4話
白い壁に囲まれた無機質な空間に、ふっと静寂が戻った。
歴史の歪みを特定し、それを修正するための具体策――「秀吉軍偽装工作」という、正攻法とは呼べない奇策が採用された直後のことだ。
方針は固まった。だが、それを実行に移すためには、決定的に欠けているものがあった。
「さて、やることは決まったけど……肝心の物がなきゃ始まらないわよね」
青の涼やかな声が、何もない空間に響く。
彼女の視線は、虚空ではなく、部屋の隅にぽつんと置かれた古ぼけた家具へと向けられていた。
今回の作戦の要となるのは、羽柴秀吉軍の象徴である千成瓢箪の馬印と、金色の旗だ。敵軍にその存在を誤認させるためには、それなりの大きさとリアリティが必要になる。
だが、今の彼らが持っている所持品といえば、着ている制服と靴、そして先ほど床に散乱させた数冊の歴史書だけだ。旗にするための布も、瓢箪を作るための材料も、それを掲げるための竿もない。この殺風景な白い部屋には、ペン一本すら落ちていないのだ。
「……また、あいつの出番ってわけか」
昌幸は、諦めと僅かな期待を抱きながら、部屋の隅に鎮座するタンスの前へと歩み寄った。
近未来的なSF映画のセットのようなこの部屋において、昭和の生活臭を漂わせるその茶色い木製家具は、異物以外の何物でもない。しかし、先ほどはここから『戦国大名全史』をはじめとする専門書一式が出てきたのだ。もはや一般家庭にあるタンスとしての用途など機能していないことは明白であり、工作に使えそうなものが入っていたとしても不思議ではない。
昌幸はタンスの前にしゃがみ込み、その表面を指でなぞった。
(旗を作るための布や瓢箪を加工するための道具、紐なんか必要だ……。時代考証に引っかからない、古臭い素材があればベストだが)
昌幸は、先ほど書籍が入っていた段とは違う、下の引き出しの金具に手を掛けた。
本がぎっしりと詰まっていた時のようなズッシリとした重みはない。少し力を込めると、カサリという軽やかな音と共に、引き出しがスムーズに手前へとスライドした。
「……すごいな」
中身を確認した昌幸は、感嘆とも呆れともつかない声を漏らした。
引き出しの中には、あつらえたように鮮やかな金色の布が畳まれ、その横には大小様々な瓢箪そのもの、そして継ぎ足して使うための加工された竹材が隙間なく収められていた。
昌幸は金色の布を手に取ってみる。ざらりとした粗野な手触りだ。新品の化学繊維のような安っぽいテカりではなく、金箔をあしらったような重厚な輝きがあり、戦国時代の空気に馴染むようエイジング加工が施されているように見えた。
「ツイてるな。必要なものが全部揃ってる。おまけに時代考証済みだ」
「随分と親切なゲームマスターみたいね」
昌幸が抱え上げた資材を見て、背後から覗き込んだ青が冷ややかに鼻を鳴らした。
「プレイヤーが詰んでしまわないように、最低限のイベントアイテムは支給する。ゲームバランスへの配慮ってところかしら。……まあ、感謝して使わせてもらいましょう」
彼女の言う通り、自分たちがこうした手段をとることは、この部屋の管理者にとって想定内のシナリオなのだろう。その事実に踊らされているような不快感はあったが、今は使えるものは何でも使うしかない。
昌幸は資材を抱え、部屋の中央付近まで戻ると、白い床の上にそれらを広げた。
ここからは、即席の工作の時間だ。
「瓢箪の結び目、もっと固くして。当時の文献によると、馬印の瓢箪は房飾りと一緒に竿の先に吊るされていたはずだわ」
青は床に座り込み、『戦国大名全史』の資料ページを開いて細かな指示を飛ばし始めた。
彼女は今のところ、直接手を動かすよりも全体の指揮に専念するつもりのようだ。
役割は司令塔であり、時代考証の監修役。
歴史的な整合性に矛盾がないか、当時の技術で作られたものとして違和感がないか、その鋭い瞳で厳しくチェックを行うのが仕事らしい。
一方の昌幸は、作業員としての役割を黙々とこなしていた。
「へいへい、こんな感じか?」
昌幸はタンスから出てきた瓢箪に次々と紐を通し、竿の先端に取り付ける房飾りを作り上げていく。さらに、金色の布を竹竿に通し、風を受けてはためくよう補強を加えていく。
普段なら面倒だと投げ出すような作業だが、歴史研究部の文化祭展示で模型作りには慣れている。その経験が生きたのか、不思議と手はスムーズに動いた。大小の瓢箪をバランスよく組み合わせ、見栄えのする馬印を立体的に組み上げていく。
迷いのない手つきで次々と瓢箪を固定していく昌幸の手元をじっと見ていた青が、ふと呆れたような、それでいて納得したような声を漏らした。
「……相変わらず、無駄に手際がいいわね」
「何がだ?」
「去年の文化祭でも、あなたは展示用の模型を一人で黙々と作り上げていたじゃない。こういう地味な裏方作業だけは、本当に輝くわね」
褒めているのか貶しているのか判然としないその言葉に、昌幸は苦笑しながら手を動かし続ける。
「褒め言葉として受け取っとくよ。どうせ俺は、スポットライトとは無縁の人生だからな」
「そうね。主役の器じゃないわ。でも――」
