穴を掘る
むかし、オンボロ長屋に住む仁平という男がいた。働くのはまっぴらごめんだが、家にじっとしているのも気が滅入る。というのも、借金返済の催促に知り合いがひっきりなしにやってくるのだ。だから、彼はいつも町外れをぶらぶらと歩き回っていた。
そんなある日のこと。林のそばを通りかかったとき、ふと仁平は、地面にぽつんと突き刺さった一本の鍬を見つけた。
「なんでえ、こんなもの……」
少し錆びている。おそらく、誰かが捨てたのだろう。とりあえず拾ってみたが、金になるわけでもなし。仁平は鍬を手に、そばの丸い石に腰を下ろし、深いため息をついた。
「小判でも出てこきやしねえかな……」
仁平はそうぼやきながら、鍬の先で何気なく地面をつつき始めた。
ざく、ざく、ざく……。
ただの気まぐれだったはずが、掘り進めるうちに、これが妙に面白く感じられてきた。仁平は着物の上衣を脱ぎ、袖を腰のあたりでぎゅっと結び、気合を入れて掘り始めた。
汗がぽたぽたと額から落ち、背中を伝って着物帯を濡らす。息が上がるにつれて、体が軽くなるような感覚がした。今でいうところのスポーツ、あるいは現実逃避だったのかもしれない。
しばらく夢中で掘り続けていると、背後からふいに声がした。
「おーい、あんた。なんでそんなところに穴なんか掘ってるんだい?」
振り返ると、粗末な着物を着た男が立っていた。手にはボロボロの木の桶を持っている。
「いや、何ってわけでもねえけどよ……」
仁平はそっけなく答え、鼻を掻いた。説明するのも面倒だし、そもそも自分でもなんで掘っているのか、うまく言葉にできる気がしなかった。
「何か埋める気なら、ついでにこれも頼めないかい?」
男はそう言って、持っていた桶を差し出した。中には錆びた道具や割れた器など、どう見ても使い物にならなそうなガラクタが詰め込まれていた。
「いやあ、最近はお上の目がやけに厳しいじゃないの。こんなもん道端に捨てたら、すぐ役人が飛んできやがる」
「へえ、そうなのかい。捨てるほど物を持っちゃいねえから知らなかったよ」
「まあ、しょっぴいて銭を巻き上げる口実だろうさ。おっといけねえ、今のも一緒に埋めといてくれ。ほら、代金だ」
男は桶を仁平のそばに置くと、数枚の銭を手渡して、そそくさと去っていった。
こいつは思わぬ収入だ。ひょっとすると商売になるかもしれねえ。
仁平は銭を眺めながら、にやりと笑った。こうして、彼は『穴掘り屋』としての仕事を始めた。
町を歩き、いらなくなった物を引き取っては、小銭をもらう。そして林へ運び、ひたすら穴を掘ってそれを埋める。思いのほか人々には好評で、仁平の懐も少しずつ温かくなっていった。
そんなある日の夕暮れ。いつものように林の中で鍬を振るっていると、また背後から声をかけられた。
「よお、あんたが“穴掘り屋”ってやつかい?」
「へい、毎度! あっしがなんでも埋めてみせ……ましょう」
振り返った瞬間、仁平は思わず声を詰まらせた。そこに立っていたのは、鋭い目つきをした大柄な男。顔には刀傷のような二本の生々しい傷が刻まれていた。どう見ても、カタギの人間には見えない。
「なんでも、とは頼もしいねえ。じゃあ、こいつを頼むよ」
男は重たそうな布包みを地面に置き、その上をぽんぽんと軽く叩いた。
「ほら、代金だ」
「へ、へえ」
仁平はさっと膝で手を拭い、男から差し出された巾着袋を恭しく受け取った。ずっしりと銭の重さが伝わり、思わず息を呑んだ。
「もっと深く掘ってくれ」
「へ、へい……」
仁平は慌てて背を向け、鍬を再び土に振り下ろした。布の中に何が入っているのか聞く勇気はなく、ただ無心に掘り続けるしかなかった。
「まだまだ」
「へい……」
「まだまだ」
「へい……」
男の声は低く、背中に突き刺さるようだった。恐怖で手を止めることもできず、仁平は汗を飛ばして、ひたすら土を掘った。
太陽が山の端に沈み、あたりが薄闇に包まれていく。ちらと振り返ると、男の顔はすっかり影に溶け、輪郭すら曖昧だった。ただ、口元だけがかすかに動いているのがわかった。
「まだまだ」
「へい……」
いつの間にか、穴は仁平の腰の高さを優に超え、胸の高さにまで達していた。それでも、男は仁平に穴を掘らせ続けた。
だが、さすがに限界を感じた仁平は、かすれた声を搾り出した。
「あの、旦那。これくらいで、どうでしょうかねえ……?」
「まだまだ。誰かに見つかっちまったら、困るからねえ」
「へ、へい……で、でも、旦那。時間がかかっちまいますし……あとはあたしがきっちりやっておきますんで、どうぞお帰りになっても……」
「いやあ、仕事は最後まで見届けたい性分なんだ」
「へ、へい……」
仁平は冷や汗を拭いながら、なおも掘り続けた。沈黙よりも会話のほうが気まずく感じられ、ただ鍬を振るうことに没頭した。
