10話:放火魔の結末
未来は足が震えるのを感じた。ただの武者震い。怖いのとは違う。未来はそう自分に言い聞かせる。
未来の前ではナイフを持った少年が立っていた。丸腰の未来に比べ、少年はナイフを持っている。有利なのは少年なのにも関わらず、どこか震えていて、互いが互いに怖がっているような雰囲気だった。
未来はやっと追いついた少年にもう逃さないと決めていた。追いかけて見失い、また見つけて路地を抜けたビル街の空き地に追い込んだのだ。周りは建物だらけで未来の後ろだけが表の道路に続いている。少しばかり悪臭も漂っている場所だ。しかし、それも二人には関係なかった。逃げられる逃げられないじゃなく、生きるか死ぬかが掛かっているのだ。
未来は少年に向かって聞いた。声が震えないよう口調を強めて。
「あんたは、なんで放火なんてしたの」
「男に言われたからだ」
未来が聞き返す。
少年はナイフを握り絞めて答えた。
「知らない奴だけど、男が俺に力があるって言ったからやってみた。そしたら火が放てたんだよ。火走りっていう天性だって」
未来は眉を顰めた。
聞きなれない言葉、天性。何のことを言っているのか想像もつかない上に、火走りというのも分からない。しかも、少年はそれを男から聞いたと言った。未来は少年の妄想か何かかと疑った。
「天性、何それ。あんたの妄想?」
「違う。でも、俺も知らなねぇよ。知らない男から言われんだからよ。けど、試してみたら火が放てて、それで面白いなと思ってやっただけだ」
「面白い?」
未来の顔が険しさを増す。
「そうだよ。自分の思った通りに家が」
「ふざけないで! 家が燃えて面白い? 何馬鹿なこと言ってんのあんた。あんたのせいでどれだけの人間が死んだと思ってんの!」
踏み出した未来に、少年が近づくなと叫ぶ。踏み出した足をそのままに、少年よりも恐ろしい眼で未来は前を睨んだ。どうあっても許せない気持ちで。
凄みを利かせる未来に少年はビクリと後ずさる。まるで目が殺すと言っていて、動くなとでもいうように少女が近づいてくるのだ。
未来と少年の距離が縮まると、少年はナイフを前に突き出すような姿勢を取った。
「来るなって。殺すぞ」
「殺せるなら殺せば。今までもそうしてきたんでしょ。それとも、抵抗されるとできないわけ、腑抜けだから」
未来が近づくのも止めず強い口調で言い放った。未来は余裕があるわけでも、勝てると思っているわけでもない。どうしても許せない気持ちが未来をそうさせていた。
二メートルあるかないかまで未来が少年に近づいた。おかしな少女に少年は刃先を向ける。いつのまにか少年の方が震えていた。
「死にたいのかお前」
「死にたいなんて思うわけないでしょ」
出されたナイフに未来がようやく止まる。飛び掛かられたら死ぬ距離。そこまで近づいていたのだ。
未来は少年を殺すような眼で睨み、少年は未来をやっとの気持ちで見る。一方は恐怖し、もう一方は恐れる気持ちがどこかへ消えていた。
息詰まるような緊迫感を少年が変えた。少年が前へと足を踏み出して、未来にナイフを突き出したのだ。突進する少年に未来が一歩退く。少年の持つナイフが未来の左胸を目指して突き進む。二人の動きが止まった。
「え、なんで。おい」
少年が体を揺する。腕が挟まれたのだ。少年の腕は未来の左脇の下で腕に挟まれていた。少年が突き刺したはずのナイフは、未来の体の横を抜けていたのだ。
少年が慌てる。止められるとは思っていなかったからだ。
未来が少年の腕をつかんだ。
「うっ」
少年が未来の横でひっくり返った、いや、ひっくり返された。未来は少年に足をひっかけて、雑に投げ飛ばしていた。ナイフが少年の横で金属音を立てて転がる。
未来が少年の腕を放して、ナイフを靴で蹴った。
「あんた、絶対に逃がさないから」
少年に叱り飛ばす勢いで言うと、未来はケータイを取り出した。少年は未来の足元でうずくまっている。情けないと未来は思った。
