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第五部:凍土のフロンティア

5-1. 砕氷の再会

「……誰だ」

 土方が低く、地を這うような声を出した。雪が視界を遮る函館の埠頭。カイのセンサーは、前方十メートルに強大な生体反応と、それを覆い隠すほどの冷たい殺気を捉えていた。

「土方、貴様か。その声……墓の下から這い出してきた幽霊にしちゃあ、随分と景気のいい面構えだな」

 雪のカーテンが揺れ、一人の男が姿を現した。無造作に結ばれた髪、使い込まれた刀の柄を握る指。かつて京の街を共に駆け、幾多の死線を潜り抜けた男――永倉新八。

「永倉……。なぜここにいる」

「それはこっちの台詞だ。松前で戦ってると聞いたが、まさかこんなところで土佐の亡霊と、奇妙な光るガキを連れ回しているとはな」

 永倉の視線が、土方の背後に立つ龍馬と、左腕を明滅させるカイに向けられた。カイの演算ログに、新たな項目が追加される。

「話せば長うなるぜよ、永倉さん」

 龍馬が苦笑しながら前に出ようとしたその時、カイの警告音が鳴り響いた。

「来ます。……影ではありません。空間そのものが圧殺に来る!」

 突如、埠頭の波が静止した。雪は空中で凍りついたように止まり、夜の闇が内側から裏返るような不気味な軋み音が響く。永倉が身構えた瞬間、倉庫の陰から一人の老人が転がり出してきた。

「逃げろ! 空間の周波が狂っておる。そこにいたら存在ごと削り取られるぞ!」

「……三浦か!」

 小栗が叫んだ。その老人こそ、かつて小栗と共に横須賀の礎を築こうとした天才工匠、三浦乾也だった。彼は手に、磁石と銅線を組み合わせた自作の測定器を握りしめている。

「小栗様! 生きておられたか! ……だが再会を喜ぶ暇はない。この少年が連れてきた未来の重みに、蝦夷の地が耐えきれなくなっておる!」

 龍馬が叫ぶ。

「永倉さん、今は問答無用ぜよ! 乾也さんの言う通りに!」

 永倉は悪態をつきながらも、土方の隣に並び、迫りくる無の領域に向かって刀を抜いた。


5-2. 鋼の共鳴と工匠の理

 空間の浸食は、永倉の鼻先数センチメートルでピタリと止まった。崩落した石畳の先には、底の見えない虚無の穴が口を開けている。

「……何だ、こりゃあ。新政府の新しい大砲か?」

「違います。世界の拒絶反応です」

 カイが前に出る。剥き出しの左腕から放たれる青い火花が、三浦乾也の持つ測定器と共鳴し、空間のひび割れを一時的に固定していた。

「三浦さん、その装置を。僕の出力と同期させます!」

「分かっておる、カイ。この磁針の振れが止まる地点が、世界の継ぎ目だ。そこを叩け!」

 乾也が装置を掲げる。江戸の知恵が組み上げた銅線のコイルが、カイの放つナノマシンの波動を増幅し、見えないはずの影の輪郭を白日の下に晒した。

 倉庫の影から、無数の黒い個体が湧き出した。影たちは、かつての権田で見せたものより遥かに密度が高い。それは人の形を捨て、鋭利な刃の集合体のような異形へと進化していた。

「土方、永倉! その影の核を斬れ! 乾也の道具が光る一瞬だけ、奴らは実体を持つ!」

 小栗の指示が飛ぶ。

「言われるまでもねえ!」

 永倉が地を蹴った。神道無念流の剛剣が空を裂く。乾也の装置が激しく火花を散らした瞬間、永倉の刀が虚無を真っ向から両断した。

「土方、そっちは任せたぜ!」

「……ふん、遅れるなよ、永倉」

 土方の和泉守兼定が、夜叉のような速さで空間を縫う。カイが演算系をフル稼働させ、出現座標を予測。それを受け取った二人の剣客が、寸分の狂いもなく歴史のバグを粉砕していく。

「……これほどの現象を数式化できれば、横須賀の比ではないな」

 小栗は小走りに乾也のもとへ駆け寄り、冷徹な観察眼で装置の動きを追った。三浦、このコイルの巻き数を変えれば、カイを中核として、この街全体を覆う防壁の構築が可能になる。

 戦闘の只中、二人の天才は既に次なる一手へと議論を移していた。龍馬はそれを見守りながら、拳銃の弾丸を影の隙間に叩き込む。

「……わしゃ、段が違うき」

 カイの視界の中で、赤い警告表示が少しずつ後退していく。


5-3. 凍土のサンクチュアリ

「影」の波を退けた一行は、三浦乾也の案内で函館山の麓にある石造りの古い倉庫へと身を寄せた。

「……で、どういうことか説明してもらおうか。土方、お前がその土佐の有名人と何を企んでいるのかをな」

 永倉は刀を鞘に収めることもなく、土方を鋭く睨みつけた。

「企んでいるのは俺たちじゃない。……この世界そのものだ」

 土方の言葉を受け、カイが倉庫の中央に進み出る。左腕のホログラムが起動し、虚空に蝦夷地の地図が浮かび上がった。

「永倉さん。現在、この世界は小栗氏と坂本さんの生存を許容していません。歴史という確定した設計図から外れた彼らを排除するために、あの影が送り込まれています」

 カイの指が、五稜郭のさらに北、まだ誰の歴史にも記されていない余白の原野を指した。そこなら、一時的な特異点を構築できる。

 乾也は、懐から奇妙な測定器を取り出し、机に置いた。

「……小栗様。私が江戸を離れ、この北の果てまで来たのは、単なる隠居のためではございませぬ。横須賀で、カイ殿が消えたあの日から、音が狂い始めたのです」

 乾也の言葉に、小栗の眉が動く。

「音だと?」

「左様。私が焼く陶器の、土を打つ音。あるいは金属を叩く音。あの日を境に、不協和音が混じるようになりました。私はその正体を探るうちに、ノイズの源流がこの北の地へ向かっていることに気づいたのです」

