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第二部:【残照のデバッグ】

プロローグ:【土佐、潮騒の血脈】

坂本家の広間に、土佐の重い夜気が流れ込む。

皿に盛られた料理を前に、乙女はただ笑っているだけではなかった。彼女の瞳は、龍馬が連れてきた「カイ」という異質な存在を、一人の人間として真っ直ぐに射抜いていた。

「……カイ殿。おんしのその眼、先のことばかりを映して、ここがお留守になっちゅうねぇ」

乙女が静かに言った。その声は低く、しかし驚くほど深く響く。カイのAIチップは、彼女の言葉を「非論理的な直感」として弾こうとしたが、乙女がカイの手に重ねた掌の温度が、それを許さなかった。

「龍馬はね、カイ殿。昔から泣き虫で、鼻たれで、周りの顔色ばかりを伺う弱い子だった。……だからこそ、誰よりも『人の痛み』に敏感になった。おんしが守ろうとしちゅうのは、その弱さを知る強さながよ」

乙女の指が、カイの冷たい肌に熱を伝える。彼女の優しさは、甘やかしではない。相手がどれほど異形であろうと、その魂の根底にある「震え」を肯定し、支えようとする**「芯の通った覚悟」**だった。

「おんしは、龍馬の『頭』になろうとしちゅう。……でもね、カイ殿。頭だけじゃあ、人は歩けなくなる。時々は、その冷たい計算を休めて、この温かい飯の味を覚えとき。それが、おんしがこの時代に『おる』っていう証拠ながやき」

乙女はカイの皿に、自身が丹精込めて煮込んだ料理を一つ、静かに置いた。カイは、その料理を口に運んだ。味覚センサーが捉えたのは、ただの成分ではない。それは、自分のシステムがどれほど高度になろうとも決して生成できない、**「誰かを想うことの重み」**であった。

「……坂本様が、なぜこれほどまでに『生』に執着するのか。……ようやく、その数式の一端が見えました」

カイの言葉に、乙女は満足そうに頷き、龍馬の背中を力強く叩いた。

「龍馬! この子を独りぼっちにさせたら、承知せんきね!」




第一章:【泥濘でいねいのクロノス】

1-1. 計算違いの「距離」と「苛立ち」

——暗殺まで:残り42日——

1867年、秋。

京の街を包む闇は、粘りつくような湿気を帯び、油脂の焦げる匂いが淀んでいた。カイの網膜上で、赤いカウントダウンが非情な速度で刻まれ続けている。

(……間に合わない)

寺田屋から壬生、あるいは薩摩藩邸。直線距離にすれば数キロに過ぎないその道のりが、この時代の移動手段——己の足と、夜闇を裂く提灯の灯りだけでは、あまりにも遠すぎた。

電信もなければ、高速の移動手段もない。情報の伝達速度が、人間の「歩み」に縛られている。カイが22世紀で享受していた「即時性」という前提が、この明治前夜の泥濘に足を取られ、無残にわだかまっていく。

「チッ……」

無意識に、濡れた舌打ちが漏れた。

カイの指先が、激しい演算速度と現実の物理的な「遅さ」との乖離による過負荷オーバーロードで、微かに、しかし止まることなく震えている。泥水を跳ね上げ、洛中を奔走するカイの背後で、京の街は不気味なほど緩慢に、しかし確実に、龍馬の命日へと向かって回っていた。

[ 警告:時間リソースの浪費。暗殺回避確率、低下傾向 ]



1-2. 岩崎弥太郎の影

その夜、寺田屋へと向かう暗い路地の陰から、一人の男が転がるように現れた。

ボロを纏い、身なりは卑屈そのものだが、その瞳に宿る執念と劣等感だけは、京を跋扈するどの志士よりもぎらついていた。

「……坂本! 待ちやがれ坂本! どこにおるがか!」

岩崎弥太郎(弥五郎)である。長崎から龍馬を追い、土佐での再会を逃してまで、この魔都に辿り着いていた。カイは歩みを止めず、背後から迫る弥太郎のバイタルを解析した。

[ 解析:岩崎弥太郎。焦燥感、劣等感、および金銭への異様な嗅覚 ]

カイは足を止め、振り返った。月光に透けるほど白い肌の少年が、暗闇の中で弥太郎を見据える。その瞳には、感情の機微を一切排除した、機械的な静寂だけが宿っていた。

「岩崎様。坂本様は今、死の淵におられます。……あなたに、その命を買い取る覚悟はありますか?」

弥太郎はその異様な気配に圧され、思わず息を呑んだ。

「私は、未来の帳簿ちょうぼを付ける者です。岩崎様、あなたが一生をかけて築く『三菱』という巨大な城。それを砂上の楼閣にしたくなければ、私の相談に乗ってください」

「ミツビシ……?」

弥太郎は聞き慣れぬ言葉に眉を顰めたが、カイの瞳から溢れ出す「圧倒的な確信」と、得体の知れない「利」の匂いに、喉を鳴らした。


1-3. 壬生の拒絶と鬼の深層(土方歳三)

