1話:始まりの火種
暗く深い青色にでも塗られたような空に星が瞬く。
あまりの寒さに、少女は肩をすくめてコートを着直した。冬に入り寒風が町を駆け抜けることが多くなり、コートやジャケットなくして夜の外は歩けなくなっていた。
寒い。少女の呟いた声で外の寒さが明らかになる。言葉と一緒に出た白い息が、ふわっと、軽やかに夜の闇へと消えていった。
少女が塀に広告のチラシが張られた家を曲がる。曲がると街路灯に照らされた住宅街の道が少女を出迎えた。少女はそのまましばらく住宅街の中を歩き、門が備えられた白い建物に入った。門の所に『ひばり児童養護施設』と表札がある白くほどほどに広い建物だ。
少女が透明のガラスになっている扉を開けて中に入る。扉の上についている鈴が鳴った。中は物寂しい外見とは違った、柔らかく温かみのある匂いに満ちていた。
「ただいま」
扉を閉めた少女の声に一人の女性が奥から飛ぶように走ってきた。
「お帰り未来ちゃん。大丈夫だった?」
いかにも心配している表情と声色の、髪の毛を揃えて結わいた30代の女性が未来を心配そうに見つめる。
それに反して汚れた茶色い革靴を脱ぎながら未来が聞き返した。
「大丈夫って、何かあったの?」
「また放火魔が出たみたいなのよ。今テレビでやってて、」
「そ」
玄関で騒ぎ立てる女性の話を流して未来は歩き始めた。
「未来ちゃん」
「ご飯は食べてきたからいらない。あとその話もいいから」
女性にそう言って後の言葉を無視する。触れられたくないと言わんばかりに女性を突き放し、未来は一際明るい部屋を目指した。
そんな未来の後ろで女性が寂しそうな顔をして溜息をついた。
いつも未来はこうなのだ。ここの職員とは最低限の会話をするだけであまり話をしない。構われることに慣れていないのか、ただたんに嫌いだと思っているのかの区別もつかず、職員全員を困らせる問題児になっていた。
廊下を歩きながら未来は女性が職員専用の部屋に入っていくのを横目で微かに見ると、目的の部屋へと視線を移した。
様々な絵や注意事項が貼られている壁がある部屋だ。ここの皆が遊んだり話しをしたりする場所でもある。ここに一日一回でも顔を見せないと心配される体調チェックの場所でもあった。
そこから聞こえてくる声に未来は眉を寄せた。
テレビも置いてある部屋だが明らかに話している。しかも、未来が聞きたくはない声のような気がした。
その部屋の入り口に立ち、未来は中に向かって明るい声で言った。
「皆ただいま」
「未来おねえちゃんお帰り!」
「お帰りー」
暖かい部屋の中にいる七人の子供の声が一斉に未来を向いた。未来が子供達にもう一度ただいまと返す。と、同時に未来は部屋の中で、子供達の前に座る黒いコート姿の男を睨むような目つきで見た。
睨まれているコート姿の男が振り返る。
「未来ちゃんお帰り」
「あんたなんで来たの?」
せっかくの笑顔を向けた男に対して、未来が愛想の欠片もない返事をした。未来の目付が磨かれた刃物のように鋭さを増す。
そんな未来に物怖じもせず男は未来に話しかけた。
「近くまで寄ったから、様子を見にきたんだよ」
「じゃあ、用は済んだでしょ。早く帰って」
「そんなこと言わなくてもいいじゃないか」
「……私部屋に戻ってるから、皆も早めに寝てね」
しょんぼりとする男を無視して、未来は男の傍にいる子供達にだけ言った。
部屋を離れようとする未来に、子供達が口々に駄々をこねる。
「お姉ちゃんも一緒にお話聞こうよ」
「私未来お姉ちゃんと寝る」
「ほらほら未来ちゃん、皆もこう言ってるしさ」
未来が開いた手をあげて横に振った。
「じゃあね、おやすみ」
男ではなく子供達におやすみを言って、未来は部屋から足早に遠ざかる。部屋から遠ざかりながら、寄せた眉間も離していく。
未来は男の事が嫌いなのだ。話すことすら嫌で、近寄るのはもってのほかだった。
別に男の人が苦手というわけでない。部屋にいた男、その人間だけが未来にとっては受け入れられないのだ。男の存在自体、未来にとっては許せないともいえるほどに嫌っていた。
