2−1 鬼教官が現れた!
あうあうと。
唇を震わせ声にならない悲鳴を上げ続ける。
「そのまま動いてはなりません」
いや、動けませんがと返す事も出来ない。
「顎を引きなさい。視線を下げない!表情!」
「む…」
「む?」
「無理っ!!」
頭に乗せられた書籍を投げ捨て叫ぶ。力の限り。
その行動を冷ややかに観察してから落ちる溜息に光は頬を引き攣らせた。
「拾いなさい。一からやり直しです」
「いや、何で」
「おだまりなさい」
ぴしゃんと言い渡されるがそこで引くような可愛い神経はしていない。にっこりと笑んで、一冊の書籍を拾い上げた。分厚い辞書のようなそれだけで結構な重さがある。それを、彼女の胸元に押しやって視線だけを鋭く刺した。
「わたしはこんな事望んでいない」
「貴女に拒否権はありません。これはウォーク様が、バライ殿下が望まれたこと。貴女が何を言おうとわたくしには関係ありません」
五十は超えているだろう彼女、コルト公爵家侍女長、アクナ・カッセはしゃんと伸ばした背を一度も曲げる事なく残りの書籍を拾い上げ、硬直している不出来な生徒の頭上に乗せた。光より随分と小柄なのでかなり無理をしながらであったが。
「さあ、続けますよカリイ」
「だから!これを三冊も乗せられたら首が悲鳴を上げてるの!鞭打ちになるっての!」
「わたくしに伝わらない言葉を口にしない!貴女は何処の産まれですかっ!」
「っ!もうやだっ!!」
カッセ女史は手にしていた鞭を、遂に光へと振った。ピシャンと派手な音を立てた割にたいした痛みは感じないが精神的に辛い。
光のわたしは馬じゃないという叫びも完全に無視し、侍女長は光の手に並々と茶が注がれたカップを持たせた。
鼻につく濃い茶の匂いすら苛立ちを生み、光はただひたすらに心中で助けを求める。
「一滴でも零せば、賢いと評判の貴女ならどうなるかお分かりですね」
「鬼!鬼が居る!」
光の叫びは完全に無視され、数分後には再度肩をぴしゃりと叩かれる事になる。
「うぇええ。鬼だ。あれは鬼だ!先生!この王城には鬼が居るよ!!」
「うむ。まあ、あれだ落ち着け」
一日拘束された光は今までにない程に疲労し、屋敷に戻るなりモールの執務室のソファを陣取った。べったりと寝そべると恨み事をずらずらと並べたてている。
身体中がみしみしと軋んだ悲鳴を上げており、こんな苦行がいつまで続くかなど考えたくもない。
「何でわたしがこんな目に…」
「予想外だったなぁ」
「ひどい!ひどいよ先生!何ですか正妃って。王様って病気がちだから、王子が結婚したらすぐにでも即位するのが決まってるってさ、わたし女王様ですよ!」
「いや、女王は女の王であって、カリイは王妃…」
「それじゃなくてもあんなのが夫だなんて!家事は手伝わない、子育ても勿論手伝う訳がない!
子供の学校行事なんて一度も顔を出さず、あら、甲田さんとこ母子家庭なんでしょ?大変ねぇなんて言われるんだ!
休日も子供と遊んであげる訳ないし、子供が父親の絵を描けば家で寝ているものばかり!」
ああなんて不憫な我が子!と叫んだ光に対して、いやまあ何が言いたいのかさっぱりだとモールは首を傾げている。同じ年頃の娘より随分としっかりして賢い娘だと思っていたが、ここまで喧しい気性をしているとは思わなんだ。それともこの状況がそうさせているのか。
「先生、あの鬼どうにかして下さいよお」
「カッセ女史は私も苦手でなぁ。怖いよなぁあの人」
「そう!超スパルタ!鞭ってなに鞭って!」
王太子に光の処遇を任された補佐官は、呆然としたままの彼女を連れて自分の屋敷へと戻った。
彼の両親が住まう本宅は王都ではなく、その隣に与えられた領地にあるのだが、彼自身はコルト公爵家が国王から与えられた城内の屋敷に住んでいる。本宅の侍女長であるカッセ女史は「坊ちゃま」の教育係でもあった為、本宅ではなくこちらの屋敷に住んでいた。
屋敷に連れて来るなりカッセ女史に引き合わされた光は、残りの時間を鬼の特訓に費やしたのである。
「そもそも、あの無駄美形のこれを見れるようにしてくれって台詞は何ですか!」
「いや、私は聞いていない訳で」
「すみませんねぇ見れたもんじゃなくて!あの御綺麗な顔が基準なら、ほとんど見れたもんじゃないでしょうねぇ。ああ可哀相!そんなに理想が高かったら絶対結婚なんか出来ないんだから!」
「まあカリイ落ちつ」
「王子も王子だ!あんな王子だと先行き不安!先生!国を出るなら今のうちですよ。わたし的には海の向こうにあるムタタ大陸がお勧めです。今後あの大陸にある国は発展が期待され、先行投資にはもってこい…」
「待て待て待て!落ち着け!」
「落ち着いて考えた結果、この国に見切りをつけるべきと判断しました」
「…お前の思考回路を覗いてみたいものだ」
「ごくごく普通ですよ」
どこがだ、とは突っ込まず、モールは盛大な嘆息を落とすだけであった。