——暗殺まで:残り34日——

慶応三年、十月十日。壬生・八木邸の黒門の前。

カイは冷たい雨に打たれながら、三日続けてその場所に直立不動で立っていた。新選組の屯所。門前を固める隊士たちの視線は、不審者を見るそれから、次第に気味の悪い「異物」を眺めるものへと変わっていた。

「……まだ居るのか、このガキは」

門番の隊士が、苛立ちを隠さずに吐き捨てた。カイは答えず、ただ門を見つめる。

彼の網膜には、邸内の熱源反応と、そこから推測される「土方歳三」の現在位置が表示されていた。

(……三日。たった一人の男に会うために、私の活動可能時間の 7% が消滅した)

「土方先生に伝えろと言ったはずです。……今の新選組は、泥舟の上で刀を研いでいるに過ぎない、と」

カイの声が、静かに、しかし鋭く響いた。隊士が逆上し、槍の石突きでカイの胸を突き飛ばした。泥水がカイの白い頬を汚すが、彼の瞳からは一点の揺らぎも消えない。

四日目、ようやく通された薄暗い奥座敷。そこには、抜き身の刀のような鋭利な空気を纏った男、土方歳三が座していた。

「小栗の飼い犬が、何の用だ。……幕府の幕引きを、子供に説教される覚えはないぞ」

「土方先生。私は説教をしに来たのではありません。……救済の『計算書』を持ってきたのです。……土方先生、あなたが組織を固めるために切り捨てた、芹沢鴨、そして山南敬助。……彼らの遺志を、無駄にするつもりですか?」

語られるはずのない「粛正の真実」を突きつけられ、土方の指が、畳に置かれた刀の柄に凍りついたように止まった。カイは構わずに畳みかける。

「あなたが、自分の手を血で汚してまで守ろうとしたその組織は……このままでは、ただの『負け犬の群れ』として上野の山で散る。……それが、私の計算が導き出した、山南様が最も悲しむ結末です」

沈黙が支配する。数分にも、数時間にも感じられる、重い沈黙。やがて、土方は鯉口を切っていた左手の力を、ゆっくりと抜いた。

「……山南さんのことまで、お見通しか。……不気味なガキだ」

[ 命令:新選組の深層心理への介入、成功 ]

[ ステータス:土方歳三との信頼度 5% 上昇。身体負荷、限界値 ]


1-4. 沈黙の巨岩(西郷隆盛)

——暗殺まで:残り17日——

二本松、薩摩藩邸。西郷隆盛は、カイの言葉を「聞きはするが、答えない」。

七日間に及ぶ「沈黙」という名の拷問。西郷はただ庭で犬と戯れ、時折訪れる藩士たちと笑い合い、夜になれば豪快にいびきをかいて眠る。カイがどれほど「龍馬暗殺が薩摩にもたらす国家的損失」を説こうとしても、西郷は「……そうか、大変じゃな」と微笑むだけだった。

(……計算が合わない。論理的な説得、利益の提示。あらゆる入力に対して、この男は『沈黙』という回答しか返してこない)

カイのシステムは過負荷で青白く発光し、呼吸は浅く、体温は 40°C を超えていた。

七日目の深夜。意識が朦朧とする中で、カイは最後の力を振り絞った。言葉が通じないのなら、彼の「無意識」に直接叩き込むしかない。

カイは三晩徹夜し、薩摩が今後負うことになる「対英債務の推移」と、龍馬を失ったことで生じる「維新の10年遅延」がもたらす戦死者数の一覧を、血を吐くような思いで紙に書き上げた。そしてそれを、眠っている西郷の枕元に静かに置き、自分はその場に倒れ込んだ。

翌朝、目覚めたカイが見たのは、その紙をじっと見つめ、今まで見たこともないほど険しい表情で座る西郷の姿だった。

「……カイ。おんし、この『数字』は、本当にか」

「……計算に、間違いはありません。……西郷様、あなたが愛する『民』がこれだけ死んでも、まだ龍馬様を消しますか?」

西郷は長く、重い沈黙の後、立ち上がった。そして、カイの小さな頭に、その巨大な掌を置いた。

「……わっぜか、恐ろしかガキじゃ。……分かった。坂本さぁは、わっぜが守る。……その代わり、この『地獄の数字』、二度と誰にも見せるな」

[ 命令:西郷隆盛の組織的暗殺の放棄、確定 ]

[ ステータス:全システム強制再起動が必要。深刻なダメージ ]


