、その間僕の助手をなさい。なに、片手間で足りることしか頼まないよ。ただし毎日森へ来ること。一日でも欠かしたらすべての魔法は霧散する。いいね、毎日だ。では、健闘を祈るよエティカ。また、明日」
彼は言うだけ言ってしまうと、エティカの返事も待たずにするりと去った。あとに残されたのは、初めて見える明瞭な世界に圧倒されるひとりの少女だけ。
この夜から、エティカの魔法のような日々がひっそりと、だが確実に始まった。いつものように、ありふれた、星降る夜のできごとだった。