110番にかけ一部始終伝える。犯人のこと、住所等を一しきり喋る。そうして足元に冷たい視線を送る。
「もう少ししたら来るから。あんたのこと探してる町中の警察が」
未来が終わったことに安堵した。
一息吐いたその瞬間、
「うあああっ」
「!」
突然少年が未来の服を掴み地面に押し倒した。抵抗する未来に跨って、少年は未来の首を両手で掴む。その手に血管がくっきりと浮かぶほど力を入れる。
「お前のせいで捕まるんだ。お前死ねよ。死ね。死ね」
「うっ」
喉が潰れそうになる。喉がつっかえて息ができない。未来が自分の首を掴む少年の両手に爪を立てた。
抵抗して爪を立てる未来に、少年の首を握る力が増す。それに合わせて未来は精一杯爪を立てる。首を動かし、爪を立てても少年の腕は解けない。それどころか意識が遠のく感覚だけがどんどんと押し寄せる。
少年が体重を掛けて首を押した。
「痛いんだよ、死ねって言ってんだろ」
「お前、何してんだっ!」
大声に少年が顔を上げた。途端に後ろへと突き飛ばされる。
「大丈夫か?」
起き上がる未来に手を伸ばして声を掛けたのは正吾だった。
咳込む未来が首を絞めた少年を睨んだ。殺意の籠った目で少年を見つめる。
正吾が未来を助け起こすとその前に立った。前に立った正吾に未来は今さっきのことを言う。
「警察が向かってるけど、どれくらいで来るか分からない」
少女の言葉で正吾は悟った。警察が来るまで足止めしてる。だから、少女はここにいるのだ。殺人犯を目の前にして。
正吾が前を見つつ未来に言った。それが最善の策だと思って。
「お前警察呼んで来いよ。そうすりゃこいつ」
「まだ聞いてないから」
正吾の言葉を未来が遮った。
未来は喉を押さえながら、正吾の向こうに見える少年に目をやった。
「何を聞くんだよ」
「男って誰。誰からさっきの話聞いたの」
「名前なんか知るかよ」
少年がポケットに手を伸ばす。中からナイフが出てきた。
「二本も」
「お前先逃げろ」
「あんたは退いて」
驚く二人の方に少年が走り出した。ナイフを手にして。
正吾が未来を後ろに少年の前に立ちふさがる。退けばもう一度投げ飛ばせると考える未来とは裏腹に。
ナイフを突き出す少年。死を覚悟して立ちふさがる正吾。前に立つ正吾を邪魔だと思う未来。三人がそれぞれ覚悟した時だった。
少年が目を見開いた。ナイフが正吾に届く。
「え」
「あんたなんで」
正吾でも未来でもない手が少年の腕をつかんだ。ごつごつとした手が、少年の腕をガッシリと掴む。 正吾の心臓の前でナイフが止まった。
「二人とも逃げろ。足止めだったら俺がするから」
無精髭を生やした黒いコート姿の男が叫んだ。
「行け!」
未来が正吾の腕をひっぱり、二人が路地を駆け抜けていく。正吾が振り返るのを未来は制した。未来が現れた男、七五三に疑問を持ちつつ正吾を導く。二人が路地裏から消えた。
少年が痛みを堪える。男は握りつぶしそうなぐらいの力で腕をつかんでいるのだ。
「離せっ」
「うるさいぞ。ガキ」
七五三が少年を突き飛ばす。少年が仰向けに倒れた。転がったナイフを掴もうとした少年の腕を七五三が踏む。力を込めて。
うめき声をあげる少年を見下ろしながら、七五三がしゃがんだ。
「人を殺せるなんて、良い立場だな。なぁ里崎」
七五三が顔を上げるとビルの窓から一人の男が顔を出した。サングラスがよく似合う男だ。
男が窓枠に両手を組んで二人を見る。
「嫌味か七五三。そもそもあの未来ってガキと正吾ってガキがベタベタくっつくからだ。まいったぜ。撃ち損ねた、そのガキ」
男が笑いながら少年に黒い銃を向けた。七五三が鋭い眼を男に送る。冗談だと笑いながら、男が少年から銃口を外す。
男が七五三の行動に眉を顰めた。七五三が少年の腕を踏みながら首にまで手を掛けている。握りつぶすつもりはないはずだった。絞殺だと困る理由があるのだ、七五三には。
七五三が暴れる少年を一度殴り、男の方を向いた。
「薬は?」
