6話:夜明けの一服1
暗い無表情の顔から蒼白に変わっていく空に吐く息が白い。それもそうかと七五三は思った。
人差し指と中指に挟んだメンソール系のタバコのせいだ。だが、実際外が寒いせいで白くなっているのもあり、どちらのせいで息が白くなっているのかは不明瞭。なぜなら空気が低温だとしたら俺の体温とタバコは高温だ。今空気にとっては、三十六度七分の俺と俺以上に高温な七百度以上のタバコは物凄く暑苦しい二人でしかないはずだ。
と、そんなつまらないことを考えながら七五三は再び口に手を運んだ。明け方の静寂に包まれた空気に煙の混じった息を吐く。薄暗い町並みと灰色の煙が重なる。
明け方の町を七五三がビルの屋上から眺めていると後ろでガチャリと音がした。
「先輩こんな寒いところで帰る前に一服っすか?」
七五三は手すりに腕と体をかけたまま顔だけを男に向けた。
そこにはきっちりとした黒のスーツを着て、どこの会社でも使っていそうな青い紐のついた社員証をぶらさげた若い男がいた。今年入社したばかりの二十三歳の新入社員だ。苗字は袴田。七五三のことを先輩と呼んでいるが、そう呼ばせるように七五三が最初に言ったのだ。
袴田という男が七五三に近寄る。その手には缶コーヒーが二つあり、一つを七五三に渡した。
少しばかり熱めの微糖のコーヒー。いつも通りだなと七五三はポケットから百円を取り出した。それを男に返すと再び町の方へと振り返り、手すりに腕をぶら下げた。
男も同じようにして手すりに手を置いた。そして溜息を吐き一口だけ缶コーヒーを啜る。
「終わったのか?」
「終わりましたよ。でも、これで遠野先輩が納得するかどうか」
「上司の顔色気にしてまで仕事するな。あんな奴のことなんかほっとけ」
「そう言えるのは先輩が部長だからじゃないですか」
七五三が苦笑いを返した。
そりゃ気を遣ったりはする。新人社員が上司に文句言って得することなんてほとんどない。だが、それも今年で終わる。辞めるのだ、遠野は。
それを顔には出さず七五三は笑った。
「だから先輩から遠野先輩に言ってくださいよ。僕のせいにしないようにって」
愚痴をこぼす男に七五三は苦笑交じりに答えた。
「考えとくよ」
「考えないでくださいよ……先輩が言う頃には遠野先輩いなくなっちゃうんですから」
「なら、それまでの辛抱だ。疫病神が去るまでのな」
「そんな神様いらないんだけどなぁ」
男の言葉に笑って七五三はタバコを口にくわえた。何も知らないのだ、この男は。あと少し、あとほんの少しだ。そう思いながらタバコをふかす。
考えてることをなるべく表には出さず七五三は町並みを眺め続ける。
白くなっていく空に対して、町の明かりがついているも暗がりの中にいる町並み。何百回以上も見て慣れ親しんだ景色に七五三は何度でも惹きつけられていた。
「先輩好きですよねぇ。この景色」
ぼんやりとしていた七五三に男が言った。
「ああ。明け方の空を眺めるのはいいぞ。一日が始まるのを見ながら物思いに耽る」
「そうなんすかねぇ……僕にはわかんないです」
首を傾げた男に七五三は笑い返した。
「まぁお前がこの景色に耽るようになったら終わりだよ」
「それってどういう意味ですか?」
七五三は黙った。こいつにはこれ以上話す必要がない。話していい話じゃないと考えて止めた。その代りとして七五三は適当に答える。
「まぁ人生色々ってやつだ」
「なんですかそれ」
「それよりも、昨日は鳴らなかったな」
誤魔化すように七五三は別の話へと変えた。
「え、ああ……確かに鳴らなかったですね。先輩の勘外れましたね」
ニヤリと笑った男に七五三は納得のいかない顔で街並みを眺めた。昨日は確実に火事が起こるはずだったのだ。しかし、仕事をしていた間に聞こえたサイレンの音は一つもなかった。
それを変に思いつつ七五三はそのことを口にした。
「確かだと思ったんだけどな。なんで外れたんだか…………でもまぁ人の家に火つけるような奴の考えなんてわかりたくはないな」
「同感です。なんで火なんてつけるんですかね?」
「さぁな。それが面白いんじゃないのか」
「放火が?」
「ああ。でも俺は放火魔じゃないからな、分かんないよ」
言葉と共に七五三はタバコを足元に落とした。火を足で消して携帯灰皿の中に吸い殻をいれる。
分かっていたら苦労しない。そう言いかけた口にコーヒーを流し込んだ。そうして中身のない空になった缶を手で遊ぶようにぶらぶらとさせる。
休憩も終えた。朝日は遠い。そして寒い。
それらが七五三を会社から出させる気分にさせた。もう一つのことも。
「そろそろ帰るか」
「ですね」
コーヒーを飲みほした男と共に七五三は扉の方へと向かう。
疲れを出すように溜息を零す男の横で七五三はあることを考えていた。昨日起きなかった放火のことだ。
昨日の夜確実に火事は起きる予定だった。なのにもかかわらず起きなかった。そのことに七五三は納得できなかった。
連続放火の犯人は中学生。何年生かは知らないが性別は男で間違いなかった。中学校には週四日通っていて部活は写真部。学校に行ってない後の一日は町の探索。土日はどこかで適当に時間を潰している。家族は四人。両親と弟がいて三人とは不仲。原因は一度少年が不登校になったこととそれに付随する喧嘩。
それらから七五三は放火魔の少年の、簡単な動機について分かっていた。
よく聞く言葉むしゃくしゃしたからや、写真部にいるということもあって火事の写真が撮りたかったなどだ。その上でなぜ昨日の夜に放火しなかったのかを考えて、七五三はあることを思いついた。一日時間をあけてまでやりたいことがあったのではないか。それこそ騒ぎになっても可笑しくないほどのことをやるための準備を。
そう考えながら七五三は男と話しながらもなるべく急いで会社を出た。
会社から出た所で男と別れる。
「袴田今日はゆっくり休めよ」
「先輩もー。それじゃお疲れ様でした」
七五三が男に背を向け、しばらく歩きふっと笑いケータイを手にした。電話帳に登録してある谷中という名前の人物を呼び出す。
「俺だ。放火魔の件なんだが分かったことがある。今日デカいことをしでかすつもりかもしれないから、今からそいつの所に行け」
電話越しの返事に七五三は頷いた。
「証拠なんて後でどうにでもなる。先に身柄確保だ。いいな?」
返事が返り電話が終わると七五三は続けてもう一つへと電話する。
「里崎俺だ」
出た男の口調に七五三は呆れた。
「お前酔ってるのか? 飲みにはいかない。っていうよりも店が閉まってる。俺のせいにするな。時間のせいだ。時間? まだ五時半過ぎだ。それよりも谷部昇って奴の周りに怪しい奴が現れるかもしれない。警察はいい、ほっとけ。ただし、南部未来と和井正吾も対象には入れるな。それ以外の誰かが問題ある接触をしたら始末しろ。もちろん行方不明としてだ。頼むぞ」
七五三が電話を切る。一息つき背伸びと共に自分へ力を入れる。仕事だと自分へ言い聞かせて、七五三は目的の場所へと向かった。黒いコートの襟を正して。