1−2 親切にて身を滅ぼす
「はい?」
「いやだからな、カリイ。一度殿下にお目通り願おうと思う」
カリカリと羽根ペンを動かしていた手を止め、見上げた先には人の良い笑顔を張り付けたモール。
カリイと呼ばれた彼女、甲田光は怪訝に眉を寄せた。
「何で今更?私がお世話になり始めて随分経ってますけど?」
「うむ…」
モールは彼女が居候する屋敷の主であり、身分は宮廷魔術師。ロード城の一画にある屋敷は、国王から賜った研究所であり、彼の住まいでもある。
「カリイの頭脳はこの国の利益になる」
何を大きな事を言っちゃってるかなぁ。
光はこっそりとごちてから嘆息した。
「確かに、私はこの世界より文明が進んだ所から来ましたよ。でも、それを国の為に役立てるとかいう高尚な趣味はありません」
自分の勉強でいっぱいいっぱいです、と続けた彼女は、僅か五十日程でこの世界での公用語を習得し、現在は読み書きを我が物にしようと必死だ。
幼さの残るごく普通の少女にしか見えないが、国で最も優れた魔術師とされるモールを超える頭脳を持っている。
自分の元に現れた事を神に感謝するほど、余所には渡せない優秀さだ。
「カリイ、私はこの国に仕える者だ。私が世話をする君も、この国に仕えて欲しいと思う」
「勿論、先生には感謝しています。この世界の言葉すら分からない私を保護し、知識を与えてくれた」
日本の片田舎で女子高生として暮らしていた光がこの世界に紛れ込んで六十三日。帰宅途中で立ち寄った大型スーパーで揺れた、と思った瞬間、気付けばモールの不安げな顔が目の前にあった。
この世界の言葉とは異なる日本語で痴漢!と叫んで、暴れたにも関わらず、モールは優しく根気強く接してくれた。あからさまに怪しい人間だというのに城の警備に引き渡すことなく匿い、言葉もこちらの常識を教えてくれたのも彼だ。
一生掛けて帰すべき恩義だと分かっているが、彼女にとってはそれが国に仕える事にはならない。モールに仕えろと言われれば素直に頷いたのに。
「私に何かあれば、君を後見する人間も居なくなるのだ。君は自分自身で上に行くだけの力がある。殿下は身分にこだわらない方だから、きっと執り成して…」
「心配無用!!自力で生活するだけの知識は手に入れたから、先生に楽させてあげれるよう頑張るよ。私のことは心配しないで先生!」
ぐっと拳を作った彼女の趣味は資金運用である。父親がやっていた投資に興味を持ち、勘と知識を活用して父親の年収ほどを得た彼女は、母親には喜ばれたが父親には悔しがられた。
こちらの常識さえ手に入れれば、後は何とでもなる自信はある。
それに、勉強してるのは日本に帰る手段を探す為でもあるし
光がこっそりと口にした言葉にも気付かずに彼女の肩をがしりと掴むと、モールは熱く主張した。
「その能力を最も活かせるのが、殿下の元だと思うのだよ」
その言葉に光はうむ、と腕を組み考え込んだ。
殿下といえばこの国には王太子しか存在しない。この国は一夫一妻制で側室は許されておらず、王太子を産み落とした王妃は身体を壊して床に伏せ、王太子が十五になった年に逝去した。成人するのを見届け、役目を果たしたと言わんばかりの穏やかな死に顔だったらしい。
その後、後妻を迎えようとしたが、その直前に国王は病に伏せた。次の子は望めまいと後妻の話しは消えてしまう。
たった一人の後継者として育てられた、さぞ立派な王太子だろうと思ったのだが、覇気の無い、のらりくらりとした食えない男だということだ。十八になっても正妃を迎えようとしないと零したのは、この屋敷に仕える、光と変わらぬ年代の侍女である。聞いてもいないというのに、王城の噂をべらべらと話してくれた。
陛下のご病気は悪化するばかりで一向に回復なさらないし、王太子殿下はあの調子で、この国は宰相閣下が牛耳っているようなものよ。殿下には多くの縁談があるというのに、どんな良縁でも見向きもしないものだから男色ではないかという噂よ。
思っていた以上に生々しい話を聞かされ、王室とか係わり合いになるのマジ勘弁、と日本語で呟いた光。
だが、困ったように自分を見詰めるモールの双眸は、心底光の身を案じているのだと訴えている。仕方ない。
「会うだけ会ってみましょうか」
あんな男に仕える羽目になるのなら、拒否しておけばよかったと後悔するのはこの日の午後である。