「あるけど、高くつくぞ。なんせ、俺が殺し損ねたんだからよ」
「金なら後で貰え」
「いいのか、お前から」
「バーカ、俺がお前に渡してどうする。儲けにならないだろ」
男が笑いながら小さな袋を七五三に投げた。それもそうだと納得する。
七五三が袋を受け取り、中身を出した。“ただ”の飲み薬だ。手袋をはめている手でしっかりと中身を確認して開けた。
「失敗するなよ」
「すると思うか。俺が」
男がそれを確認すると、両手を窓枠から離した。
「じゃあな、ガキ。来世でお互い真面な人間として会おうぜ。はははははは」
高笑いしながら男がビルの窓から離れて行った。それを見届けて七五三は少年に目線を合わせる。抵抗する少年の首から手を放す。首に手の跡が着いていないことを確かめる。
そして息を吸ってむせこむ少年に、手に持った薬と水を飲ませた。ついでに少年に薬の入った袋を触らせる。そうして男がいたビルの中に袋を詰めたペットボトルを投げ込む。証拠品全てを男が回収する場所だ。
「心配するな。すぐには死なないからよ。だが、もって一時間が限度だな。警察署着いて、手続して話聞いてる間に死ねる。お前が話すことは何もねぇから、安心しろ」
そう言った後に七五三は周囲を見た。誰もいない荒れている裏路地。証拠合わせには丁度いいところだった。
ニヤリと笑った七五三に少年がはむかう。
「ふ、ふざけるな。お前がやったこと喋ってやる。全部」
「いいぞ。話して」
七五三が余裕のある口調で言った。計算で分が悪いのは少年の方だとわかっているからだ。
「ただ、これだけ殺人を犯した少年をどこまで信用してくれるかなぁ。警察は」
途端に七五三が少年の胸倉を掴んだ。胸倉をつかみ顔を近づけた七五三に少年は口を閉じた。目を合わせるのも躊躇うほどの怖い顔で七五三が言った。
「これがお前の最期だ。足掻けよ、殺した奴らの人生分」
少年から手を放し七五三が手袋などを外す。用はなかった、少年にも手袋にも。
二人の耳にサイレンの音が聞こえた。
七五三がコートの裏側に手袋を仕舞うと、少年にもう一度顔を向けた。
「それと、暴れるだけ暴れろ。その分死ぬ時間が短くなる」
パトカーの音が後ろで聞こえたのを七五三が確かめて、走ってきた警官と刑事を向いた。
若年の刑事が言う。
「七五三さんいました。少年も一緒です」
刑事と警官たちが敬礼する。新品と一目で分かる黒のコートを着ている刑事に七五三が申し訳なさそうに言った。
「悪い。署を慌てて出たもんだから、手錠忘れたんだ。頼むよ」
刑事がポケットから手錠を出しながら笑う。
「はいはい。了解ですよ」
「おいおい、そんな言い方じゃ俺がいつも忘れる間抜けみたいじゃないか」
「そうでしょう」
刑事が苦笑いしながら少年に近づく。近づいた刑事に少年は七五三を指差した。
「おい、こいつ俺に」
「動くな。話しだったら全部署で聞いてやるから」
七五三と刑事の二人で少年に錠を掛ける。暴れろと七五三は思った。
立たされる少年が刑事に言う。
「警察に着いたら俺は死ぬんだよ」
「何言ってんだ。警察署ついてお前が死ぬかなんてまだわかんないよ。全部決めるのは裁判所だ裁判所」
パトカーへと少年が押し込まれる。周りには騒ぎを聞き付けた野次馬が集まっている。
「死ぬんだってこの男に」
「殴られて頭がおかしくなったんだなお前。七五三さんどんだけ殴ったんですか? 下手したら」
「正当防衛だ。全部」
「はいはい。いい言葉ですよね。正当防衛」
「お前もムカついたやつがいたらそれで済ませろ」
「ええ、参考にしときますよ」
少年の隣に乗り込んだ七五三に刑事は苦笑する。
少年が再び暴れる。隣にいる七五三という男に向かって。
「俺は死ぬんだって、ぐっ」
「お前黙ってろ」
刑事と七五三に抑え付けられた少年が離せと願う。
それを知っていて七五三は抑えつける。
サイレンの音が響いた。一台の車が事件現場を離れていく。
その日パトカーで運ばれた少年が、警察署で真実を話す事はなかった。