1-5. 会津の絶壁(松平容保)

——暗殺まで:残り14日——

京都守護職、金戒光明寺。奥座敷には、凛とした、しかしどこか死を覚悟したような静寂が満ちていた。

目の前に座すのは、松平容保。カイは、勝海舟の伝令網で収集されたデータを容保の前に展開し、感情を排した冷徹さで言葉を重ねた。

「容保様。あなたが守ろうとしている『義』が、未来の子供たちの喉を切り裂く。明治元年。会津若松は火の海になります。鶴ヶ城は砲弾を浴び、白虎隊と呼ばれる少年たちが、あなたの自責を背負って自刃する。……それでも、あなたは坂本龍馬を殺させますか?」

カイは、小栗から託されたカード――「横須賀ドックにおける会津藩士の雇用と技術習得の特権」を提示した。

「……そして、手代木様。あなたの弟、佐々木只三郎殿。彼を暗殺者として死なせるか、それとも新国家の『法』を守る英雄にするか。……その選択は、今この瞬間にあります」

容保はゆっくりと目を閉じ、深く、重い吐息を一つ漏らした。

「……坂本龍馬という男、我らが見廻組の監視下に置く。……よいか、あくまで『監視』だ。法に背けば、その場で斬る」

容保はそう言うと、傍らの手代木を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、一藩の主としての威厳と、弟を死出の旅路に追わせたくないという、言葉にできない悲痛な「念」が滲んでいた。それは実質的な「殺害禁止」の秘められた命令だった。

[ ステータス:佐々木只三郎への実質的な『殺害禁止』の伝達を確認 ]


1-6. 狐の揺らぎと黄金の秤(岩倉具視)

——暗殺まで:残り7日——

京の北、岩倉村。薄暗い隠れ家は、雨に湿った古畳の匂いで満ちていた。

岩倉具視は、鉄箸で炭をいじりながら、低く笑った。カチ、カチと金属が触れ合う音が響く。

「岩倉様。……その『帝の御世を願う』願いの維持費は、いくらですか?」

カイは、小栗が託した「六百万ドルの融資計画」を闇の中に並べた。

「龍馬様を活かし、小栗様のドックと繋げば、新政府は建国初日から『外貨』を手にする。あなたが一生、賄賂や献金で集める額の、数万倍の富が、あなたの管理下に置かれることになる。……あなたが日本で最も裕福な『支配者』になりたいのなら、龍馬という『道具』だけは、壊してはならない」

岩倉は箸を置き、身を乗り出した。行灯の火が、彼の瞳を不気味に照らし出す。激しく炭を叩き、火花が散り、カイの頬をかすめる。

「……ククッ。ハハハハ! よい。この『黄金の秤』、私が預かろうとな。坂本の首にかかった縄、私が少しだけ緩めてやる」

岩倉は、カイが差し出した組織図の上に、自身の印を乱暴に、しかし正確に押し当てた。

[ 命令:岩倉具視による「政治的暗殺指示」の撤回を確認 ]


1-7. 近江屋、深淵の決戦

——暗殺まで:残り0時間——

慶応三年、十一月十五日、午後九時。

歴史の修正力という名の「巨大なバグ」が、カイの張り巡らせた論理の糸を、物理的な暴力で一本ずつ焼き切っていく。

「……来ました」

カイの網膜に、雨の闇を裂いて接近する複数の熱源反応が映る。闇に潜む岡田以蔵が、音もなく刀を抜いた。

「中岡様、灯りを消して! 伏せてください!」

階段を駆け上がってくる足音。佐々木只三郎が障子を蹴破り、その鋭利な殺気が龍馬の眉間を射抜こうとした瞬間——。

「——デバッグ、開始」

カイは、自身の眼球から直接、22世紀の「高出力ストロボ」を放った。真っ白なノイズが視界を埋め、只三郎の太刀筋が逸れた。刃は龍馬を逸れ、鴨居へと深く食い込んだ。

カイの視界には、**『システム臨界:機能停止まで 60秒』**の文字が点滅する。無理な発光により、鼻や耳から高熱を帯びた冷却液が混じった血が流れ落ちる。カイは震える手で、劇薬を仕込んだ針を、只三郎の腕へと突き立てた。

静寂。

雨音だけが、再び近江屋を支配した。カイは崩れ落ち、龍馬がその小さな体を抱きとめた。

網膜に最後に表示されたのは、青いシステム・メッセージ。

[ 暗殺シーケンス:回避成功 ]

[ 歴史の分岐点:デバッグ、完了 ]

「……坂本様。あなたは、まだ死んではいけません……」

カイの瞳から青い光が消え、物語は、誰も知らない「十一月十六日」へと足を踏み出した。

第二部 第一章:完


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