青島攻防戦
攻略作戦は驚くほど順調に進みました
四十五式二十四センチ榴弾砲は次々とドイツ軍の要塞を破壊していきました
そしてそれが終わり私たち歩兵部隊が突撃し、要塞を次々に占拠しました
その影響で我が国とオーストリアとの友好の証であった巡洋艦がドイツの敗戦処理で沈められてしまったという悲しお出来事がありました
あの巡洋艦には少し仲が良かった者がいたのですが、今となっては行方が分かっておりません
彼は避難できたのでしょうか…それとも…
まぁそんな話は置いておきましょう
ともかく我々は破竹の勢いで進撃し、ついには11月7日に山にあった敵の重要な砲台を占領しました
そしてドイツ軍はその日のうちに降伏し、青島での戦いは我々の勝利で幕を閉じました
本国に戻ってからは指揮官であった光臣中将への批判をよく耳にしました
総攻撃を仕掛けたあとたったの一週間でドイツ軍は降伏しましたがあれは光臣中将の指揮がとても影響していました
にも関わらず臣民は彼に対して弱いドイツに対して一ヶ月もかけて準備した臆病者だとか慎重すぎるとか様々なことを言っていたものですよ
おっと、もう時間ですね
それでは私はここで失礼させていただきます
1921年5月13日露の記録
佐々木吾朗はその後1944年に戦死した
享年五十四歳であった
青島攻略戦は日本とドイツとの間で発生し、約3カ月の間続いた
この戦いでドイツは青島を失陥したが本国はそれどころでは無かったのと、物理的な距離が遠かったというものも相まってここを二度と占領しようとはしなかった
この戦いは日本陸軍史上最も合理的な戦闘を行った戦争の1つと言われている