帰宅早々になんで、と未来が機嫌を損ねて自分の部屋に戻った。
自室のドアを開けて中に入る。煌々とついている明かりに未来はしょうがないと言葉に出す代わりに溜息をついた。
部屋を出る時は消灯が原則だった。誰もいないのに点けているのはもったいないからだ。しかし、それとは別に一番の理由があるこということを未来は知っていた。
経費削減。なるべく節約したいというのが職員の本音だ。お金がないのだここの施設は。
それをここにいる小さい子達はよくわかっていない。お金の話などは小さい子達にはまだ関係ない。
だからこそ、節約する部分を“もったいない”で教えるのが未来の役目だった。それすらも未来には面倒に感じられるのにだ。
それでも教え方が悪かったと反省しつつ、未来は傘のような電灯から垂れ下がる紐を引っ張った。パッと明かりが消えて部屋が暗くなる。ほとんど何も見えない。
しかし、部屋は三人が入って何かできる程度の広さ。決して広くはないため、場所と感覚で覚えれば暗くても移動はできた。
暗中の部屋で未来は感覚を頼りにベッドへと近寄った。そして自分のベッドに入り、未来は自分を覆うように布団を被った。被ると陽に当たったような温かな匂いが布団からした。
布団を干した証拠に少しだけ満足して、目を瞑りさっき聞いたことを頭に浮かべる。
連続放火魔。最近町で噂になり、実際に起きている凶悪事件だ。この一か月以内で五つの家が燃えている。そして今日も起きたらしいという。それで六つ目。嫌な事件だ。
眠ろうとする未来の頭に外からカンカンカンと騒がしい音が響いた。町の中でほぼ連日といってもいいくらいに鳴るサイレンの音だ。
毎夜聞きなれた音に未来は耳を塞いだ。
自分の嫌いな男がいるのに、それでいてうるさいサイレンの音。
未来の怒りの火種が燻り始めていた。
赤い粉が雪のように地面に落ちた。コンクリートに落ちた火が分厚い靴に踏みつぶされた。
火の粉が放たれる炎に向かって、勢いよく水が噴き出される。見るからに重厚そうな服装をしている人達が、長いホースを持って一斉に炎へと水を掛けていた。
水を掛けられてもさらに火が強まる炎が、不気味に煌めいて揺れる。まるで効かないとでも言っているかのような笑みにも思えた。
そんな炎から離れたところ、炎に立ち向かう消防員達の後ろには、人々が炎の行方を不安そうに眺めていた。
見守られる炎に、見守る人々。そんなたくさんの人ごみをかき分けて、一人の少年が炎の近くへと走った。しかし、一瞬にして警察二人にその行く手を阻まれた。二人に抑えられた少年が暴れまわり叫んだ。
「どいてくれっ! 親父もおふくろも華もばあちゃんもじいちゃんも、皆が中にいるんだ」
「待ちなさい。君が行ってもこの炎じゃ助けられないだろう。消防隊が今全力で消火と救助をしてるから、絶対に助けるからここで待ってるんだ」
制止する警察官の声にも負けず少年が尚も暴れまわる。
「親父、お袋! まだ中に、皆が、」
「おい、君大丈夫か!?」
「どうしたんだ!?」
二人の警察官に凭れるようにして少年がダラリと崩れ落ちた。二人に抱きかかえられる少年の目が虚ろに炎を睨みつけた。
消してやる。そして、家族を助けるんだ。その思いだけで少年が警察官に抱えられた中で立ち上がった。支えられる手をどけて少年が一歩踏み出した直後、大勢の目の前で炎がその息吹を上げた。
大爆発でもしたかのような音を立てて炎の勢いが増した。
真っ赤に燃え上がる炎。その憎々しい光景を目に焼き付けて少年は瞼を閉じた。
「お、おい。救急隊この子を運んでくれ」
遠ざかる意識の中で、少年の頭にサイレンの音が馬鹿みたいに大きく聞こえる。体が浮く微かな感触と共に、飛び交う色んな話し声の中で一つだけ鮮明な声が耳に入ってきた。
「そうして少年は病院に送られるのでした。チャンチャン」
少年にだけ聞こえた声が救急車のサイレンで掻き消される。
燃え盛る炎を後ろに救急車が走り出した。サイレンの音が、少年が戻らないとでも言っているかのように遠ざかっていった。