閑話・光とフィカリイ
迷い込んだばかりの主人公の微かな迷いと葛藤、そして、侍女1日目の光とウォークのやり取りです。
「ひ・か・り!」
「フィ・カ・リィ」
「だぁあああもう!だから光だっつてんじゃんか!」
目の前できょとんと首を傾げる中年男性に光はがしがしと頭を掻いた。
中年男性、モール・ドローは、光が目覚めてから呼び付けた侍女に向かって何か間違ったかと問い掛けている。侍女も同じように首を傾げていることから、光は一つの結論を導き出して肩を落とした。
どこをどうやってこの国に来てしまったのか分からないが、日本語は全く通じない。そして、自分の名前である「ひかり」の「ひ」は発音出来ず「フィ」になってしまう。
「何だよフィカリィって。無駄に楽しそうに聞こえちゃうのが余計ムカつく」
発音出来ないものは仕方がない。光は諦めてベッドに潜り込んだ。ひょこり、と顔だけ出して二人を見上げる。
「もう、カリイで良いです」
「カリイ!」
「カレーじゃないからね、カレーじゃ…」
とりあえず寝てみることにした。目覚めればこれが夢であったというオチを期待して。
目を覚ました光はこれが夢ではなく、全て現実である事に肩を落とした。
モールが身振り手振りで教えてくれたのは、屋敷の前に倒れていた光をモールが発見して部屋に運んでくれたらしいという事だった。持っていた鞄はサイドテーブルに置いてあり、慌てて携帯を取り出したが圏外の文字。
状況からして誘拐でもされたのだろうと思い当たるが、ごく普通のサラリーマン家庭から身の代金を要求するなど実入りの良い犯罪ではない。
数万円で殺人しちゃうような世の中だしなぁ。どこかに売られるところだったんだろうか。ごく普通の容姿である自分が高値を付けるとは思えないけど。
全く聞いた事のない言葉に、一体どんな辺境に誘拐されたのだろうかと悩むが答えは出ない。日常会話もままならない拙い英語で話し掛けてみたが、これまた首を傾げられた。英語圏ではないらしい。
部屋にランプの明かりが揺れているということは電気は通っていないのだろう。
モールはアメリカ系というよりはフランス系の白人男性で、光の部屋に出入りした三人の侍女は小麦色の肌をしたラテン系に見えた。国籍がさっぱり分からない。何処だここは。
考えた所で答えは出ない。世界地図を見せてもらおうにも言葉が通じないのでは地図を貸してくれとも言えない。まずはここの言葉を覚えるしかあるまい。
どうやってそれらを伝えようかと悩む前に、本来は幼児向けの教材であろう、日本で言うところのあいうえお表とどうぶつ図鑑を用意された。
見たこともない文字を一字ずつ発音してくれるモールに心底感謝しつつ、その横にカタカナで書き込んでいく。
表を完成させ、発音練習とばかりにどうぶつ図鑑を音読していた光は「フィカリイ」が、豚のような顔にもこもこと毛を生やした動物だと知りがつんと落ち込んだ。モールの妙な笑顔はこいつを想像していたに違いない。
更には、図鑑の半分は見たこともない動物であることに、少しずつ不安を覚えていった。
翌日、モールが持ってきた見たこともない世界地図によって自分が迷い込んだのが異世界だと確信する。どの地形も、世界地図で見た記憶がない。
彼女の自慢の一つは記憶力の良さであり、友人と張り合って覚えた世界地図は今でも迷いなく描ける。
どの大陸も、島も、このような形はなかったと断言出来た。
神隠しに遭った人ってこういう目にあってんのかな。
泣くでなく肩を落とすでもなく、光は「あいうえお表」を睨み据えた。まずは言葉と知識だと拳を握り。
「お前の名は」
冷血美人に問われ、光はむつりとカリイですと答えた。
「カリイだと?」
カリイがこちらで夕陽だと知ったのは、ここに来た日のことだ。うっすらと笑んだウォークはお前のどこが夕陽だ、言いたいらしい。怒りに頬を引き攣らせた。
「本当はヒ・カ・リ。この世界ではヒが発音出来ないので、カリイと名乗っております」
フィに聞こえぬよう、はっきりとした発音で言ってやる。美人もやはり「フィカリイ」と発音し、面白くなさそうに口を噤んだ。暫く考え込んでからもう一度と催促される。
どこか優越感を覚えながら、光はにんまりと唇の端を上げた。
「ヒ・カ・リ」
「フィカリ…フィ…」
「ヒ!」
「フィ」
十回程繰り返すうち、何だか面白くなってきた。小さく声を零す。
「ヒ」
「ヒ、カリ」
「うはぁ?!」
「私に不可能はない」
にやりと笑んだウォークはもう一度、ヒカリ、と名を呼んだ。
妙に艶っぽいその声に、ぞわぞわと背を這い上がる悪寒に似たもの。ヒッと声を上げて叫ぶ。
「わたしはカリイ!カリイです!!光って呼ぶなぁ!」