 乾也が北へ向かった理由。それは天才工匠ゆえの鋭敏な感覚が、世界が軋む音――修正の予兆を捉えていたからだった。

「三浦、お前の勘はもはや科学の領域だな」

 小栗は乾也のもとへ駆け寄り、冷徹な観察眼で装置を叩いた。カイ、三浦の装置でノイズを可視化し、私の設計図でそのノイズを逆位相で打ち消す。そうすれば、影たちを物理的に遮断する障壁が構築できるはずだ。

「……わかった。理屈は半分も分からねえが、土方がやるってんなら俺も乗る」

 永倉がようやく刀を収め、不敵に笑った。龍馬が倉庫の扉を開け、白銀の原野を見据えた。

「決まりぜよ。小栗さんと乾也さんが城を造り、カイが結界を張る。土方さんと永倉さんは、外から来る邪魔者を蹴散らす。わしゃ、表の顔として、蝦夷の連中と話をつけてくる」


5-4. 観測者と実務家

 数日後。函館から北へ、亀田半島のさらに奥地。かつて乾也が確保していた小さな廃坑が、彼らの前線基地となっていた。

 カイは廃坑の奥で、乾也が組み上げた巨大な銅線コイルの前に立っていた。その腕からは無数の光ファイバーが伸び、乾也の装置と神経系のように繋がっている。

「……三浦さん、ノイズの波長が安定しました。これで侵入を事前に感知できます」

「ほう。だがカイ殿、このコイルを流れる熱にお主の言うエネルギーというやつが、この鉄の純度では耐えきれん。磁場が歪んでおるぞ」

 乾也は、カイの腕から漏れる光を冷静に観察しながら、鋼を叩き始めた。小栗はカイが投影した複雑な熱力学の数式を、静かに、かつ冷徹に見つめていた。

「三浦、反射炉の建造は急務だ。だがそれ以上に、カイの演算をこの地に定着させる必要がある。カイ、お前の記憶にある横須賀製鉄所の配置図と、私の新しい設計図を合成しろ」

「合成を開始します。小栗さん、この設計は……元の歴史には存在しません」

「それでいい。既存の歴史にないものこそ、あいつらには見えない死角になる」

 その時、坑道の入り口から雪を払う音が聞こえた。永倉が、土方と共に戻ってきた。

「土方、外の気配が変わったぜ。例の影どもじゃない。もっとこう……冷たく、硬い重みが近づいてやがる」

「……新政府の軍艦か、あるいは歴史そのものの意志か」

 土方が刀の柄に手をかける。カイのセンサーが、遠く津軽海峡を越えて迫る巨大な歪みを捉えた。土方は目を閉じた。

「坂本さんはどうした」

 土方の問いに、永倉が口元を歪めた。

「あの土佐っ子なら、榎本の旦那を口説き落としに行ったぜ」

 土方は薄暗い坑道の奥、青く光るカイと、火花を散らす乾也、そして冷静に未来を計算する小栗の背中を見つめた。


5-5. 凍り付く境界

 龍馬が榎本武揚との交渉に奔走する間、廃坑の防衛線には巨大な質量の物体が周囲の空気を押し出したことによる、真空のような静止が訪れていた。

「……三浦さん、停止してください。ノイズが無音に変わりました」

 カイが警告を発すると同時に、雪原のあちこちで空間に細かい亀裂が走り始めた。空そのものがひび割れるような、物理法則の崩壊だった。

「来るか。土方、永倉、下がれ。ここからは斬る対象すら存在せんかもしれんぞ」

 小栗が冷静に言い放つが、二人の剣客は動かなかった。

「斬れねえなら、叩き斬るまでだ。……おいガキ、あのひび割れの中身は何だ」

 カイの演算ログは、そのひび割れの先にあるものを観測不能な因果の濁流と定義した。

「世界が、この座標そのものを歴史から切り離そうとしています。……小栗さん、三浦さん、障壁を最大出力で展開してください!」

 カイが廃坑の岩盤に深く左腕を突き立てた。青い光ファイバーが地面を這い、乾也のアンテナを通じて空中の亀裂へと伸びていく。

「承知した! 三浦、コイルを回せ! 磁場を一点に凝縮しろ!」

 小栗の鋭い指示に、乾也が力強く頷く。

「応よ! 江戸の工匠を舐めるなよ。世界が歪むなら、こっちはその歪みを利用してやるわい!」

 乾也が自作の計測器を最大稼働させると、カイの光と乾也の火花が混ざり合い、巨大な半球状の障壁を形成した。空間が弾ける音が響き、亀裂から溢れ出した虚無が障壁に激突する。

「くっ……出力が足りない……!」

 カイの人工皮膚が剥がれ落ちていく。その時、虚無の濁流を切り裂き、一隻の蒸気船が強引に座標の隙間へと割り込んできた。船首には、土佐の袴姿。

「おまんら、遅うなったぜよ! 助っ人を連れてきたき!」

 龍馬の声と共に、蒸気船の大砲が一斉に火を噴いた。その特殊な弾丸が炸裂し、虚無の亀裂を物質化して埋めていく。

「……坂本。余計なことを」

 土方は抜き放った刀を正眼に構え、迫りくる虚無の残滓を冷徹に見据えた。歴史の修正という巨大な力に対し、人間の持てる全ての力が一つの特異点に集束しようとしていた。



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