閑話・恋しいのは
お久しぶりでございます。長らくお待たせしておいて、閑話で申し訳ないです。
恋愛の「れ」にも到達していない状況を晴らそうとしたのですが…自分にがっかりです!本当にがっかりだよ!!
コルト公爵家の侍女長カッサは何があっても取り乱さない。沈着冷静が服を着た面白味のない女だ、などと部下たちに囁かれようと眉一つ動かさない。無駄口を叩く暇がおありなら手を動かしなさいと一蹴する冷ややかさだ。
彼女が走る姿など母の腹に居る頃からの付き合いであるウォークでさえ見たこともない。
子供時分など想像も出来ないが、つんと小生意気な娘だったのだろう。
「坊っちゃま!!」
息荒く、ノックも無しに扉を開ける侍女長など、一生涯出会うことはなかった。あの娘が現れない限りは。
屋敷の執務室で報告書を片付けていたウォークは深く息を吐いた。
「今度は何をやった」
祖母が愛用していた年代物の棚箪笥でも破壊したか、母が描かせた自画像でも破ったか。はたまた父の収集骨董品でも破壊したか。
両親の趣味は彼自身には理解不能である。その辺りを破壊されようと彼にとって大した問題ではない。両親に見付かれば面倒なだけで。
「報告が遅くなったことをお詫びします。お手を煩わせずに片付けたい問題であったのですが、そうも言っていられなくなりました」
そう言って深々と頭を垂れてから、侍女長はきゅっと唇を引き結んだ。
「カリイが国に帰りたいと、部屋から出て参りません」
もう三日目です!
その言葉に、ウォークはあんぐりと口を開いた。
氷の美貌を持った主人の間の抜けた表情に、侍女長は動揺などしない。あの娘が帰りたいと泣き出した姿を目の当たりにした自分の表情が、よっぽど間の抜けたものであったと言えるからだ。
「…あの娘に里心などあったのか?」
ようやっと絞り出した言葉に、侍女長は難しい顔のまま頷いた。それが、あったのです、と。
庭師に与えられた小さな小屋に籠城を決め込んでから既に三日が経過していた。最低限の生活が出来るようにと作られた小屋は、独り暮らしのワンルームみたいだと光は呟いた。無駄に広い公爵家よりかなり落ち着く。
腰を痛めて城下にある自宅で休養している庭師には悪いが、彼が蓄えた食料を勝手にさせてもらっている。後から王太子なり公爵なりが存分に補填してくれるだろう。
「しょく、うああああああん!」
光は寝台に突っ伏した。
考えてはいけないことを考えてしまった。えぐえぐ、と子供のようにしゃくりあげながら半年以上も離れた実家のことを思い出す。
気がつけばこの世界にいた。
あの時、何が起こったのか分からない。あの激しい揺れは地震だったのか事故だったのか。
巻き込まれた自分がどういう扱いになっているか分からない。失踪人扱いか行方不明者扱いなのか。
生まれた世界に戻れたとして、自分は受け入れられるのだろうか、と後ろ向きな考えを巡らせたが直ぐに放棄した。
あらあんた生きてたのやだ死亡届け出しちゃったわよ、なんて母親に軽く言われるのだ。
だが。
戻れたとして、自分が存在したあの世界に帰れるとは限らない。
既に「甲田光」という存在はあの世界にはないのでは。
どうやっても後ろ向きになってしまう思考に蓋をしようとして、光は更に落ち込んだ。
「ううう、み」
ガン、と爆発音に近い音がしたと思った瞬間だった。
寝台の足元にある扉が、ばたん、と倒れた。え、と光が声を上げて身を起こすと、きらきらと光を受けて輝く銀がそこにある。
そろそろ実力行使に出る頃ではあると思っていたが、あり得ない人物の出現に光はギャッと声を上げた。
