3ー10 毒も棘も潜ませて
ぱくぱくと口を開閉するミレに小さな赤い金魚を思い浮かべ、光は謝罪の想いと共に頬を撫でた。
すがるように見上げてきた綺麗な新緑にごめんね、と唇の動きだけで謝罪する。
何も知らせずに行動に起こすのは気が引けたが、魔女いわくあの娘に腹芸など出来るはずがない。間違いなくぼろが出る。このまま何も言わずにいるべきだと主張したのだ。
リリィーラは驚かせるのは可哀想だと言ったが、敵を騙すには味方から。結局はミレをも騙す事になってしまった。
「どういうことだ」
真っ先に声を上げたのは王太子だった。飄々とした空気を圧し殺し、怖いほどの視線を寄越している。
「あら?この場で婚約を発表なさるのではなかったの?」
ねえリリィーラ、と魔女が話を振れば、彼女もええと頷いた。
「わたくしも、殿下が重い腰をお上げになったと聞いて、家臣の一人として安心しております。確かにミレ嬢はお若く、これまで社交の場にも出られませんでしたが、立派な女性ですよ」
「私も安心です、ね?バライ?」
にっこりと。
自分と王家との関係は表に出さないと言ったくせに、名を呼び捨てて親しげにしてくる魔女。
綺麗に三人揃った笑みに王太子も公爵も歯噛みした。
この女狐ども!大人しくしているかと思えば、こんな事を企んでいたか!!
当のミレ嬢を見遣れば、相変わらず状況を理解出来ずに口を開閉していた。一杯喰わされたのはこちらと一緒か。
公の場でこう言われては否定などは出来ない。否定したところでこの女狐どもが無策で挑んできたとは思えなかった。
周囲は相変わらず固唾を飲んでやり取りを見守っている。
「やってくれたな、あねうえ!」
こちらの反撃などかすりもしない。優雅に微笑む人は全くの無反応で流した。端から見た魔女は王太子より年齢を重ねているようには見えない。十代半ばの少女に向かっての言葉ではなく、リリィーラに向かって親しみを込めた呼び名だろうと周囲は解釈したに違いない。
「さあ、ミレも恥ずかしがっていないで。殿下と踊ってらっしゃい」
とん、と光に背を押されて王太子と視線を合わせる。
怯えた子兎のように見上げてくる少女の手を取ると、自然と空けられたそこへ王太子は歩き出した。
「すまんな。ここで否定してもお前に傷が付く。今日は俺に付き合ってくれ」
「は、はい」
あまりの衝撃に何を言われているのかも分からない。ただ頷いて手を引かれるままに王太子に着いていくが、好奇と羨望と嫉妬が混ざり合った視線に身を震わせた。
普通の令嬢ならばこの好機に狂喜するか怯えるかするのだろうが、ミレは唐突に腹が立ってきたのだ。
何故わたくしが怯えなければいけないの!
ここは怒るべきなのだわ!!
何も告げずにこのような場に引き出した光たちにも、元は光をそうするつもりであったのに平気で自分を代役と出来る王太子にも、物見高い貴族たちにも腹が立つ。
簡単に扱われるのは性に合わない。王太子を睨むように見上げると、にやりと意地の悪い笑みを返された。
「普段の調子が戻ったようだな」
「そうですわね。このまま良いようにされるのは面白くありませんもの」
こちらの様子を窺っていた指揮者がゆっくりと指揮棒を振った。流れ出した緩やかな音楽に合わせて王太子がミレの腰に回した手を引き寄せる。
華やかな場を逃げ回る事で有名な王太子だが思ったより先導が上手い。身を任せておいて周囲を見渡せば、裏のある笑顔で見守る一団と、顔色を無くした父の姿を見付けた。
すっかりと父の存在を忘れていたが、顔見知りらしい人間に囲まれ婚約者とはどういうことだと詰め寄られているようだ。本人が何も知らされていなかったのだから、父が知るはずもないだろうに。
「わたくし、今日は殿下の婚約者なのでしょう?」
「らしいな」
「お願いがございます」
「ほお、何が欲しい」
「物ではありません」
愉しげに見下ろす金の瞳を毅然と見上げてミレは笑った。
お姉さま、貴女の策に嵌まって差し上げますわ。
「わたくしを、本物の婚約者にしてくださいまし」
「ミレは殿下が好きなの?」
「へぁあ??ったあ!!」
光の為にステップを踏んで見せていたミレは、そのまま転んで強かに尻を打ち付けた。
「ごめん!大丈夫?」
「へ、平気です!それよりもっ」
「どうして分かったのかって?」
否定する余地もなく問われ、ミレは渋々頷いて見せた。
ミレの手を取って引き上げると軽くて柔らかい体が、光の腕に収まった。
小さくて愛らしい小動物のような少女は、その外見に似合わず烈火のごとき内面を持っている。思ったことを包み隠さず口にしてしまうのは短所でもあり長所でもあった。
手の内を見せず嘲笑うように外見を作り出す、そこらのお嬢様方には嘲笑されそうな素直さを、光も、王太子も気に入っている。
そう。
王太子が他には見せない、慈しむような笑みでミレを見ているのを光は気付いていた。それが恋ではなく、子供や動物を眺めるような類いのものであったとしても、彼がミレを気に入っているのは間違いない。
そうして、ミレが、手の届かない存在だと理解した上で、ただ眺めるだけの子供の恋をしているのも気付いていた。
「殿下に対する熱視線」
「そのようなこと…していましたか?」
「うん、キラキラ恋する乙女の目で見てた」
「わたくし、身の程知らずではありません。お姉さまがいらっしゃるのに、横恋慕しようなどと思いませんわ。それでなくとも殿下と釣り合うような身分でもありませんのに」
「あれ?わたしが素性の知れない娘だって知ってて言ってる?」
「それは!それでも!!殿下に是非と願われた方とわたくしとでは立場が違い過ぎます」
しゅんと肩を落とした彼女の髪を優しく撫でてやる。
少女時分の憧れに近い恋心。ミレはそれだと信じて、王太子への思いがただの憧れと変わるのを待っている。
憧れの王太子と、心酔する姉が寄り添うようになるまでには、きっと変化しているだろうと。
それではいけないのだ、と光は唇を引き結んだ。
最初は自分の代えにならないかと考えていたが、ただ純粋に自分を、そして王太子を思う彼女に、立場を譲ると言ったところで納得してくれるとは思えなかった。
自分の代役の駒として使うには情が移りすぎた。自分の失態に頭を抱えていた光は、彼女が王太子に向ける恋情に気付いたのである。その時、狂喜する内を抑えるのに必死であった。
神はいた!そしてわたしに味方したのだ!
公の場でミレを婚約者として発表してしまえば、王太子も悪いようには出来ないだろう。ミレは抵抗するかも知れないが、上手く言い聞かせる策をねろう。
協力者が必要だ。王太子と公爵の暴挙に腹を立てていた魔女に、か弱いものの味方である女騎士。光がか弱いかはこの際置いておいて、二人なら手を貸してくれるだろう。
騙す形になってしまうが、これが一番良い方法だと頷く。
細い肩に顔を埋め、ごめんね、と光は懺悔した。