第5話 純喫茶ろまねすく
銀座――。
ショーウィンドウが燦然と輝き、電車と自動車、オートバイの喧噪けたたましく、目まぐるしく広告塔が「買えよ買えよ」と光線を全方位へ放つ。
照らされたモボやモガ、果ては|マルクスボーイ《見てくれだけ共産主義者(男)》に|エンゲルスガール《見てくれだけ共産主義者(女)》までもが資本主義の囂しい広告に心を躍らせ、ダンスガールやマッチガール、裏を通ればキッスガールまでもが、蓄音機から流れる現代音楽に身体を弾ませる。
嗚呼、絢爛豪華たるメトロポリス!
嗚呼、退廃と混沌、エロ・グロ・ナンセンスの坩堝!
――今となっちゃあ、ねぇ?
ミエコは銀座の表通り、出雲町から尾張町に向かって歩きながらぼんやりと居並ぶビルヂングを見上げていた。
関東大震災は遠い過去の出来事。
繁栄と衰退の波に揉まれた銀座は古く萎びた店は潰れ、時代の最先端を行くような店舗ばかりが表通りの看板を背負っている。栄枯盛衰の激しい波は帝都覆い尽くす。
――今は見る影も無し、ね。
ミエコは翻る国旗と旭日旗、窓辺を飾る勇ましい兵隊の写真に視線を滑らせながら嘆息を吐いた。
大衆の欲望が行き交う街、銀座。
憧憬と嫉妬が交錯し何処までもオシャレで、何杯ものリキュールに浸かる街。『時局』の収拾も付かぬまま、あれよあれよと戦争の只中に放り込まれ、気が付けばありとあらゆる場面で規制、配給統制が当たり前になりつつあった。
昨年には米穀配給統制法が、続いて十一月には精白割合にまで国が口を出してきた。今年度に入って米、味噌、醤油、塩、マッチ等が軒並み配給切符制になり、トドメを刺すように大増税の津波が庶民を押し流す。
自粛せよ――!
緊縮せよ――!
行楽も歓楽も消し飛ばす国の姿勢に恨みは募る。
いや――、国の時流に乗っかって民間団体が勝手に狂ったように叫んでいるのだから始末が悪い。やれ「健康日本」、「日本女性の美」と声高に絶叫し、絶滅危惧種のモガは更に肩身を狭くし、「人工的に堕落している」と目の敵にされるパーマネントや口紅、マニキュアという自由の灯火。
ミエコも多分に漏れず、規制しか出来ない政府とそれに連なる連中を心の底から侮蔑していた。
銀座の街々に往時の面影はない。
それでも全てを懐かしがることは出来ない。
夜の銀座なんて全く知らないし、カフェーに入り浸ったりもしていない。片手落ちの追憶を募らせながら、ミエコは寂しげな喧噪を離れ裏通りを覗いた。
――それでも、相変わらず仄暗いわね。
カフェー目的で『銀ブラ』となると、その実『銀ウラ』になって久しい。
仄暗い――それは戦時でも今でも変わらない。湿り気を含む暗がりに、昔はイエローやピンクの照明が立ち並び、口に出すのが憚られるサアビスが行われていたが、規制規制の大波に揉まれてひっそりと静まりかえっている。
有名なカフェーが軒を連ねる中、耳馴染みのないカフェを探した。
――そんな喫茶、あったかしら?
ロマネスク。
ローマ風の意だろうか。
ミエコは問いを巡らせながら、連なる看板に向けて視線を流していった。裏路地らしい湿った風が断髪を揺らせ、膝丈のスカートが僅かに翻る中、歩みを進めながら脳裏を過るのは昨夜の出来事。
――磯子が落ちたのよ。
彼女の身体が宙を舞い、月光を浴びた窓硝子が砕け散り、その光景は今でも鮮やかに思い出せる。
なのに無事だった――。
傷一つ無かったのだ――。
不気味さを押し殺しながら彼女を負ぶさり、部屋まで運び入れ独り退散した。残した硝子もそうだが、磯子を運んでいる間も布団に入った後も、胸中拭いきれない不安で一杯だった。
そして今日の朝、磯子に会ったが彼女は「昨夜はぐっすり寝てたわよぅ」と言うばかりでアッケラカンとしている始末にミエコは慄いた。
――何も覚えていない。
学校は平穏そのもので、昨夜の異変を口にする者は僅かに『経年劣化した窓枠が夜中に外れて落ちた』という廊下の片隅で耳にした教師達だけで、他には誰もいない。
まるで嘘のように事件は起きていなかった。
――あの声の言う通りに。
――あの鏡。
――傷一つない磯子。
――響き渡った男と少女の声。
化け物が人を殺しかけたというのに、何も起きていない事になっている。それも誰かの差し金で。
やはり全てを煙に巻かれたままなんて納得がいかない。あの少女の指摘の通りだとしても、自分の眼で、手で真実を見なければならない。
――あの鏡はまだあそこにあるのだから。
視線を流すうち、ふと目を引いたのは、とある木製の看板だった。コーヒーブラウンの木目調が温かみを帯び、白地で「純喫茶ろまねすく」とひらがなで書かれている慎ましい看板だった。
――目的の喫茶店。
――こんなところにあったかしら?
看板の背後に聳えるのは大きな硝子張りの喫茶店だが、店内には簾が掛かり中の様子は窺えない。煉瓦造りの塀はモダンな趣を漂わせていたが、逆説的に言えば何の特徴もなく、自然と街に溶け込んでいるとも言える。
ミエコは僅かな戸惑いを覚えつつも、未知なる場所への好奇心にも背中を押され、硝子戸を静かに開け放った。
カランコロン。
甲高いドアベルが響き、喫茶店独特の僅かに曇った香りがミエコの鼻腔を擽った。
――普通、ね。
第一印象は至って平凡だった。
奥に置かれた蓄音機が邦楽歌謡を唄い、焦げ茶色のカウンター越しに、黒いベストを着こなした男の給仕が黙々と食器を洗っている。くすんだ壁の色に、鼻腔に刺さる煙草の臭い。
――すぐに分かるって言ったわよね。
眉を顰めながら脚を進め、何気なく視線を簾で隠れていた座席に流した。
「あっ」
思わず声が漏れた。
成る程――、すぐに分かった。
入口からは見えなかった壁側の座席。壁一面がソファーになっており、4人掛け座席が幾つか設けられている。
その一角――、男と女が二人。
肩を並べてミエコを見つめていた。
男の方は――、真っ黒いスーツに白いシャツ、真っ黒いネクタイ――、葬式にでも向かうかのような出で立ちである。整った髪型と端整な顔立ちだが、ミエコは直ぐさま『鼻筋の通った芥川龍之介みたい』と心中呟いていた。
年齢は傍目には分からぬが20代――だろう。言い知れぬ何かが宿っていそうな黒い瞳に、僅かながらの怖気がミエコの背筋に走った。
そして――。
「本当に来るなんて、随分と肝が据わってるわね」
冷たい。
あの時もそうだった。
頭ごなしに侮蔑する少女。
年の頃は私と同じだろうか――、とミエコは眉を顰めて少女を見た。
黒い巫女服に身を包み、同じく黒い千早の裾が薄暗い店内で微かに揺れている。しなやかな長髪を飾る金色の簪が鈍く輝き、端正で細長な日本人形のような顔、その目付きは値踏みするかのように鋭く冷ややかだ。
――この子、一体。
喫茶店に流れる柔らかな音楽とは裏腹に、静かな緊張感が漂う空間で、ミエコは知らず知らずのうちに拳を握っていた。