青は次に必要な竹の留め具を、昌幸が手を伸ばすよりも早く拾い上げ、無言で手渡してきた。
「優秀な手足としては評価してあげる」
「そいつは光栄で涙が出そうだ」
軽口を叩き合いながらも、作業のペースは落ちないどころか加速していく。
昌幸が布を縫い合わせようと針を持てば、青が既に糸を通している。昌幸が竹の長さを調整しようとノコギリに手を伸ばせば、青が固定用の紐を準備して待機している。
視線を交わすこともなく、互いに必要な行動を先読みして動く。
二人の会話には棘があり、態度は冷ややかだ。傍から見れば険悪な関係に見えるかもしれない。だが、その連携は異常なほど噛み合っていた。毒舌と皮肉の応酬で成り立つ、高機能な共依存関係。それが、普段通りの二人の在り方だった。
やがて、白い部屋の床に、巨大な金色の旗と、瓢箪がぶら下がった馬印が完成した。
古びた布と乾いた植物の匂いが漂う中、昌幸はその馬印を拾い上げ、軽く振ってみせた。
竿の先でぶつかり合う本物の瓢箪と、その下で翻る黄金の軍旗。竹を継ぎ足して作った竿に、布を通すための横木をT字に固定する。簡易的な作りだが、遠目に見れば戦国大名の馬印としての威厳を十分に放っている。それは偽物でありながら、歴史を欺くための十分な説得力を持った大道具だった。
「……悪くない出来ね。これなら近くで確認でもされない限り、本物と区別がつかないわ」
青は、昌幸が作った贋作を冷ややかな目で検分し、短く合格点を出した。
彼女の完璧主義的な基準をクリアしたことに、昌幸は内心で小さく安堵する。
「手先が器用で助かったわ。あなたのその無駄な才能に感謝しないとね」
「どういたしまして。これで少しは部屋から出られる確率が上がったか?」
「ええ。ゼロからコンマ数パーセントくらいにはね」
青は冗談とも本気ともつかない数値を口にすると、スッと立ち上がった。
彼女の視線の先には、部屋の中央に鎮座するタイムマシンがある。
準備は整った。あとは、この悪趣味な装置に乗り込み、戦火の渦巻く過去へと跳ぶだけだ。
二人は完成した旗と馬印を持ち、タイムマシンの前へと移動した。
近くで見ると、その玩具のような外見がかえって不気味さを醸し出している。床から浮遊する薄いボディのコンソールで、赤いデジタル表示だけが静かに明滅していた。
「いい? 仕様を再確認するわよ」
青がモニターに表示されたカウントダウンの数値を指先でコンコンと叩く。
「このマシンにはタイムリミットが設定されているわ。タイマーがゼロになれば、成果に関わらず強制的にこの部屋へ転送されるでしょうね」
「なあ、ピンポイントで山頂に転移できないのか? それなら登山なんてしなくて済むだろ」
「無理よ。資料を元に座標を設定してみたけれど、大まかにしか設定できなかったわ。現代の資料には、当時の地形や時刻がそこまで正確に残っているわけではないもの。多少のズレ――今回で言えば山麓への到着は許容範囲内と考えるべきね」
「ちっ、やっぱり自分の足で登るしかないってことか……」
「ええ。それに、一度戻ってしまえば再度の跳躍が可能という保証はどこにもない。一発勝負だと考えたほうがいいわ」
彼女の声は淡々としていたが、その瞳には鋭い緊張感が宿っていた。
失敗すれば、二度とやり直せない。時間内に歴史を修正できなければ、この白い部屋の出口が開くことはなく、二人は永遠にここに閉じ込められることになる。
命綱なしの綱渡り。だが、昌幸の中に不思議と恐怖による足のすくみはなかった。退路が断たれたことで、逆に腹が据わったのかもしれない。
「役割分担を確認するわ」
青が昌幸を見据え、作戦の最終工程を口にする。
「現地では、私が司令塔として現在位置とルートを確認する。あなたは実働部隊として、私の指示通りに旗を運び、設置しなさい」
「要するに、西園寺様は高みの見物で、俺は泥まみれで走り回れってことだろ?」
「あら、適材適所よ。判断力に長けた私と、無駄に体力が余っているあなた。これ以上ない効率的な編成じゃない?」
彼女は悪びれる様子もなく、理路整然と言い放つ。
反論の余地がないのが癪だが、確かに彼女の頭脳と昌幸の手足が噛み合わなければ、このミッションはクリアできない。
二人の関係は、友情や信頼という温かいものではなく、生き残るための合理的な共犯関係だ。
「分かったよ。旗を立てればいいんだろ」
「ええ。歴史を修正し、この部屋から出るためにね」
青が先にタイムマシンのコックピットへと足をかけた。
狭い座席に彼女が滑り込み、昌幸もその隣の窮屈なスペースへと身を沈める。
身体が触れ合うほどの距離だが、そこに甘い雰囲気は微塵もない。あるのは、戦場に向かう兵士のような張り詰めた鉄の空気だけだ。
昌幸は背負った偽造工作グッズ――金色の旗と千成瓢箪を強く握りしめた。
これが、狂った歴史を元に戻すための唯一の鍵だ。
「行くわよ、稗田くん」
「ああ」
二人の同意と共に、タイムマシンの起動スイッチが押された。
唸りを上げて作動音が響き渡り、白い部屋の景色が歪み始める。
日常への帰還を賭けた、たった一度きりの賭けが始まった。




