3ー7 公爵様は御乱心
「お疲れでしょう?お茶の時間はとうに過ぎましたが、給仕の方がお菓子も用意されていたのでお持ちしました。召し上がれ!!」
三日後に夜会を控えた日の夕刻、焼き菓子を乗せた銀食器を荒っぽく置いた光はきつく公爵を睨み付けた。
準備は信頼出来る者たちに任せてある。公爵自ら動くような問題も起こっていない。
屋敷全体が慌ただしいのを良いことに、仕事に没頭している公爵は取るものも取らずの状態だ。今日など朝から何も口にしていない。
そう愚痴た公爵の右腕を不憫に思い、無理矢理にでも軽食と睡眠を取らせてやる。そう言った手前、一口大の焼き菓子を口に放り込むくらいはやってやる。
ギリギリと数秒の睨み合いを続けた二人であったが、こうしているよりもそれらを片付けた方が早いと踏んだ公爵が焼き菓子をひとつまみ、そうして光が入れた茶を一気に飲んだ。
ほっとして次を煎れてやる。
「お菓子、もっと召し上がっ」
唐突に手首を掴まれた。
ぎょっとしてそちらを見れば、自分の手はこんなに細く頼りなかっただろうかと思わせるような大きな手に釘付けになる。男性的とは程遠い、細く長い指は女性的な印象をそれまでの光に与えていた。だが、自分の手首を易々と掴む手は熱く力強い。
自分のそれとは違う。
「何の嫌がらせですか公爵様」
一瞬の動揺を気取らせぬように努めて冷ややかに非難の声を落とす。
どうせこちらが動揺するのを楽しむつもりなのだ。本当に性格の悪い男。
「ヒカリ」
甘く、すがるその声に。ぞわりと背筋を走るものに気付かないふりをする。
この世界では他の誰も呼ぶことの無い名。それを甘く呼んだ。何の冗談だこれは。
「ヒカリ?」
もう一度呼ばれ、反射的に視線を上げた。
上げるんじゃなかった。無視して、無理矢理にでも手を振り払って逃げれば良かった。
いつもは冷ややかに見下ろす青が、夕焼けに染まったように燃えている。熱く、光を捕らえている。
それはもう、指先一つ動かせない程の強さで。
「おいで」
甘く蕩ける声で光を呼ぶ。瞬きすら出来ずにこの有り得ない状況を何とか処理しようとするが脳すら動きを止めたらしい。
逃げの言葉一つ出てこない。
何だこいつ。どこの公爵そっくりさんだ。
「っ!」
手首を掴むのとは別の手で髪を撫でられ、音にならない悲鳴を上げる。その手は耳の縁をなぞると色の無くなった頬を撫でた。
蕩けるような笑顔と共に、公爵はとんでもない言葉を吐く。
「可愛い人」
手を引かれ、それを拒否する間も与えぬ素早さで公爵の腕の中に落ちた。
王太子やマクに比べれば細身だが堅い胸板に腰に回った力強い腕。それは十分に男であった。
「うぎゃわわわっわーー!!」
流石に光の思考も回り出す。
色気の無い悲鳴を上げ相手の興を削ぎ、この質の悪い冗談を終わらせる。それが駄目なら怯んだ隙に逃げ出そう。
「セクハラ!セクハラ!!」
「どうしたの私の可愛い人」
「だっ!な!ぎゃっ!!」
誰がお前のだ!どこが可愛いのか言ってみろ!こんなに可愛いげのない女も珍しいぞ!!顔が良ければ何しても何を言っても許されると思うなよ!
思い浮かんだ言葉は何一つ口に出来ず。ただ意味の無い悲鳴を上げた。
ちゅ、と音を立てて柔らかい物が頬に触れる。
「ああ、君はどこも柔らかいね」
何だこの男どうしたというのだ。目を開けたまま夢でも見ているというのか。
頬に口付けた後、呆然とする光を余所に公爵は頬から耳元へと唇を滑らせた。
「っぎゃぁ」
盛大に悲鳴を上げてやろう。そうすれば誰かが助けに来てくれる。こんな場面を誰かに見られるのは不本意だが、自力でどうにか出来るとは思えない。公爵様御乱心!!
そう心中で叫んだ瞬間、光の絶叫は公爵の口内に飲み込まれた。
都合良く(光にとっては運悪く)開いた唇に舌が滑り込み、ぞわりと上顎を撫でられる。そのまま舌先を嬲られたが光は無反応であった。瞼を落とすこともなく、ただ、完璧な美貌の人を眺める。
今、この身に起きている事が理解の範疇を越えた。
上唇、下唇と順番に食み、ゆっくりと離れた彼の薄い唇は互いの唾液に濡れている。熱の灯ったままの双眸に壮絶な色気をのせ、うっとりと頬を撫でるとヒカリと甘く名を呼んだ。
瞬間、光は覚醒した。
左手で執務机の上をまさぐり、手に当たった固い物を掴んで思い切り振り上げた。
公爵の頭目掛けて。
がつん、と。
公爵の頭が鈍い音を立てた。光の肩口に額を預け、動かなくなった公爵は意識を飛ばしたらしい。
手にしていたのは木製の文鎮。殺傷能力はそう高くないだろう。
殴った辺りに手をやるが血に濡れた様子はない。
首に掛かる息で最悪の罪は犯していないとほっとした。まあ、瘤くらい出来ているかも知れないが正当防衛である。公爵相手にそれが通るかは分からないが。
「重い…」
色んな意味で。
ぼそりとごちて、えいやっと体を押せばずるずると床に落ちる公爵。さて、どうしたものか。
「どうした」
唐突に掛けられた声にぎょっとして振り返れば、今日も気怠い雰囲気を纏った王太子の姿があった。
「えっと、お茶を飲んだ後に寝てしまって」
「何を入れた」
「えっ?」
実は光が入れた茶には一口程度のアルコールが仕込んであった。
こちらでは夕食にワインに似た果実酒を呑むのが一般的だ。だが、公爵家には並んだことがない。茶か水のみだ。
それを不思議に思った光が料理長に問えば、父親と変わらぬ年齢の料理長は苦笑しながら教えてくれた。
公爵はアルコールにめっぽう弱いのだと。絶対に呑ませてはいけないと。
それを思い出し、一口程度なら睡眠導入に丁度良いだろうと思ったのだ。
「料理長の果実酒を一口」
「何をされた?」
「え、はっ?」
はぁ、と深い息を吐き出す。
「これはな、一口でも酒を呑めば人格が変わる」
「はっ?!」
なにそれ、そんな事あり得るの?!
そう言いたがったが、あの様子は正気ではなかった。あんな公爵を見れば信じるしかない。
「普段からは想像もつかん甘ったるい男に変貌する。手を出されたのだろう?」
「いやぁ…」
首を振ったが納得した様子はなく、だが、王太子はまあいいと公爵を担ぎ上げた。ぐったり四肢を投げ出した様子だが、呼吸も整っているし気絶しているのではなく眠っているようだ。
「寝台に寝かせる。戸を開けろ」
「はい」
うやむやになったことを喜ぶべきか。
茶に入れた僅かな酒に酔うとは思わなかった。料理長は決して呑ませてはならぬと言っていたのに、これくらいなら平気だろうと呑ませてしまったのは光だ。
自業自得。犬に噛まれたと諦めるしかない。
初めてだったのに、などと乙女のような泣き言は言うまい。
光は手の甲でぐいぐいと唇を拭った。