だが、男が口を開いた。
「だがまあ、黙って掘らせるのも悪いなあ。ちょいと話でもしようか」
「え、あっしは別にその、平気ですがねえ……黙って穴を掘るのが好きなもんで、へへへ……」
「そうかい、そうかい。穴掘りが好きなのかい」
「へい、へへへ、これがなかなか、いい運動になりますしねえ……」
「運動ねえ」
「へい、人様のお役にも立ちますしね。へへへ……いやあ、楽しいなあ……」
「そうかい、それはいいことだ。ところで、他人に借金するってのも、穴を開けるようなもんだよねえ」
「へ、へえ?」
「そうは思わないかい? ほら、他人に金を貸すってのは、まるで袋に穴を開けるようなもんさ。財布の口とは別に、ぽっかりと穴が開いちまう。返してもらうまでは、その穴が気になって気になって、仕方がない」
「い、いやあ、あいにく、あたしゃ、人に金を貸したことがないもので……」
「その穴を塞ぐには、貸した金を戻さなきゃならん。だが、すぐ返ってくるとは限らない。毎日、毎日気にして、ああ、いったいいつ塞がることやら……」
「へ、へえ……」
「そんなとき、借りた奴が酒なんぞ飲んでるのを見ちまった日には……あんた、どう思う?」
「そ、そりゃ、腹が立ちますよねえ……でも、酒は元気の源、万病に効くとも言いますし……やむを得ずってことも……ははは……」
「仁平さん。あんた、いろんなところから金を借りてるらしいじゃないか」
「へえ!?」
「みんな困ってたよ。返してくれないって。駄目だよ、借りたもんは返さなきゃ」
「へ、へい……」
「だからね、私が代わりにまとめて返してやったよ」
「へ、へえ……? そ、それは……なんとも、ありがたいことで……?」
「みんな喜んでさあ。すっきりした顔してたよ」
「そ、それは結構なことで……でも、そうなると、あたしの借金は……?」
「全部、私のとこに回ったってことさ。大きな、大きな穴になったねえ。これは色をつけて返してもらわないと困るよねえ」
「そ、そんな……」
「さもないとさあ……」
「へ、へい! か、必ずお返ししますんで! だ、だからもう、この辺で……」
「まだまだ」
「へえ……」
「私がいいと言うまで、掘り続けるんだ」
「へえ……」
仁平は日が沈んでも、ひたすら鍬を振り続けた。星々に見下ろされながら、頭の先まで埋もれるほどの深さになっても、止まらず掘り続けた。
足元がふらつく。息が切れ、視界が揺れる。月の光も届かない、真っ暗闇の中、自分がどこを向いているのかさえ、わからなくなった。そしてついに、仁平は緊張と疲労の限界を迎え、その場に崩れ落ちた。意識がふっと遠のき、あっという間に眠り込んだ。夢も見ず、真っ暗な穴の底で、静かな寝息を立てた。
やがて、空が白み始め――。
「おい、起きろ。起きるんだ!」
「へ、へい!」
鋭い声が頭上から響き、仁平は飛び起きた。
「あ、あの、旦那……へへへ、怠けてたわけじゃなくてですね、あっ、へへへ、結構掘りましたよ」
仁平の言うとおり、穴は彼の身長の倍近くもあり、這い上がるのも骨が折れそうだった。見上げれば、空しか見えない。仁平は媚びるような笑みを浮かべた。
だが、穴のふちから顔を覗かせたのは、見知らぬ男たちだった。
「お前さん、こんな深い穴を掘って、いったい何を埋めるつもりだったんだ?」
「な、何をって、それはその……あの、旦那はどこに……?」
「この仏さんを埋めるつもりだったんだろ? 野犬に掘り返されないよう、しっかり深く掘ってなあ」
「ほ、仏! やっぱり、あれは仏さんだったんですかい!?」
「しらばっくれるな。お前がやったんだろうが!」
「ええ!? あ、あたしが、そんなことするはずねえですよ!」
「白状しな。お前さん、かなりの額の借金を抱えていたそうじゃないか。それを全部、この金貸しの男が肩代わりしたんだって?」
「へ、へえ……?」
「追い詰められて返せないもんだから、殺しちまったんだろう?」
「しかも巾着の金まで奪ったってなあ。そういう話があんだよ! さあ、さっさとそこから出て、奉行所まで来てもらおうか!」
仁平は腕を引かれて穴の中から引きずり上げられた。
わけもわからず、うろたえ、足がもつれて転ぶ。土の匂いに混じって、嫌な匂いがした。
顔を上げると、視界の端にあの布包みが映った。役人たちが中を改めたのだろう、その一部がめくれて死体の顔が露わになっている。
その顔に見覚えはなかった。だが、刻まれた二本の傷跡の位置は、紛れもなくあの男と同じだった。
ただ、その傷はずっと古びているように見えた。
一方その頃、町を離れた山道を、一人の男がゆっくりと歩いていた。その顔には生々しい二本の傷。
男は傷を指先でなぞり、薄く笑みを浮かべると、満足げに呟いた。
「穴埋めできて、よかったよかった」と……。