4ー4 旅っていいな!
ジジェス伯爵夫人は目の前でのやり取りに首を傾げていた。
「マクさんマクさんあれはモッフォイですか?」
「そう、赤いのがメスで黒いのが子供だね。親子かな」
「子供のが大きいって本当なんですねぇ。かっわいいー」
「出産直後は小さいんだけどね、一月経った頃は脂肪の塊って感じで手触り最高だよ。成長の過程で身が締まってくるの。ちょうどあの頃が食べ頃だね」
「可愛いって言ってるのに、食肉になった話をするのは何だかなぁ。でも、モッフォイの蒸し焼き大好きです」
「もう少し行くとこっち側にルルカスの牧場が見えてくるから席代わろうか?」
「はい!お願いします!」
素直な反応にマクはくつくつと体を揺らして笑い、夫人は忙しなく瞬きを繰り返した。
楽しみだなぁ、と笑み崩したカリィという名の少女は、末娘と三女の恩人である。末娘からはとても変わっているが、王家縁の人であるらしいと聞いていた。
出会った頃は、行儀は自分よりなっていないかったし、少年のような粗雑な動きだったと娘は言う。
それだが、思慮深く、それでいて恐ろしいほどの行動力と曲げない意志がある、男性であれば俺の片腕として欲しいと王太子に言わしめるほどの器だと。
この少女が収まるはずであった王太子婚約者の座に座らされた娘は、その企みは確かに彼女が仕組んだものであるが、望んでそれを受け入れたのだとはにかんだ。
王太子に淡い恋心を抱いていたのだという。
いつまでも癇癪ばかり起こして、淑女から程遠かった末娘が王太子の婚約者。
一体何が起こったのかとそれはとんでもない形相で、一晩かけて娘に説明させた。
領主の人柄は領民から愛されているがジジェス領は豊かとは言えず、商家上がりの夫人ーー自分の事だがーーは、伯爵家に嫁いだというのに商会を起こすような、とてもじゃないが王家と繋がるような家柄ではない。
そんなジジェス家の末娘が近い将来、王太子妃、そうして王妃になるというのだ。
そんな無茶な話があるか。
自分が不在の間に起きたとんでもない騒動に夫人は大いに慌てた後、沸き上がった怒りを夫にぶつけた。
娘の説明を受けても納得がいかず、あなたは何をしていたのですか!と声を上げれば夫は憔悴しきった風体で、お前はあの方々に抗えるのかと、細々と返した。
宰相血縁の伯爵にすら抗いきれなかったのだから、公爵、ましてや王太子に異議を唱えるなど、この人がいいだけが取り柄とも言える小心者の夫に出来るわけがない。
夫人は自らを納得させると、後はどうとでもなれと開き直った。
それにしてもだ。
初対面での少女は、娘から聞いていたような無鉄砲そうな様子はなく、優雅に微笑んで淑女らしく挨拶をした。
凛と筋が通ったその姿は年頃の娘にしてはとても落ち着いて見え、娘と同じ年だと言われ驚いたほど。聞いていた粗雑さは、ほんの一月ほどの間に上手く隠せるだけの技術を身に付けたらしい。
公爵家侍女長の指導もあってか恐ろしい成長でありました、とその姿を見た娘も神妙に頷いていた。
その少女が、無謀とも思える策で娘を王太子妃にと押し上げた策士が、初めて見るらしい動物に目を輝かせ、子供のようにはしゃいでいる。
夫人は喉の奥で低く唸った。
深窓の令嬢にしては健康そのものであるように見えるし行儀がなっていない。モッフォイのようなどこの領地でも飼育されている家畜も見たことがないとは、一体どういうことなのだろうか。
「カリィ様は散策などはお嫌いなのかしら」
自分の見ている光景が信じられず、自身でも完璧ではないと思う引きつった笑みを浮かべたジジェス夫人に、光は何度か瞬きして見せた。
「嫌いではありませんよ。城から出る機会がほとんどなかったものですから」
年甲斐もなくはしゃいでしまって申し訳ありません、と姿勢を正す光に夫人はくすりと微笑んだ。
「畏まらないでください。私のことは親戚の叔母だとでも思ってくださいませ。大事にされてきたのですね」
「大事……ええ、そうですね。王太子殿下と補佐官様に大事に大事に、厳重に管理されていましたから」
にこりと笑う光の横で、ぶふりと吹き出した騎士はごつごととした手でその口元を覆ってはいるが全身を細かに震わせている。一応は笑いを堪えているらしい。確かに少女の物言いは変わっているが、そこまで笑うようなことだろうか。
王太子付きの騎士であるが可笑しな男だ。
納得出来るような答えではなかったが、これ以上突っ込んだ問いをしてもこの少女は上手く隠すであろうし、真実を知るのも恐ろしいことである気がする。
「それでは良い旅になると良いですわね」
「殿下からの勅命を忘れない程度には楽しみます」
淑女らしく微笑んだ光の瞳は冷ややかなものであったが、夫人はそれに気付くことはなかった。
「やはり俺も行くべきだった」
ふぁあ、と気の抜けた欠伸を一つ、王太子はああ暇だ、とごちた。
今日も今日とて暇そうである。
補佐官の執務室にある長椅子は王太子の昼寝専用というほどで、裁決署名だの意見書の確認だのを忙しなくしている補佐官は、だらしなくそこに寝そべる王太子を一瞥した。
「殿下、本日は謁見が三件入っていたはずですが」
「マクが居ないのでな。断った」
悪びれもなく言い切った王太子に、手を止めぬままに補佐官は鋭い視線を投げる。
国王が病に臥せってから家臣の謁見や重要な使者たちのもてなしは王太子の役割だ。他の雑務をこちらに押し付けておいて、それすら放棄するとは。
「マクをあれに着けたのは殿下です。代わりの騎士は真面目で良い……」
「嫌だ。マクの代わりにくる者はどいつも堅っくるしい男ばかりで気が詰まる」
「殿下」
「どれも緊急のものではないだろう?婚約の祝いだの言っておいて、結局は自分の利になる娘を勧めようという魂胆が見え見えなのだ」
「そこを上手く懐に入れるのです。ミレ嬢の身を護りたいのでしたら、これくらいの面倒は投げ出さないで頂きたい」
深々と息を吐き出し、本日最後の署名を終えた。
勿論、王太子の筆跡を完璧に真似た、王太子の署名である。
「あれは上手く事を運んでくれるだろうか」
「……あの娘は、我知らずですが人を誑かす能力に長けております。上手く取り入るのではないでしょうか」
「確かに。目立つ容姿ではなし、愛嬌がある訳でもない。だが、あの大らかとも豪胆とも取れる、女とは思えない内面にどうにも惹かれる」
ぐたりとしたままの王太子がにたりと笑んだのを、複雑な心境で見詰めていた補佐官は知らずに寄せた眉間を解した。
心労が溜まる一方である。