「このような所にわたしを呼びつけるとは。王妃としての心構えが出来てきたようだな」
王太子よりよっぽど王太子らしい、尊大かつ慇懃無礼という言葉がしっくりとくる美貌の人。
「よよよ呼んでません!!!」
「このような場所に立て籠り、私に知られぬと思っていたのか」
「いやいやいや!公爵様自らこのような場所にいらっしゃるなんて誰がねえ!想像しましょうかっ!!」
「ほお?」
じたり、じたり、と身を引くが、こちらは寝台の上。美貌の人は長い足を最大限に活かし、たった三歩でこちらまでやってきた。こじんまりした心地好い小屋が仇になるとは。
「殿下のご婚約者様をお迎えするのに、私がお伺いするのは不足でしたか」
緩く引き上げられた薄い唇。笑みの形をしたそれには冷ややかさしか感じられず、長い睫に縁取られた青い双眸は氷のように冷え冷えとしている。
ひぎぇ、と蛙が潰れたような声を出して光は身を震るわせた。
「だ、誰が!婚約者!」
「さあ婚約者殿。貴女がこのような場所に居ては殿下が心傷めます」
「そんな訳ないっ」
あのぐだぐだ王太子ならば、よし俺も一緒に籠城するか、くらいの物言いだ。間違いない。
「カリィ?」
荘厳とすら言っていいほどの綺麗な笑みを美貌の人が浮かべるが、同姓異性問わずにうっとりと見惚れるそれは光にとっては恐怖の対象だ。死刑台を前にした死刑囚の気分になる。
「嫌、だっ!」
「おい!」
補佐官の脇を抜けて逃げ出す。足には自信がある。門番に光を通すなという伝令が届く前に城下に逃げ出せるだろう。
この男の手に掛かるくらいなら、無一文で城下に逃げる方がよっぽど安全だ。もうどうとなれ。
だが。何やら硬い物に顔から激突し、光の逃亡は瞬く間に終了した。
「ぶっ、っった!」
「おっと。大丈夫?」
何の騒ぎ?とゆったりとした声音の男。聞き覚えのあるそれは光の頭上から落ちてくる。
光が飛び込んだ分厚い胸板の持ち主、マク・サクル。近衛第二隊隊長であり、王太子の護衛を任されている男だが、その割には王太子の側に居るよりふらふらとしている姿を見掛ける。
「そのまま捕まえておけ」
「カリィ、何かした?」
事情を全く理解していないマクが光の顔を覗き込み、はっ、と息を飲んだ。
公爵であるウォークに対しても勿論、王太子にも同等の物言いをする気の強い娘が、はらはらと涙を流している。
騎士は幼なじみでもある公爵をきつく睨み付けた。
「お前!カリィに何をしたんだ!」
「何をだと?」
「カリィが泣くなど、よっぽど耐え難い事をしたのだろう?!お前が相手だろうと俺は本気…」
「待て!」
公爵はぎょっとして騎士の声を止める。
「誰が、泣いているだと?」
「だから!お前がカリィを!」
「私は何もしておらん!!」
「嘘を吐くな!でなければカリィが涙を流すなど」
この娘が里心を出して籠城していたのも恐ろしい事実だったが、涙を流す?この無神経な娘が?
半ば乱暴に光の肩を掴み振り返らせる。
騎士と同じく、公爵は息を飲んだ。
つり目気味の黒目が濡れている。ここは室内のはずだが雨でも降ったか、と認められないにその姿に天井を見上げる公爵。現実逃避か。
もう一度視線を光に落とせば、娘は小さく唇を震わせていた。
「カリィ…」
マクが優しく名を呼べば、光はくぅ、と声を震わせて泣き出した。
「味噌汁飲みたぁい!」
白米ー!と、理解出来ない言葉を上げてマクの胸元にすがり付いた光。呆気に取られたまま二人は顔を見合わせた。
「ミソォシル?」
「ファクマ…?」
里心がついた、というより、この世界には無い食材を恋しむ光に、ウォークとマクは、ただただ立ち尽くすだけであった。